「都会と田舎」考

先日、東京都港区の南青山で児童相談所設立に関して地元住民が「迷惑施設」として反対するという“事件”がありました。反対の理由が「貧乏人が住むところではない」と言ったことから、反対者に対する反論が大きくなり、“事件”そのものはなんとなく収束したようです。しかし、この問題、よく考えると、結構根深いところに、或いはもっと本質的なところにそのポイントがあるように思えます。私は、「南青山」という都市空間の話であることから頭にすかさず「都市と田舎(農村)」という図式を思い浮かべました。東京というメトロポリタンの肥大化が進むにつれて、地方(田舎)の疲弊は逆倍速化しています。そして、それは、都会における「貧富の差」「格差」という現象とまさに同期しています。イギリスの社会学者のレイモンド・ウイリアムズ(1921-88)という学者は、この「都会と田舎」の関係の研究で知られていますが、彼は『資本主義の本質は,世界を「都会」と「田舎」に分け,「田舎」に分業体制を押し付ける「都会」の戦略にある』と述べています。確かに、資本主義がグローバリズムにまで進展し、国境を超える経済の発展は、「国家」を超える存在となりつつありますが、逆に世界の各都市(メトロポリタン)の肥大化も相当進んでいるようです。先日、東京都の小池知事が国に対して、都市から地方への税源移転に反対していましたが、これもある意味大都市が国家を超える存在になる先駆けのようにも私には思えます。先述のウイリアムズの論を借りれば、近代西欧列強による植民地政策は、植民地が都市(メトロポリタン)の食料や原材料の供給地となっていることから「(植民地は)「都会」が牛耳る分業体制に「田舎」として組み込まれた」構造となっている、ということですが、現在の日本においても田舎(地方)が都会の食料供給地であることは間違いなく、それはグローバリズムの中では、国境を越えた田舎(地方)をも包含するものです。このような西洋列強の近代化路線にノーを突きつけたのが、インドのガンジーです。彼はインド独立の父と言われているので、彼の行動の対象は、「国家的」なもののように思われがちですが、彼の「非暴力」という手段はじつは目的であり、「非暴力社会」こそがかれが目指したものです。彼が唱えた「スワラージ」というインドの言葉は「自治、独立」を意味するものですが、ガンジーの真意はまさに「自治」であり、それはかれの「村落共同体」志向でもある南アフリカにおける「フェニックス農場」の開設にもみられるものです。ガンジーが近代西洋文明を「病」とみなし、植民地支配を「暴力」とみなし、「本当の自治とは自己を統治すること」と言っています。一方、日本でも柳田國男が日本の村落共同体の崩壊について述べています。柳田は、日本の村落共同体が崩壊したのは、明治政府による「二重行政」であるとして、それまでの住民自治が基本の「自然村」に上から住民を支配する制度の「行政村」を被せたことがその要因としています。アジアのガンジーと柳田が西洋的なものに対する否定的な態度とともに「村落共同体」に新たな可能性を見ていたことは注視しされます。さて、少し話が難しくなりましたが、「都市と田舎」の関係を再認識し、その対立構造を果たして解消できる方法或いは考え方というものがあるのかを問うことの必要性を益々感じます。現在、各地で「都市農業」への取り組みがにわかに出てきています。或いは、オリンピックを背景としたいわゆるインバウンド対象として地方がクローズアップされています。しかし、これらの取り組みも結局は「都市の分業の一環」として行われるのであれば、その限界性のみならずメトロポリタンだけの肥大化に益々拍車をかける行為にしかならないのではないか、という危惧はあります。銀座一坪の地価が1億3千万円という話は、冒頭の南青山の“事件”は、その根底に「都市と田舎」の関係をある意味象徴しているのではないかという思いをある意味傍証するものです。そういう意味では、八王子恩方地区で私たちが取り組もうとしている『山菜プロジェクト』の意義は意外と奥が深いものであるかもしれません。それにしても、個人的には都市(メトロポリタン)を敵視すべきなのか、或いは共存を目指すべきなのか、今でも迷うところです。

<DIAGOエコロジー村通信2019年1月号投稿>

地球温暖化と国際政治

科学史家で思想家でもある米本昌平氏(東京大学教養教育高度化機構客員教授)の論考は興味深い。彼の2017年3月の『トランプ時代における地球温暖化問題の行方』によれば、地球温暖化が突然のように国際的な重要課題となったのは、「それは一にも二にも、89年11月にベルリンの壁が崩れ、米ソ核戦争の恐れが急速に薄まったからに他ならない」(米本※以下同)ということだ。冷戦期における米ソ両陣営が最大63000発の核兵器保有しにらみ合うというワールドワイドな脅威が、世界の構造の枠組みを決定する重要な要因であったのだが、ソ連崩壊により、「核戦争防止のために何重もの国際的な枠組みが不要になった」(※)ので、国際政治は、「核戦争の脅威に代わる新しい脅威を必須のものとした」(※)背景の中から選び出されたのが「地球温暖化問題」だと言うのである。確かに、1992年の国連気候変動枠組み条約成立以前にも地球環境の問題は意識されていたが、「フロンガスによるオゾンホール」「砂漠化」「大気汚染・酸性雨」「土壌水質汚染」などとパラレルにワナオブゼムでしかなかった地球温暖化」がなぜ突出したのか。米本氏はその大きな要因となったのは、冷戦崩壊により東西に分断されていたドイツが統一ドイツとして新たに欧州の大国となることに、イギリスとフランスの猛反発があったことを挙げている。欧州の歴史から見て、イギリス、フランスにとってのドイツはやはり脅威となる国であり、それが統一されることでより一層その脅威は欧州覇権として大きなものとなる。これらの他国の疑問疑念に対して統一ドイツは西ドイツ議会報告書『地球の保護』をまとめて、統一ドイツの国力を軍事ではなく新たな脅威と認識されつつあった環境問題に力を注ぐことを決定、同時に欧州共通通貨の創出のために、最強通貨であるマルクを供出することも約束した。このようなドイツの努力に、統一に難色を示していたイギリス、フランスの一定の同意と評価が得られ、その後のEUが「地球温暖化」を主目とする環境問題を外交として展開していくきっかけとなる。イギリスは、この「地球温暖化」の原因として「二酸化炭素」を指摘し、それが「炭素取引」という金融的展開につながって行くのは、その後大いに知られているところである。ところが、ここにきて、トランプが「地球温暖化はフェイクだ」と言ってきた。実は、プーチンも「地球温暖化はというものは存在しない。これは、いくつかの国の産業発展を抑制するための欺瞞だ」(ニューヨークタイムズ)と述べている。米本氏の論考にかんがみれば、かつて核兵器で世界的な脅威を競い合った米ソ(露)が、今は不思議なことに両国の首脳が同じ発言をしていることの符合は、国際政治は常に世界規模の脅威を必要とする法則(米本氏の言を借りると「脅威一定の法則」)があり、トランプとプーチンにとっては少なくとも「地球温暖化」はそのような国際政治の構造を決定する脅威としては「ふさわしくない」という認識なのではないか。一方、もう一つの雄国の中国はどうか。先般のCOP21におけるパリ協定への中国の対応は実に積極的である。中国は「地球温暖化問題というのは、世界貿易機関WTO)参加と同じようなインパクトがある」(中国政府高官)という認識があり、自国の経済発展に伴う環境技術水準の向上とともに、軍事戦略と並行しての経済戦略として環境問題をとらえている。米露が「地球温暖化」へそっぽを向いているときに、漁夫の利とばかりに積極的に「地球温暖化」に取り組む姿がそこには見える。このように見ていくと、「地球温暖化」が国際政治にとっても非常にセンシティブ且つ重要なキーワードとなっていることがわかる。分裂するEU、大国米露中、台頭する新興国など、世界をめぐる覇権争いはますます複雑化、カオス化が進む中で、「地球温暖化」を国際政治の大きなファクターとしてそのヘゲモニーをだれが握るのか、或いはフロンガスのように「地球温暖化」は単なる異常気候の一つという”地位”に格下げされるのか、ある意味非常に興味ある視点ではないだろうか。

<低炭素ニュース12月号>

皮膚感覚的他者感覚

以前も「エコロジー村の人たちはなぜ仲が良いの?」「エコロジー村はなぜこんなに長く活動できるの?」という質問が多いということを書きました。その時は「炭を焼くという共通の行為が共同の価値を醸成した」というような主旨を展開しました。(2018年3月号【チャーチルの寓話とエコロジー】)。ところで、今の時代、世の中を眺めていると、異国・異民族への排外的行為、すべてを裁判に委ねる訴訟の多さ、イジメ、、、etc、他者への攻撃的行為が上は政府から下は学校、職場、家庭或いはネット上にまで広く蔓延しています。ちょっと前に「今だけ、金だけ、自分だけ」というブラックジョーク的標語が流行りましたが、今の社会の側面をよく表していると思えます。なぜ、このように他者に対して攻撃的になるのか、については心理学的には「自己防衛本能」という説明もあります。つまり、「何か知らないが自分を取り巻く不安」があり、それから身を守ろうとする「自己防衛本能」が「他者攻撃」という行為を通じて「自己を正当化」することによって、その「不安を取り除く」ということです。原因は「不安」ということですが、人間である限り「不安」はついてまわるものであるので、そもそもこれから逃れようとすること自体に根本的間違いがあるのかもしれません。しかし、「自己防衛本能」は生物としてなくてはならない「安全」上の重要な要素です。この重要な生物的要素が自己を守るために他者を攻撃する、言葉を変えると他者を「食い物にする」という行為に一方的に走ることが問題ではないか、という疑問(回答仮説)が出ます。「他者攻撃」の最たるものが「戦争」ですが、日本の敗戦直後に思想家の丸山真男はこの「戦争」を排除できる一つの考えとして『他者感覚』ということを述べています。彼(丸山)は「(他者感覚とは)お互いを理解しあう”対話”(※会話ではない!)が必要であり、”対話”が成立するにはその人の考えの底にある言葉を掘り起こし、汲み上げること」と定義づけました。丸山さんは学者ですからどうしても説明が固くアカデミックな表現になりがちで、ちょっと頭をひねらないと理解できないところもありますが、この「他者感覚」とは巷よく言われる「人の立場に立て」ということと同義ではないか、とも思うのですが、丸山さんの考えはそのような単純な「倫理道徳」段階ではなく「民主主義」の根源のところでこの「他者感覚」という観念を用いているようです。さて、丸山さんの意図したところは別として、冒頭の「エコロジー村はなぜ・・・・」という疑問へのもう一つの回答が、この「他者感覚」というものの存在ではないか、と私は思います。つまり、エコロジー村のメンバーに共通しているものに「炭焼」という行為と「他者感覚」という意識の二つがあり、それが「エコロジー村」の存在を象徴しているように思えます。先ほどの丸山さんほど突き詰めたわけではありませんが、この感覚は頭で考える「思考感覚(観念)」ではなく、もっと自然的な或いは環境的な体自身が反応する「皮膚感覚」のようなものではないでしょうか。「恩方というなんの変哲もない里山で炭を焼く」という行為は、実は、口、鼻、耳などの受容感覚に多くの刺激を与え、他者と競争しあうことで自己を確立していかなければならない都会とは違う、自然に生かされているという意識を持ったことにより、この「他者感覚」というものが生まれくるのではないかと思います。なぜならば、私自身が生き馬の目抜く都会において他者攻撃的生活を是とした過去があり、しかし、そのような過去も「エコロジー村」という環境の中で、「他者攻撃」から「他者感覚」へと気持ちが移行してきたという経験を持つからにほかなりません。これはほかのメンバーにも大なり小なり共通しているのではないかと思います。そして、この「他者感覚」は人から人へとお互いの皮膚を通して、まさに丸山さんの言う「会話」ではなく「対話」が成立し、自然とエコロジー村のメンバーの他者感覚的つながりを形成している、という風に私は考えますが、みなさんいかがでしょうか。

<DAIGOエコロジー村通信12月号>

『落陽』考

学生のころは拓郎の曲なんて「ヤワ!日和見!」などとしか思ってなかったのだが、最近、ちょっとギターを弾きだしたこともあって、拓郎の曲をなんとなく歌っていると、「おっ、」と思わさせるところがある。あのわずか20代前半あたりで、こんな詩を歌っていたとは、やはり拓郎はある意味天才か、と思うが、しかし、作詞作曲が拓郎自身のものはやはりどこかに若さが残っているのだが、岡本おさみと組んだ曲は全くその意味がより深くなっている。特に『落陽』はその最たるものだ。これは岡本が北海道一人旅の途中の老人との出会いがモチーフとなっているのだが、詩の内容もほぼ実話に近い。岡本が苫小牧の古本屋で出会った老人は、その風体に似つかわしくなく「政治評論の厄介な本」を読んでいたそうで、ちょっと声を掛けたところからこの老人との即興的物語が始まる。このあたりの詳細な話は岡本の『旅に唄あり』(1977年)を読んでもらえばよいのだが、古書扱いで10000円近くする代物となっているので、ネットあたりで検索すれば断片情報で少しは分かるかもしれない。岡本が老人との会話を思い出しながら書いている。

「今、どうして食べてるんですか」

「ルンペンですよ」

「どんなきっかけでルンペンになられました。昔の職は?」

「あんたは文章を書いていらっしゃいますが、私も昔はそういうことを志しておりました」

「小説、ですか」

「昔の話ですからね。評論ですよ」

「どんな評論ですか」

「それはもう捨てましたから。アカだと言われて追われました」

「戦争中ですね」

「息子は戦争で殺されましたよ」

「お名前をうかがっていませんが」

「名などありません。評論家をめざしたころもありましたが、書く気持を失くしましたから」

「御家族は?」

「忘れましたよ」

「結婚は」

「しました」

「奥さんは」

「逃げてしまいました」

「ルンペン生活は書かれなくなってからですか」

「絶望、っていうんですか、そういう時期もあったようですが、ルンペンの生活はいちばんいいですよ」

「戦争に協力したくないからですね」

「それも昔のことです」

「今でも本は読まれますか」

「本屋で立ち読みしますが、臭くてきらわれますから、ほとんど本屋にもゆきません」

「ルンペン生活からみて、どんな印象をもたれますか」

「みなさん生活が豊かで、幸せそうです」

「そんなふうにみえるわけですか」

「食べることには不満のない生活を送っている人の文ですよ」

 

★・・・・・・・・・・・・・・・・・・(『旅に唄あり』より)

 

この出会いから生まれたのが「落陽」だ。岡本はこの老人から賭場(チンチロリン)へ連れて行かれ、そこで老人からサイコロを二個もらったそうだ。

この時の出会からあの『落陽』の詩、特に「♪~じいさん、あんたこそが正直者さ。この国に賭けるものなどないさ。だからこうして漂うだけ~♪」と書くことができる岡本の感性は、やはり凄いものがある。これは想像でしかないが、拓郎はこの詩のこの部分に多分衝撃を受けたのではないだろうか。とはいえ、拓郎もやはり繰り返しになるが天才だ。この詩からあの『落陽』の曲を作るとは。今でも、拓郎はコンサートで必ずこの「落陽」を歌っているのだが、50年近く前の感性が、拓郎の好きなフレーズ「時の流れ」を経て、今まさに『落陽』がこの全く不条理と化した社会にある意味でふさわしい曲になりつつあるのではないだろうか。この旅先の老人とは少し経験が違うが、「大学処分」「離婚」「破産」、、、と経験した私の身には、この『落陽』はまた格別に響く曲なのである。そして今夜も独り部屋でまた『落陽』を歌いながらわが身を振り返るのである。

コミュニケーションロボット

先日、ある温泉に行った時のこと。休憩室である会話が聞こえてきました。一方は確かに人間の声なのですが、もう片方はどうも子供の声ではあるがなにか機械音です。そっとそちらの方向を見ると、高齢のご夫婦と思しきお二人のうち、女性の方が何やら片手に人形のようなものを持って話しかけており、それに人形が答えていました。人形と見えたのは高さ(この場合“身長”というべきでしょうか?!)50センチほどでしたが、かわいらしい声で応答しています。女性が、「ここからの眺めはいいですよ!」というと人形は「それはよかったですね!」などと応答しています。私からすれば実に奇妙な風景にしか見えませんでしたが、気になり、いろいろ調べてみると、このような人形はコミュニケーションロボットというらしく、トヨタソニー、NTTなどの大手企業をはじめ、タカラトミーや或いは博報堂などからも製品が出ているとのことでした。また価格も高いものは30万円代から安いものは4000円代まで、かなりな幅で売られています。今はやりの人工知能(AI)という技術などを搭載しているようですが、子供の教材用から高齢者の介護用まで、その用途もこれまた多種多様です。私が目撃したロボットは、高齢者に人気が高い「Palmi」(パルミー)というものだったようで、「ご年配の方がペットの感覚で買われていくことが多いですね。とくにメカ好きな男性に人気があると感じます。ご両親へのプレゼント用に購入される方も少なくないですね」という家電小売りの担当者の感想が述べられています。この「Palmi」(パルミー)は、購入時は人間の赤ちゃん同然状態ですが、持ち主たちとの交流を通して徐々に言葉や掛け合いなどを学んでいくのが特徴で環境によって個性が自然に生まれる、という代物だそうです。確かに人間不信の時代には、人間よりも機械の方が信じられる、ということかもしれませんし、それほど目くじらを立てる必要もなく、子供の人形が少し賢くなったもの、というくらいの認識でも良いのかもしれません。しかし、それでもその先に来るものを考えると、やはり「ちょっと待てよ!」と言いたくなります。私は別のところでよく引き合いに出すのですが、大阪大学石黒浩さんという教授の方がいらっしゃいますが、彼は自分自身のアンドロイドを作ったり、最近では夏目漱石のアンドロイドを作成し、先日は二松学舎大学で「アンドロイド(ロボット)にも人格権がある」という論などを展開しています。確かに、AIの技術は目を見張るものがあり、例えば24時間フル稼働の為替、株式取引の世界ではほとんどAI任せになっているという話や、或いは軍事技術においてもAIの導入はすさまじいものがあるようです。その石黒さんは、「最後は人間も無機物になる。それは進化ということだ」と「えっ」と耳を疑う言葉を述べています。AIの無定形な乱用に対しては、亡くなった英国の物理学者のスティーブン・ホーキング博士や最近ではマイクロソフトビル・ゲイツ氏も警鐘を鳴らしていますが、果たして私たちは、石黒氏の言うように「無機物」目指して“たゆまぬ努力”を行っているのでしょうか!「所詮機械さ!」という見方もありますが、私にはどうも嫌なものを感じざるを得ません。皆さんはどう思われるでしょうか?ちなみに、炭焼きは有機物を無機物に変える工程ですが、私たちの日常生活も炭焼きの工程をたどっているのでしょうかね。

<DIGOエコロジー村通信2018年10月号より>

 

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異常気象の量子力学的解釈

 今年の夏は世界的にというか主に北半球で猛暑、豪雨の異常気象に見舞われ、ついでに言えばわが国では高震度の地震が連続して起きました。地震はともかくも、異常気象については、気象学という学問領域において、異常気象と人為との関係を分析する「イヴェント・アトリビューション」という分析手法があるそうです。というのは、異常気象を気候変動、いわゆる地球温暖化に直接結び付ける言説はいまや世界中を席巻していますが、あまりにも極端な異常気象の説明を常に求められている気象学者の間では、「異常気象と温暖化を直接結び付けることは不可能」という回答にならざるを得なかったのですが、この分析手法により、「異常気象と気候変動(温暖化)の関連性の可能性の確率」が判明したそうです。分析学者は、この関連性を「喫煙と肺がん」の関係と類似している、と述べています。すなわち、各個人の肺がんが喫煙によるものと断言することは不可能ですが、喫煙とがんの間の関係性を見いだせることと同じだ、という訳です。因果関係では説明できないことを相関関係で示すということですが、いわば状況証拠にその根拠を求める姿は、科学「主義」的見地からみると、「なんだ、そんなことか!」と言わざるを得ないかもしれません。しかし、視点を変えてみると、相関関係とは異常気象という結果の元となる原因が複数あるということでもあり、気候変動に主を置くのではなく、他にも要因が考えられる、ということも言える訳です。
 ところで、人間の歴史を振り返ると、異常気象に代表される天変地異と人間社会における人間の所為との関係については、洋の東西を問わず特に宗教的見地から様々な言説がなされてきました。わが国では、日蓮立正安国論における天変地異論が特に有名です。立正安国論では、天変地異の原因について、世の乱れ、人治の乱れがその素であることを仏教の経典解釈から述べているのですが、近代の科学的根拠からすればまさに一蹴される論ではあるけれども、どこかそれを否定できない心情=意識があるように思えます。というのは、量子力学の世界では、この「意識」というものを「物質(エネルギー)」として扱えるのではないか、という仮説のもとに様々な現象を検証していますが、米「タイム」誌の「世界で最も影響力がある100人(2014年度)」にも選ばれた、再生医療の専門家ロバート・ランザ博士によると、彼は「物質ではなく生命と意識こそ現実理解のための基礎的な要素である」と断言、「意識は肉体的な死とは別物である上、脳が意識を生み出しているわけではない」という見解を述べています。
 さて、このように「意識」というものが「物質」とは全く「別物」のエネルギーであるとすれば、先ほど述べた、異常気象と人間の所為という間にも何らかの関係性が成り立つのではないか、ということも言えそうな気がします。言葉を変えると、量子力学という世界の中に、「科学と宗教」を結びつける新たな概念が存在するともいえるでしょう。話が、いわゆる「トンデモ」の方向へ行っていると思われそうですが、或いはSFマニアチックなお遊び解釈と指摘を受けるかもしれませんが、昨今の人間社会の様々な不条理を見せつけられている身からすれば、救いをそのようなことに求めているのかもしれません。ちなみに、まじめに(笑)「天変地異と人間」を研究しているユニットが京都大学にあります。その名も「宇宙ユニット」というのですが、研究会名もズバリ「天変地異と人間」です。ユニットの趣旨は「科学と宗教を介した人間と宇宙(天変地異)の関係を考えよう」というものだそうです。(下記参照)

 

天変地異と人間(第2回)

 

<低炭素ニュース9月号投稿>

情報機器と情報危機

7月末に、使用しているパソコンがマルウエアというウイルスに感染、対策をいろいろ講じましたが、結局再インストールしかない、という状況に陥った直後、今度は携帯を紛失するという事態が発生しました。さすがに事態発生直後は少々あわてましたが、「これは(ライフスタイルを変える)いい機会」とばかりに、再インストール作業も携帯捜索も一切やらない、と決めたのですが、決心した瞬間から、自らの生活基盤が完全に「情報機器」に依存していることに改めて気づきました。
 その依存も自主的能動的依存というよりは、そうせざるを得ないまさに隷属状態であることにも衝撃を受けました。思い起こせば、単なる文書作成あるいは軽易な演算を行うスタンドアローンとしてのパソコンが、ネットワークという「情報通信」機器に進展した結果、「便利と効率」という概念に支配された状況が発生しました。今では死語となっている「マルチメディア」という概念は当時はまさに「夢の世界」であったのですが、あっという間にその世界は達成され、その後の世界は、現在の「国民皆スマホ保有」ともいうべき状況になっています。私が思い立った「ライフスタイルの変更」は、この社会というものと根本から決別しない限り不可、ということを思い知らされたわけですが、これを嘆くのではなく、いわば「歴史の流れ」として捉えるという見方は西洋合理主義的には間違っていないと思われます。 つまり、これらの情報機器はまさに科学技術の進展の結果であり、その結果が次の状況の原因となり、新たな状況を生んでいくという、「原因と結果」の尽きることない永久の流れが「歴史」であるという認識ですが、スマホもその流れの中に位置づけられるわけで、すなわち西洋合理主義的思考としては、現在の状況を肯定的に受け止めなくてはならない。その西洋合理主義が生んだ最大最強のイデオロギーである資本主義システムの中に、「情報機器」を媒介として、まさに「便利と効率」を追い求める社会システムが存在しており、そのシステムの一つの構成単位として人間が存在している。これは、社会システムのために人間が存在するのか、人間が存在するために社会システムがあるのか、という真逆の問題を含んでいるように思われます。
 先述の「原因と結果」を歴史の根本原理とみるならば、そもそも「原因」を形作る「意図・動機」というものがあるはずであり、状況論的に歴史を見るのではなく、人間として生きるとはどういうことなのか、という「意図・動機」への思考とその解明も必要に思われます。「意図・動機」の思考と解明が自らの「ライフスタイル」を主体的能動的に形作られることができるのではないか、という思いに至らせてくれた、私にとっての「情報機器」ならぬ「情報危機」の経験でした。