英語と日本語と語学教育論

先日の内閣改造環境大臣に就任したばかりの小泉進次郎氏の英語発言が議論を巻き起こしています。彼は、「環境問題はセクシーであるべきだ!」と発言、それに対する賛否両論があるようです。否定派は、彼の大臣資質を疑い、肯定派は、「上手い表現だ」(在米ジャーナリスト)と評価しています。いずれにせよ、「セクシー」という語彙の意味をめぐり、日本人的感覚と英語圏的感覚の齟齬が発言騒動の主因となっています。明治維新後の初代文部大臣となった薩摩藩士の森有礼はその著書『日本の教育』で「我々の貧しい言語は、英語の支配に服すべき運命を定められている。<中略>日本の言語によっては国家の法律を決して保持することができない。あらゆる理由が、その使用の廃棄の道を示唆している。」と言って、「日本語廃止英語採用論」を唱えました。この発言は、当時の国内外で物議をかもしましたが、当時の米国の言語学者イリアム・ホイットニーも「土着言語の日本語による教育こそが日本の社会的発展にとって必須である」と述べ、大勢は彼の発言に対する否定でした。ただ、ホイットニーは森の論を単に否定するのではなく、「漢文/日本語の二層言語状態に替えて、英語/日本語の二層言語状態にすべき」と提案しています。一方、日本国内では、土佐藩士で自由民権運動の旗手でもあった馬場辰猪が森有礼批判の急先鋒でした。他の批判がどちらかと言えば非論理的(感情的)批判の中で、馬場は非常に論理的に批判を加えています。彼は、著書『日本語文典』の中で、強圧による外国語導入によって生じる二言語併用体制がもたらす国民的悲劇を予測してこう述べています。ちょっと長いですが、引用します。

「当然のことだが、国民のうちの富裕階級は、貧困な階級がたえず縛られている日常の仕事から解放されているので、その結果、前者は後者より多くの時間を言語の学習にあてることができる。もし国政が、さらに社会の交流ののすべてが英語で行われることになれば、下層階級は国民全体にかかわる重要問題から閉め出されることになる。それは、古代ローマ貴族が(神法)や(民会)等から平民を排斥したのと同じことである。その結果、上層階級と下層階級は完全に分離し、両階級のあいだには共通する感情がなくなってしまうだろう。」
馬場は、上記の発言の例として、中世のウエールズアイルランドスコットランドゲール語圏がイングランドの英語支配により征服されたこと、また同様に植民地インドの状況にも触れ、言語支配の弊害と脅威を鋭く問うています。
さて、安倍政権は「2020教育改革」と称して、「英語教育」の小学校からの導入をはじめています。その意図するところは、「グローバルな時代には英語が必須」(内閣府)ということですが、前出の森有礼は、英語の効用として、「英語を話す種族の商業力」に着目しています。すなわち、「商業民族である日本民族の独立保持の必須条件」と述べていますが、現政権の英語教育改革の背景にも、このような「商業的意図」は当然含まれています。しかし、馬場辰猪の批判は「言語の壁による社会階級分裂」という「商業力」以前の「社会」という根本的問題を問うており、これは、まさにこの「英語教育改革」をめぐって、教育産業の参入が目覚ましい現実の日本社会を予言している言葉でもありました。
小泉進二郎発言を肯定する人々には、当然ながらジャーナリスト或いはコンサルタントなど「英語をしゃべることができ、英語(を使うこと)で収入を得ている方々」が非常に多いように見受けられます。「英語をしゃべることができる」ことが一種のステータスになり、「英語をしゃべれないこと」が逆にコンプレックスとなっているのは間違いないでしょう。しかし、「思考」と「コミュニケーション」は次元の違うものであり、外国語導入が果たして「思考力」を高めることができるのかは疑問です。小泉進二郎氏は果たしてどのような「思考力」でもって「セクシー発言」をしたのか、が問われているのではないでしょうか。

《DAIGOエコロジー村通信2019年8·9月号より》