「成熟」していない子・安倍晋三、「崩壊」していない母・安倍洋子

江藤淳の『成熟と喪失』は戦後世代作家の作品に焦点を当てた文学長編評論だが、江藤にはある意味珍しく、私が思うに、素直な社会評論ともなっている。彼は、この中で、米国人と日本人の男を比較して、「母子家系」の日本、「父子家系」の米国と言う切り分けで、「母の崩壊(喪失)」を媒介として、日本男児の未成熟さを問うている。簡略に言えば、「母離れ」こそが近代における男の価値としての「成熟」の条件である、ということだ。さてそういう観点から安倍晋三という男を見てみると、まさに江藤が言う「成熟」にほど遠い安倍晋三の姿が浮かび上がってくる。彼がトランプにすり寄る姿も、そういう意味ではいつまでも母親の乳房から離れられない「坊や」として見れば納得できる。安倍昭恵はそのような晋三に早くから「成熟した男」の無さに気付いたのだろう。とりあえずは、長くなるが安倍洋子の話を下記に引用する。彼女の言葉に対する評論は今回はしない。なお、本テーマは継続して思考していきたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・<以下引用>・・・・・・・・・・・・・・・・・

「文藝春秋」文藝春秋)2016年6月号 安倍晋三首相の実母、洋子氏の独占インタビュー 「 「父、夫、息子を語り尽くした 晋三は「宿命の子」です」より抜粋>

・「晋三が自宅にいるときは、朝食はいつもわたくしのところで、昭恵さん(総理夫人)と一緒に青汁とヨーグルトと果物をいただいてから出かけてゆきます」

・「昔からお肉、特に鶏肉が好きでしたが、公邸に泊まるときはどうしても食事がお肉に偏りがちなようなので、自宅にいるときはなるべく野菜を炊いたりして、栄養バランスの良い家庭料理を出すようにしております」

・(晋三氏と昭恵氏が飼っている愛犬・ロイについて)「もともとは昭恵さんがよそからもらってきたワンちゃんなのですが、昭恵さんも活発にあちこち飛び回っていて、年中留守にしておりますから、ほとんど三階に来ています」「たまに昭恵さんが早い時間に帰ってくると、「今日は久しぶりに二階に行ったらどう?」と連れて行くのですが、三十分もしないうちに戻ってきてしまって」

・(現在の公邸ではなく私邸住まいについて)「本人にとっては良いのかもしれません」

・「前回の政権では公邸に泊まることがほとんどでしたが、あそこはお化けが出るとよくいいますでしょう(笑)。いまは建て替えられておりますが、五・一五事件二・二六事件の現場となった旧公邸では、亡くなった方もいらっしゃいますから、いろいろな怨念がこもった場所でもありますしね」

・「晋三が政治家になって、主人と似ていると感じるのは、一度言い出したらなかなか周りの言うことを聞かない、頑固なところです。それから、表面上は強く厳しいことを言っていても、裏では人のことを気遣うというのも、主人と似ていますね。晋三があるとき、古くからの支援者の方と衝突してしまったのですが、それでも何年か経つと、「あの人、あれからどうしてるかな。今度食事にでも誘おうかな」なんて言い出すのです」

・「昨年、晋三が安保法制の成立に一生懸命に取り組んでおりました。晋三も自らテレビに出ていろいろと説明をしておりましたが、安保法制の意味あいをまだ理解していない方たちが聞くのだから、もっと分かりやすい言い方をしなければならないのではないか、などと思いながら見ておりました」

・「大げさに聞こえるかもしれませんが、当時の父は本当に命がけで安保に取り組んでおりました。国民からあれほど反対されても、「国家のためにやっていることなのだから、後世の人々には絶対に理解してもらえる」としばしば申しておりました。わたくしからしてみれば、国家のためにやっていることなのに、どうして理解してもらえないのかと思っておりました」

・夫・晋太郎氏が落選したときは、「なかなか選挙にならなかったので、当時総理だった佐藤の叔父に、「なんで早く解散してくれないの」と申したこともございました」

・(1987年の総裁選にて夫が竹下登に破れたときのことについて)「わたくしは思わず「これはいったいどういうことになっているの」と口走ったものです」

・「時代はここまで移り変わっているのですから、いまの時代に合った憲法を作るべきなのではないでしょうか」

・「五十五年の歳月を経て、父と同じように国家のために命を懸けようとする晋三の姿を見ていると、宿命のようなものを感じずにはおれませんでした」

・「母親として晋三にしてあげられることはそうはありません。ただ主人の仏前には、晋三の健康のことと「晋三が、この国の歩む道を誤らせませんように」ということを、祈るばかりです」

 

 

気分とは?

 「気分が良い」とか「気分を害した」とか、私たちは日常的にこの「気分」というものに左右される生活を送っています。身体及び精神に関する医療科学が目を見張る進展を遂げた現在においても「気分とは何か」という問いの“正解”は出ていません。しかし、私たちの行動を基本的に左右するものはやはり「気分」というものでしょう。大会社の社長、或いは大統領、国王、大学教授、、、、と言えども人間である以上、この「気分」というものから逃れることは出来ません。確かにこの「気分」に従って行動すれば世の中の秩序は乱れるでしょうから、そこを人間は「理性」というものでコントロールしている訳ですが、コントロールしている対象はあくまでも「行動(アウトプット)」の方であり、その原因となっている「気分(インプット)」がコントロールされている訳ではありません。毎日が「気分が良い」状態を想像してみてください。もしこの「気分」というものを完全に人間が制御出来るようになれば何と“幸福”なことでしょう。
 この「気分」というものが学問研究の対象となったのはそれほど古くありません。古代ギリシアにおいてはこの「気分」も精神全般の範疇のなかでしか捉えられていません。このような「気分」を本格的に論じたのはドイツの哲学者ハイデッガーですが、彼は「人間活動の根本、或いは人間存在の根本として気分がある。あらゆる感動はある気分からやってきて、その気分のなかに留まっている。」ということを述べています。ハイデガーは哲学的にこの「気分」の解明を行ったのですが、心理学では、気分のことを「弱い感情」という解釈を行っています。ちなみに「強い感情」とは「情動」という恐怖や怒り、喜びなど生理的な興奮を伴い、その持続時間は一般的には短時間となるものです。となると「弱い感情」とは時には意識されることができず、しかし「情動」に比べると長時間続くものです。現代心理学では、この気分を情報処理と言う観点から「気分制御」という概念で捉えようという研究も行われていますが、そもそも「なぜ気分が発生するのか」という問いにはなっていません。これも先ほどの例の「理性」的対症法の域を出ないものでしょう。
 ハイデガーは「気分」は人間の内面と外部との「間(あいだ)」から生じるもので、「思惟や行為という能動的なものに先立って、他者や事物との出会いに制約を与える」ものとしています。ちょっと表現が難解ですが、分かりやすく言えば、「気分が悪い時に人に会うと、その気分をいくらコントロールしようとも人と会った時の雰囲気はちがうものだ」ということでしょうか。確かに、楽しい飲み会やってもだれか気分の悪い人がいると雰囲気は壊れますね。大相撲の横綱暴行問題もその根本に「気分」の問題があったのかもしれません。ここでは詳しく書けませんが、先ほどのハイデガーはこの「気分」には「人間を孤独な存在ではなく共同存在として結びつける力がある」という結論(仮説)を立てています。高度情報化が進み、AIなどというものが出現する現代において、「共同」「共生」ということが益々強く意識されるようになりましたが、人のつながりを現象面や理性、知性というものを越えた「気分」という人間の深い内面から作り出していくことも考えられるのではないでしょうか。ハイデガーの教え子の一人のオットー・ボルノウは「気分という語は音楽的な概念を人間の心のなかへと比喰的に持ち込んだものである」と言っています。音楽は「調子」です。「気分が良い」と「調子が良い」は符牒が合いますね。何かと話題の“ヒーリング”は「癒し」という訳されますが、ヒーリング・ミュージックというものの効果もあながち捨てがたいものかもしれません。
 「気分」とは本来が受動的なものですから、頭から「気分」をコントロールしようとすると益々「気分」は「滅入る」ことになります。「気分」が「晴れやかになる」にはその環境を整えるということが大事な様です。「共生」ということはまさにこの環境を整えることに他ならないのではないでしょうか。

『平気でうそをつく人たち~虚偽と邪悪の心理学』(M.スコット.ペック1996年草思社)

今月号の会報トップの「今月の断章」においても平気でうそをつく話が出ていましたが、奇しくも私が今読んでいる本の内容とがっつりと噛んでいましたので、少しびっくりしたところですが、良く考えてみれば、今、「平気でうそをつく」社会というものを誰もが感じているのではないか、と思う次第です。

ご存じの安倍晋三氏が関わったとされる「森友・加計問題」において、彼は殆どの国民誰しもが嘘をついていると感じられるコトについても「平気でうそをつい」ていました。これに対しては選挙の投票以外に為す術もないことに、非常に腹立たしく思えたのですが、少し冷静になり、普通であればあれほど破廉恥な誰しもが分かる「ウソ」をどうして平気でつくことが出来るのだろう、という素朴な疑問にぶつかりました。政治家でもある彼の嘘は、ナチスプロパガンダの「嘘も100回言えば真実になる」というものとも少し違う感じがします。その様な時にたまたま偶然に『平気でうそをつく人たち』という本を知り、早速購入して読みました。著者のペックはアメリカでは良く知られた医者でもあり心理学者ですが、彼は欧米人特有のキリスト教的価値観における「邪悪(evil)」という概念を基に「邪悪な人は必ず”平気で”うそをつく」という主張を行っています。「邪悪」の西洋的概念は日本人(東洋人)には分かりにくいところもありますが、安倍晋三氏(とその取り巻き)をその対象とすれば少しは理解できるかもしれません。しかし、彼に限らず自分自身も含め私たちの周辺にも彼のような「平気でうそをつく邪悪」な存在はかなり認められるのではないでしょうか。ペックの定義によれば「邪悪な人」とは、

 

  • どんな町にも住んでいる、ごく普通の人。
  • 自分には欠点がないと思い込んでいる。
  • 他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する。
  • 自分への批判にたいして過剰な拒否反応を示す。
  • 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。
  • 他者の意見を聞く耳をもたない。
  • 自分は選ばれた優秀な人間だと思っている。
  • 他者に善人だと思われることを強く望む。

 

ということです。まさにぴったりと当てはまる人物を想像することができるのではないでしょうか。

一方、「ウソも方便」とか「かわいいウソ」などという、どちらかと言えばウソを肯定する思考もあります。「嘘をつかない」ということは倫理道徳的にも正しいとされる価値ですが、人間である限り「ウソを絶対つかない」ということは無理とも思えます。しかし、上記のような「虚偽と邪悪」が国の最高権力者によって日常的に為されているとすれば、それはやはり大問題でしょう。ペックは本書で、ベトナム戦争における「ソンミ村大虐殺事件」にも触れ、このような「虚偽と邪悪」が集団で行われるケースの根本的問題を指摘しています。それは彼自身が、ソンミ村虐殺事件解明チームの委員長を歴任していたことからも彼の指摘は間違ってないように思えます。(ソンミ村虐殺経緯についてはネットで調べてみてください)この集団の悪に関する彼の主張の面白い所は、その要因に「専門化集団」の存在をあげていることです。彼は言います。「専門化とは右手がしていることを左手が知らないこと」だと。私も時々「専門家(化)とは専門のことしか知らない人のこと」と良く言いますが、同じ趣旨と思います。安倍晋三氏の「ウソ」をめぐる問題にはすべて集団(政党、官僚、企業等)が絡んでいます。それらの集団はすべて専門化された集団です。集団の嘘(悪)と個人の嘘(悪)の違いに明確な線を引くことは困難ですが、そこに「責任」という概念を媒介させれば少しは見えてくるものがありそうです。すなわち、「責任」は個人から集団へと転化されるとその重さが希釈されるということです。「誰も責任をとらない(とらなくなる)」ということです。そしてそのことは今度はスケープゴートとして個人にまた転化されていく。これは今の日本に思い当たる節はかなりあることでしょう。ちなみに、ペックはこのような「邪悪性」を「病」として捉えるべきだ、と主張しています。その主張には彼自身も少しためらうところもあるのですが、「悪を病と定義する」ことのメリットの方がそのデメリットよりも勝っている、という結論です。先述したとおり、「人間だれしも嘘をつかない人はいない」訳ですから、そうなると人類全体が「病」ということになるので、確かに「邪悪性」を「病」とすることの無理はありそうですが、それでもこの本でペックが言いたいことの根本的な点は理解できると思われます。

 

< 低炭素都市ニュー ス&レポー ト【2017年】11月10日号 より>

AI(人工知能)と人間社会

毎日のようにテレビや新聞、或いはネット上で「AI(エーアイ)」という言葉を聞かない日は無いくらいですね。囲碁やチェス、将棋などで「人間に勝った」などと言っているうちは可愛いものですが、私たちの仕事を奪い、そして私たち自身の人生までもコントロールすることが可能である、などという解説を聞いていると、新しい技術としても手放しでは喜べないでしょう。「AI」が単なる技術と違うところは、これまでの技術が、車やメガネ、各種機械など、いわば人間の手足、或いは目、耳など「肉体」の代替延長にあったものが、「精神」の領域にまで入り込んできているということです。自動運転技術というものも、自動車そのものは人間の足代わりとして開発されて来ましたが、その自動車に「AI」を組み込むことによって、自動車自身が「思考」するという、ある意味次元の違う世界になります。「AI」はディープラーニング(深層学習)という、人間の脳の仕組みを応用した特殊な機能の技術を駆使して自らを成長させます。これまでの機械的な技術しか見ていない私たちにとって、「AI」という技術をイメージするのは少し困難ですが、良く報道されるロボットのイメージだとなんとなく理解できるでしょう。ロボットも人間の僕となって人間の手助けをしてくれるだけであれば非常に助かるものでまた便利なものですが、彼ら(敢えて「彼ら」と言います)が自ら学習を極め、人間を支配下に置くという逆転の可能性は非常に高いように思えます。「AI」が人間の仕事を奪うという現象は、まさにその逆転ではないでしょうか。「ロボットと言っても所詮は人間が管理するから大丈夫」という声もあるかもしれませんが、先述の逆転現象は私たちの身近なところからじわじわと起きているように見えます。私の感覚からすれば、自らの健康を全て病院や健康診断に委ねることも。この逆転現象の一つです。人間の医者が病院から放逐される日も遠くないかもしれません。「AI」で無くなる職業の中に医師も想定内です。さて、しかし、このような状況を嘆いてばかりでは、本当に「AI」に身も心も占領されてしまいそうですが、良く考えれば、根本的、本質的なところに行きつきます。それは、古代からの哲学、或いは宗教にも関わる「私は何者か」「私は何故生きているのか」という問いかけです。これは「脳」の問題ではなく、「心」の問題です。人間には「心」という摩訶不思議なある意味非合理な世界があります。果たして、「AI」は「心」の領域にまで介入することができるのでしょうか。もしできるとしたら、それは「AI」が能動的に進化するということではなく、人間自身が「AI」に自らを合せていくという生き方を選択した場合のみでしょう。昔、「あなた人間辞めますか」という覚せい剤のCMがありましたが、まさに「人間が人間を止めた時」が「AI」が「神」となる時なのでしょう。しかし、「人間を止めなかった人間」にとっては、「AI」は「悪魔」でしかありません。さて、貴方は人間を止めますか、それとも人間であり続けたいですか!!

パスカル『パンセ100』における”彼”とは!? 

パスカルの『パンセ』にこういう文章がある。ちょっと長いが読めば読むほど今を時めくあの人物の像と寸分違わないことに驚きと納得がある。ちょっと長いが紹介する。

「・・・・彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。 幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る。 人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。 彼が当面するこの困惑は、想像しうるかぎり最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。 なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみを いだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅 できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言かえれば、自分の 欠陥を、自分に対しても他人に対しても、おおい隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、 他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。」(パスカル『パンセ100』)

パスカルは人間一般における「自己愛」について上記のような考えを表明しているのだが、これほどピッタリの表現は現代においても”問題の彼”を評する諸々の論の中には見当たらない。

果たして「彼」とは誰ぞや!上記の文の「彼」に固有名詞を当てはめるとわかるのではないか!もちろん自分自身も含んでのことだ。

革命の内面起源~映画『エルネスト』鑑賞記~

今月号会報でも紹介していますが、8月の研究会「キューバ革命チェ・ゲバラの写真展」の視察の折に、映画『エルネスト もう一人のゲバラ』の紹介があり、先日の上映公開に合せて早速鑑賞して来ました。映画では、ゲバラはあくまでも脇役で、主役はオダギリジョー演ずる、フレディ・前村・ウルタードという名もなきボリビア出身の医学生ですが、このフレディがゲバラカストロとの接点におけるセリフのやり取りにこの映画のある種の神髄を感じました。フレディは祖国ボリビアにおける革命解放軍に志願するにあたり、ゲバラの面接を受けますが、この時に次のようなやり取りをします。

 ○フレディ:「司令官(コマンダンテ)、貴方のその闘いの信念は一体どこから来るのですか?」
 ○ゲバラ:「私は常に怒っているのだ。憎しみから始まる戦いは勝てない。」

もう一つ紹介しましょう。

 ○フレディ:「フィデル、私は何をやるべきでしょうか?」
 ○カストロ:「それは人に聞くものではない。いつか君の心が教えてくれるだろう」

私は、このセリフのやり取りに何とも言えぬ感銘と、そして自らの心の内面における葛藤と闘いこそが人生にとって必要不可欠なものなのだ、とつくづく思いました。キューバ革命が、或いはエルネスト・チェ・ゲバラという存在が何故今も自分の心の中で活き活きと生き続けているのか!その理由が分かったような気がします。もう一つ、紹介しましょう。

(前述のゲバラとのやり取りの後に、、、、)

 ○フレディ:「『新しい人間』になるんですね!」
 ○ゲバラ:にこっとうなずく

これは、ゲバラがフレディが学ぶハバナ大学で学生の前で演説した時のフレーズ「新しい人間(オンブレ・ヌエボ)」のことです。この時、彼(ゲバラ)はこう言いました。「大学は学生だけが学ぶ場所ではない。農民、労働者、多様なものが学ぶ場所だ。そしてそこから新しい人間が生まれるのだ」ゲバラは、革命後、「自分のためではなく、他人のために自ら進んで働く生き方」を常に述べ、一人ひとりがそういう「新しい人間」に変われば、苦しみで覆われている世界を自分たちの手で変えることができる、という信念を学生の前で述べたのです。ここに、ゲバラの心の内面にある彼独自の道徳心、それは「ゲバラ主義」と言っても良いのかも知れません。フレディも、そこに自らの求める生き方を発見したのでした。そして、それは、フィデルカストロ)に言われた、「君自身の心が教えてくれる」というあのセリフと共鳴するのです。

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 さて、映画については、これ以上述べると”ネタバレ”になるので、後は皆さんに直接鑑賞してもらうしかありません。
ところで、現在衆議院選挙が行われています。いろいろな政党からいろいろな方々が有名無名問わず、声を張り上げています。しかし、彼らに「(真の)怒り」と「心の声」が果たしてあるのでしょうか。翻って、彼らを選ぶ我々にも「(真の)怒り」と「心の声」はあるのでしょうか。
 私たちの環境は、物質的に非常に豊かになりながらも、「これでもか、これでもか」と留まる事を知らない新しい物質(商品)の波にのまれ、また大量無限の情報の渦は新しい「統治システム」を模索しています。しかし、その裏側では、貧困と格差が激しい勢いで拡大し、その現実(リアリティ)を例えば映像で眺めながら、物欲に勤しむという非対称の構図がそこにはあります。それらに対する「怒り」、そして自らの「心の声」というものが果たしてあるのでしょうか。
 ある状況をもし変えるとすれば、それはやはりその根源には一人一人の内面からしか生まれてこないものでしょう。外部からの刺激への単純な反応(憎しみ)ではなく、もっと深い所からの心の声(怒り)に気づくことの大事さを感じた映画鑑賞でしたが、もっと言えば、私たちが目指す「低炭素社会」に対しても同じようなことは言えるかもしれません。それは、やはりゲバラとフレディが目指した『新しい人間』になることではないか、と。 (低炭素ニュース&レポート10月号より)


http://eiga.com/movie/85425/

【批判ではなく敵認識を持て!】

坂本龍一氏を批判するつもりはないが、「体制批判」の限界性を現実は示しているように思える。ヘイトスピーチにしろ、ネトウヨ或いは政権与党の議員の言動にしろ、その「低レベルさ」を「体制批判」側は責め立てるのだが、相手には全然響いていない。それは彼らが”馬鹿”なのではなく、「体制批判」側を彼らは「(打倒すべき)敵」と認識しているからなのだ。北朝鮮のある意味での”強さ”はまさに国家・国民が相手(米国・”国際社会”)を「(打倒すべき)敵」という具体的な認識をしているからに他ならない。我が宰相、安倍晋三が先の都議選で言い放った「あのような人たちには負ける訳にはいかない」という”有名”な言葉は、彼の意識の「敵認識」を図らずも露出した訳だが、この「敵認識」が彼のある種の強さの要因ともなっている。「体制批判」側はいろいろな言動を行うが、その語調の強さに反比例し、たとえば国会前デモにしろ、相手を「(打倒すべき)敵」と認識しているとは到底思えない。『ポスト・マルクス主義と政治 根源的民主主義のために』の著者のエルネスト・ラクラウはこのような「敵認識」を「敵対性(agonism)」と言う言葉で説明している。彼によると「敵対性」とは「他者の現前によって自己の十全なアイデンティティが損なわれるという経験」であり、”表面的表層的な調和を求める”のではなくこのような「敵対性を基礎に置くことによってこそ真の民主政治が可能になるとしている。まさに「体制批判」側に欠如しているのは「敵認識(敵対性)」であり、これを持たない限り、民主主義を勝ち取ることは不可能ということだ。

http://lite-ra.com/2017/09/post-345...