気分とは?

 「気分が良い」とか「気分を害した」とか、私たちは日常的にこの「気分」というものに左右される生活を送っています。身体及び精神に関する医療科学が目を見張る進展を遂げた現在においても「気分とは何か」という問いの“正解”は出ていません。しかし、私たちの行動を基本的に左右するものはやはり「気分」というものでしょう。大会社の社長、或いは大統領、国王、大学教授、、、、と言えども人間である以上、この「気分」というものから逃れることは出来ません。確かにこの「気分」に従って行動すれば世の中の秩序は乱れるでしょうから、そこを人間は「理性」というものでコントロールしている訳ですが、コントロールしている対象はあくまでも「行動(アウトプット)」の方であり、その原因となっている「気分(インプット)」がコントロールされている訳ではありません。毎日が「気分が良い」状態を想像してみてください。もしこの「気分」というものを完全に人間が制御出来るようになれば何と“幸福”なことでしょう。
 この「気分」というものが学問研究の対象となったのはそれほど古くありません。古代ギリシアにおいてはこの「気分」も精神全般の範疇のなかでしか捉えられていません。このような「気分」を本格的に論じたのはドイツの哲学者ハイデッガーですが、彼は「人間活動の根本、或いは人間存在の根本として気分がある。あらゆる感動はある気分からやってきて、その気分のなかに留まっている。」ということを述べています。ハイデガーは哲学的にこの「気分」の解明を行ったのですが、心理学では、気分のことを「弱い感情」という解釈を行っています。ちなみに「強い感情」とは「情動」という恐怖や怒り、喜びなど生理的な興奮を伴い、その持続時間は一般的には短時間となるものです。となると「弱い感情」とは時には意識されることができず、しかし「情動」に比べると長時間続くものです。現代心理学では、この気分を情報処理と言う観点から「気分制御」という概念で捉えようという研究も行われていますが、そもそも「なぜ気分が発生するのか」という問いにはなっていません。これも先ほどの例の「理性」的対症法の域を出ないものでしょう。
 ハイデガーは「気分」は人間の内面と外部との「間(あいだ)」から生じるもので、「思惟や行為という能動的なものに先立って、他者や事物との出会いに制約を与える」ものとしています。ちょっと表現が難解ですが、分かりやすく言えば、「気分が悪い時に人に会うと、その気分をいくらコントロールしようとも人と会った時の雰囲気はちがうものだ」ということでしょうか。確かに、楽しい飲み会やってもだれか気分の悪い人がいると雰囲気は壊れますね。大相撲の横綱暴行問題もその根本に「気分」の問題があったのかもしれません。ここでは詳しく書けませんが、先ほどのハイデガーはこの「気分」には「人間を孤独な存在ではなく共同存在として結びつける力がある」という結論(仮説)を立てています。高度情報化が進み、AIなどというものが出現する現代において、「共同」「共生」ということが益々強く意識されるようになりましたが、人のつながりを現象面や理性、知性というものを越えた「気分」という人間の深い内面から作り出していくことも考えられるのではないでしょうか。ハイデガーの教え子の一人のオットー・ボルノウは「気分という語は音楽的な概念を人間の心のなかへと比喰的に持ち込んだものである」と言っています。音楽は「調子」です。「気分が良い」と「調子が良い」は符牒が合いますね。何かと話題の“ヒーリング”は「癒し」という訳されますが、ヒーリング・ミュージックというものの効果もあながち捨てがたいものかもしれません。
 「気分」とは本来が受動的なものですから、頭から「気分」をコントロールしようとすると益々「気分」は「滅入る」ことになります。「気分」が「晴れやかになる」にはその環境を整えるということが大事な様です。「共生」ということはまさにこの環境を整えることに他ならないのではないでしょうか。