天皇明仁と人間明仁

平成天皇が「生前退位」という”お気持ち”を表明されました。朴訥と語る口調のおよそ11分の全文は1823文字からなっています。普通5分間スピーチで1500文字と言いますから、天皇はその倍以上の時間をかけてスピーチを行ったことになります。天皇の口調をモノマネするタレントもときおり見かけますが、今回のスピーチの言葉と口調は説得力と訴求力があるように思えます。それは、やはり天皇の偽りのない本音がにじみ出ていたからでしょう。天皇制を巡る政治的立場からの議論は横に置き、人間として彼の言葉をどのように受け取ることが出来るか、或いは受け取らなければならないか、ということは国民としてだけでなく我々も人間として避けてはならないことのように思えます。何故なら、彼と私たちの存在の関係は政治や制度と言う社会的制限を取り払えば、人間共通項としての”自由”という根源的命題が横たわっているからです。極言すれば、彼(平成天皇)の自由を奪っている主体の一つに我々(国民)の存在があるのではないでしょうか。少なくとも戦後、天皇から国民が「自由を奪われる」ということはなかったでしょう。彼の話しの中の「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて」いたという個所は、彼の素直な立場上の思いとともに彼自身の苦悩も感じさせるという受取は私だけかもしれませんが、彼の意識的或いは無意識的呪縛をほどき、人間としての根本的自由を取り戻させるのは、時の政治権力ではなく、同じ人間共通項としての我々国民にしかできないものです。戦後70年、とくに彼が在位したおよそ30年に渡る彼の行動は「天皇明仁」ではなく「人間明仁」として高い評価を与えうるものでした。戦後民主主義の申し子の一人としての人間明仁は、その妻美智子皇后とともに新しい時代における皇室の在り方を模索してこれまで来た訳ですが、敢えてこのタイミングで彼が”お気持ち”を述べたその真意と本音を考えることは、同じ戦後民主主義を啓蒙された者として私自身には必要に思えます。

安倍晋三と今上天皇

安倍晋三の祖父である岸信介昭和天皇の関係はそれほど良いものではない。東条英機内閣の閣僚だった岸信介A級戦犯になったにも関わらず、戦後総理大臣になったのは、GHQ児玉誉士夫笹川良一などともに米国のスパイになることを条件として釈放したからだ。一旦死ぬべき命を売った人間のその後は推して知るべしだ。安倍晋三がねじれているのは、母方の祖父ばかりに傾倒するその屈折した心情のなかに、父方である安倍晋太郎の血脈のなかにいる祖父、安倍寛の存在がある。政治ジャーナリスト・野上忠興による連載「安倍晋三『沈黙の仮面』」によると、「岸が東条内閣で商工大臣を務めて戦中から権力の中枢を歩いていたのに対し、寛は東条英機の戦争方針に反対し、戦時中の総選挙では『大政翼賛会非推薦』で当選した反骨の政治家として知られる」と言う。A級戦犯容疑者として収監された岸に対し、安倍寛は戦争に反対し「昭和の吉田松陰」とまで呼ばれたそうだ。(※『絶頂の一族 プリンス・安倍晋三と六人の「ファミリー」』(松田賢弥講談社))安倍晋三の父である安倍晋太郎の回想録(毎日新聞(1985年4月6日付))によると、「父(寛)は大政党を敵にまわし、その金権腐敗を糾弾し、始終一貫、戦争にも反対を続けた。軍部ににらまれ、昭和十七年の翼賛選挙では、非推薦で戦った。当選を果たしたものの、あらゆる妨害を受けた。私(晋太郎)も執拗な警察の尋問をうけた」ということだ。なぜそのような晋太郎の息子の晋三がこうも依怙地な気持ちになるのは、晋三の兄弟との関係と思われる。(このことは詳細には書かない。どんな人間であれ、家族の中におけ不条理を他人が暴くのは人間の根本的な道に悖るだろう)そのような思想性にも乏しい安倍晋三を利用する輩が晋三の背後にいるのは紛れもない事実と思える。このような安倍晋三の母方の祖父である岸信介に対する昭和天皇の気持ちが表れている回想録が中曽根康弘の「自省録」だ。詳細はここでは書かないが、このサイトを見て欲しい。

さて、今上天皇が来週にも「生前退位」の“お言葉”を述べるという。安倍政権は右往左往しているということらしい。それはそうだろう。安倍政権(及びそのお友達)の天皇無視の姿はあまりにも露骨過ぎた。覇権を狙う連中の王権に対するボロが出たと思える。もう一つは、美智子妃の存在だ。今上天皇はある意味では戦後民主主義の申し子のようなものである。戦犯を免れた昭和天皇の息子として多感なころに様々な不条理を感じたことだろう。それを中和してくれたのが美智子妃だ。美智子妃は敬虔なクリスチャンである。その美智子妃が東京都あきる野市にある郷土館で五日市憲法に触れたことを述べている。五日市憲法とは、明治維新後の自由民権運動流れを汲むリベラルな思想の賜物である。美智子妃と五日市憲法については、拙著ながら私が書いたこの論評をみてもらいたい。

安倍政権が憲法を変えようとし、また再び戦争への道を歩もうとしているまさにその時に、美智子妃は「五日市憲法」を公に述べたのである。私は心情左翼の人間であるが、その前に右左関係なく根本的に“人間”である。まさに美智子妃もそのような思いになったのではないだろうか。今上天皇と美智子妃の結びつきはテニスのロマンスという、確かに少々作り話もあったのだろうが、人間今上天皇と人間美智子妃の間には、いろいろな政治的画策があつたかもしれないが、お二人はやはり人間の根本教義ともいえる“愛”を貫いたと言える。そのような今上天皇が現在の憲法を揺るがすかも知れない「象徴天皇」の枠をあえて外してまでも「生前退位」を述べようとするその“お気持ち”こそ、今回の安倍政権と今上天皇の闘いがあるのである。そのような両陛下の前で、「美しい国」などと薄っぺらな言葉をもてあそぶ「安倍政権、恥を知れ!」と言いたい。しかし、安倍晋三もある意味では可哀そうだ。両親の血脈ががまったく違うところに生まれた“不条理”を背負わなければならなかった、彼の心情は思っても余りあるばかりである。安倍晋三に言いたい。「もうこれでいいではないか!よくやった!」と。彼を利用する連中は魑魅魍魎の世界で生きている連中である。奴らこそ本当の“ワル”なのである。

中小企業の小考察

先日の参院選時にテレビのインタビューに都内の中小企業経営者がこのように語っていました。「(アベノミクスによって)景気が良くなり、我々中小企業にも大企業からどんどん仕事が入って来ることを期待しています」と。アベノミクスの是非はともかくも、この経営者の発言は非常に“素直”だと感じました。これが日本のほとんどの中小企業経営者の現実的な本音ではないでしょうか。マスコミや各種媒体を通じて、中小企業の日本産業構造における“本質的位置づけ”を無視した「中小企業の挑戦」とか「中小企業の強み」「地域のリーダー」などと言った表層的な言葉が片方では飛び交い、若者への「起業のすすめ」なども国家中枢から積極的に飛び出していますが、中小企業の実態とは企業の生産領域における大企業との「主従関係(仕事を出す、もらう)」がその根底にあり、先ほどのインタビューの経営者は正直にその実態を吐露しただけのことです。「日本産業構造の本質的位置づけ」と述べましたが、経済学者の大内力(1918~2009)によれば、我が国の中小企業の歴史は、その前段としての明治政府の「殖産興業化」における農村破壊と言う手段による機械工業への労働力動員があり、その受け皿として従来の家内制手工業が小機械化導入により中小企業として再生され、一方日本資本主義の短期間における成長の推進力となる独占資本形成の為にも中小企業は必要な存在でもありました。しかし、中小企業が拡大再生産するためには、前述の「低賃金労働」は存立の不可欠条件であるとともに、もう一つの不可欠要件として「中小企業が絶えず成長を阻止され、中小企業の枠内で停滞し、没落・発生をくり返す」必要がある、という分析を行っています。(大内力『日本経済論(下)』)この論を証明するものではありませんが、今年3月の「Newsweek」において加谷珪一と言う評論家が「日本で倒産が激減しているが、決して良いことではない」という題名で「本来なら存続が難しいはずの企業が延命するケースが増え、経済の新陳代謝が進まないという弊害もある。実は、これが日本経済の好循環を阻害している可能性がある」と述べ、「アベノミクスの役割はこのような非効率部分を改革するもの」と言っています。一般論として読めば、確かに、「産業構造の変化についていけない企業は退場」などという市場法則として理解する旨もあるでしょうが、前述の大内力の分析の視点から見れば、中小企業こそ産業構造転換の“生贄”という役割を本質的に背負わされている、ということになります。国家予算に「中小企業対策費」という名目はありますが、「大企業対策費」というものはありません。表現を変えれば、「中小企業庁」という役所はありますが、「大企業庁」という役所はありません。それは必要ないからであり、何故なら「大企業関連予算」は国家予算の名目すべてに内包されているからです。儒教道徳心の強い日本人のメンタルな部分を効果的に利用する手法が、高度成長期には一時的にであれ功を奏し我が国経済が成長したという事実はありますが、その根底にはこのような国家と大企業の意図がいつも脈々と流れているということを知る必要があります。さて、次期総理と言う呼び声も高い、若き政治家の小泉進次郎氏はこのように発言したそうです。「国民はいつまでも国に頼るな。自らを律し、自ら立て。それが自民党の哲学であり信念だ」国民を中小企業に置き換えても彼の信念を変えたことにはならないでしょう。「頼らないから君たちも我々には必要ない」という反論も出来そうですが、個人的範疇はともかくも、如何せん相手は「権力」を保持しており、そのさじ加減でどうにでもなる組織体としての中小企業が、このような思考を行う政治体制及び経済体制に対してどのように向き合えば良いか、ということは非常に重要なことと思われます。果てしない競争の中で没落・発生のサイクルに組み込まれるのではなく、「社会」をお互いが共存・共有する基盤として捉え、「競争」のマネジメントではなく、「協同」のマネジメントを行うことの必要性を感じます。
<低炭素都市ニュース&レポート 7月号>

オリジナルと複製

ちょっと前にあったオリンピックエンブレム「コピー」騒動ですが、現代の技術はいやおうなしに「複製」を極限に可能とするものです。複製の技術を歴史的に見れば、その始原はまず「写真」に求められ、次いで写真(静止画)を動画化する「映画」が指摘されるでしょう。最近では、立体表現の3Dプリンターなるものまで現れ、果てはDNAのコピーと言う生命原理までをも超越する「複製技術」の進展には驚かされると同時に空恐ろしさも感じるものです。ところで、ドイツの著名な文芸評論家のベンヤミンの著書に『複製技術時代の芸術作品』(1936年)という面白い本があります。ベンヤミンの生きた時代は第1次世界大戦前後のファシズムが勃興して来る時代ですが、彼は「複製の芸術」を新しい時代の民主主義的価値としてそれに評価を与えています。彼に言わせると、「芸術は当初礼拝的価値であったが近代の大衆化により展示的価値を持った。これによりそれまでの一部のものの対象物から万人の対象物と言う性質の変化を遂げた。」ベンヤミンは、「複製技術」の大衆化がそれまでの権力者にその価値を所有されていた「芸術」の解放を述べている訳ですが、しかし、彼が民主主義の発展として捉えた「大衆化した芸術」である映画芸術ヒットラーはじめ、その後のファシズム政治的プロパガンダの強力なツールとなっていることは皮肉なことです。ところで、確かに、現代の複製技術の粋であるコンピュータの発達は、普通の人をも”創作者”に変えることが可能になっています。いろいろなソフトを使うことにより、”自分だけの”作品を作ることができますが、その作品は「コピー&ペースト」という機能を抜きには語れないものです。先日の「コピー騒動」はこの技術の使いまわしが疑われ、芸術の「ホンモノ性」が問われた訳ですが、先述のベンヤミンはこの「ホンモノ」についてこうも言っています。「「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」という性格によってつくられる。」(上記同書)即ち、「いま」という時間性と「ここ」という空間性にオリジナル(ホンモノ)の本質を見ている訳ですが、「複製技術」はまさにこの時間と空間と言う制限を取り払ったものと言えます。ここから先は非常に思弁的というか観念的世界になるのでこれ以上は追求しませんが、複製技術があふれかえる現代社会は単純に「オリジナルが良くて複製は悪い」という道徳的倫理的規範では判断できない時代になっていると言えるでしょう。ベンヤミンの時代は「複製技術」を大衆への解放として称賛したのですが、万人が芸術家になれる時代を果たして「平等」「自由」といえるのかどうか。いや、逆に言えば、究極の芸術の姿が「自由・平等」かもしれません。もう一度ベンヤミンの言葉に戻りましょう。彼はこうも言いました。「人間の製作したものは,たえず人間によって模造されたのである。このような模造を,弟子たちは技能を修練するために,巨匠は作品を流布させるために,また商人はそれでひと儲けするために,おこなってきた。」グローバル化が進む中で、あらゆる事象が「複製化」している時代(いま)と社会(ここ)は果たしてオリジナルと言えるのかどうか。先日のイギリスの「EU離脱」も例えて言えば、複製から離脱してオリジナルな英国を目指したものと言えるのかもしれません。果たして私自身もオリジナルと言えるのか。もしかしたら存在そのものが模写かもしれない。現代社会は、「オリジナル」と「複製」という両極端な価値の間で揺れ動いています。 �
DAIGOエコロジー村通信7月号より(一部加筆)

離婚劇としてのイギリスEU離脱

イギリスがEU離脱する。我が国を含む先進国の報道をみていると悲観的な論調がほとんどであるが、その根拠は「カネ」でしかない。EU離脱が「やれ株価が下がる」「やれ円高だ」「日本企業が危ない」、、、、挙句の果てが、「年金がもらえなくなる」という脅しにも似た解説も見受けられる。今回の離脱劇の底には、「金融経済vs実体経済」「大企業vs中小企業」「中央vs地方」というグローバル“金融”経済が引き起こした資本主義の断末魔を象徴しているように思える。しかし、見方を変えれば、「21世紀の民族自決運動」とも言える側面をもっているのではないか。「民族自決」の概念は、第1次世界大戦後、1918年にウッドロー・ウィルソン大統領が米国議会で提示した「14か条の平和宣言」にさかのぼる。またこの平和宣言は、レーニンも民族自決を認めた「平和に関する布告」に対する資本主義国側からの回答でもあった。その後、第二次世界大戦以後は、旧植民地国が宗主国に対する、またある国家内における少数民族独立運動の基本的理念として国連でも正式に認められたが、感覚としては「大国家vs小国家(or少数民族)」という公式のように思えるが、イギリスのような大“資本主義”国家においても、グローバル経済は“民族”を凌駕する勢いで浸食しており、結果として民族内で「富者」と「貧者」が二分化されている。或いはグローバル“金融”経済とは、国家を超え、民族を超え、ただカネだけが絶対的な価値を持つ体制のことであり、言い方を変えれば「カネをうまく使えるもの」と「カネに振り回されるもの」の二分化がすすんでいるのだろう。特に、20世紀に「先進国」という名を頂いた国ほどこの“不平等化”は進んでいるものと思われる。社会主義革命を夢見るものにとってはこの状況が「プロレタリアート(貧者)の結集」に結びつくところか、「国粋主義」と結びつくことがはなはだ不満であり、不可解であろうが、「国家・民族」の乗り越え(消滅)はマルクス主義の目標でありまた課題でもある。今回のEU離脱は単純な左右イデオロギーでは到底理解しえないだろう。先述のレーニンは民族自決について、面白いたとえ話をしている。彼は「民族自決」を夫婦の離婚の権利に例えて曰く「離婚の権利を認めるのは、離婚を義務づけるためでもなければ、うまく行っている夫婦に離婚を説いて勧めるためでもない。それは、両性の真に対等で民主主義的な結婚を保障するためのものである。離婚の権利が認められてはじめて両性は真に民主主義的な基盤の上で結婚生活を送ることができるのである。いつでも離婚することができるにもかかわらず、あえて離婚を望まず、みずから進んでその結婚生活を続けるというところに自由意志に基づく真の結婚生活がありうるのであり、その方がかえって夫婦の結びつきは強まるのである。それとちょうど同じようにいつでも分離することができるにもかかわらず、分離せずにあえて大国家の中にとどまるというところに真に民主主義的でより強固な民族関係がありうるのである。つまり、分離の権利の保障が自発的な結合を促進するのである。」(丸山敬一著「民族自決権の意義と限界」(有信堂高文社 2003))離婚経験のある私としては少々耳が痛い話である(笑)が、なかなか面白いたとえ話である。現代の感覚からすれば若干の家父長的道徳的にも聞こえなくはないが、しかし「カネの切れ目が縁の切れ目」という言葉もある。レーニンは、「離婚できるけれどもやはりカネのあるやつ(大きな国)と一緒の方が幸せだよ」と言っているのであるが、イギリスは「私にもプライド(主権)と言うものがあるわよ!」と言って別れ話を持ち込んだのである。さて、世界中はこのような「離婚劇・話」があちこちで出始めている。当のイギリスも今回の離脱でスコットランド独立がまた再燃する可能性があり、EU離脱ドミノ現象で世界に及ぶことも否定できないだろう。米国のトランプ現象も一種の離婚話でもある。日米同盟などと未練たらしくしないで、安倍晋三は堂々と「日米離婚」を言えば良いと思うのだが、独立心のないものが新たな船出など出来る訳はない。ここは沖縄も長年DVのように虐げられてきた“本土・日本”からの離婚を真剣に考えてはいかがか。
<付記>「国家」と「民族」という問題は歴史的にも現代に至るまでなかなか解決できない命題でもあるが、カネ=資本主義が「国家」を僕として扱うようになった現代において、民族問題が先進国からも出て来たことの意味は大きく深いと思える。

「電力自由化」の裏読み

この4月からこれまでの大規模需要者にのみ対象だった電力小売り規制が緩み、一般家庭も対象となったいわゆる「電力自由化」制度が始まりました。これを受けて、事業チャンスとばかりに4月時点での電気事業者登録数は大小合わせおよそ800社余りに上ります。これには、営利狙いの企業ばかりでなく、「電気代が安くなる」という現実的対応の消費者から「脱原発へシフトさせたい」という理念的対応の消費者まで含め、一般消費者も概ねこの制度を歓迎する傾向にあります。しかし、この制度を「ウソ」とメッタ切りにしたのが 認知科学者の苫米地英人氏です。彼は今年倒産した新電力大手の「日本ロジテック協同組合」の破産劇を引き合いに出し、「託送料」の仕組みを「鵜飼の鵜」と喝破しまししたが、彼の指摘はある意味するどいというか「確かにそう言えば、、、、そうだな」と納得させるものです。彼の指摘をちょっと簡略して羅列してみましょう。

・・・・・・・(以下苫米地氏の発言)・・・・・・・

<【新電力】は「託送料」の上乗せがある限り、【東電】や【関電】に価格競争で勝ち目がない。>
・・・・【新電力】っていうのはこの地域だと【東京電力】から「電気を買う」わけです。そして送る「送電料」も実は【東京電力】の送電線を使うんです。で、最後に要る「契約」だけ自分で取ってくるってことは、【東電】にとってはコレは“鵜飼いの鵜”ですよ。自分達の営業マンのコストが無くなって、彼らが勝手に自由競争で売ってくれるわけで。で、必ず送電料これ「託送料」って言うんですけれども送電料は彼らから取れるんですよ。電気は【東電】が「電気代」を決めるんで。コレは【東電】が儲かるだけですよね。

<新電力大手がなぜ撤退するのか?>
・・・・『ENEOSでんき』火力発電は「脱原発」には有望だが、【東電】との関係上、価格競争は元々期待できない。しかも【東電】の火力発電の原油をどこから買ってくるかっていうと【JXエネルギー】から買ってくるんで、最大顧客ですから、ソコと喧嘩するわけないじゃないですか。【東京ガス】【大阪ガス】のガス系など論外です。『LNG』は今「1バレル=30ドル」の『石油』に比べたら遙かに高くなる。逆に【東電】は既に「原発は償却が終わっている」「水力発電も(償却が)終わってる」んで、ということは『LNG』の【東京ガス】なんか勝ち目がないんですよ。

<大規模発電と小規模発電>
・・・・大規模発電には新規参入が事実上不可能なコストが掛かる。『原発』の場合はそのコストを料金に乗っけていい・独占地域でというやり方があったので【東電】【関電】などはやってきていた。小規模発電では最初から経済スケールから電力会社の大規模発電に価格競争力で勝てない。つまりは、事実上「自由化はされていない」ことになる。「電力自由化元年」という名目で、送電線使用料(託送料)で【東電】【関電】などの既存電力会社を潤すシステムが今回の大手【新電力】撤退の背景にある。

<「電力の自由化」を本当に進めるためのステップ>
・・・・全国を60Hzに統一し、【東電】と【関電】に自由競争させるべき。単に発電機というのは1分間に60回すか/50回すかのだけなので【東電】も明日から「60Hz」に出来る。日本の家電は全て「Hzフリー」と言って当たり前だが関東用/関西用があるわけでもなく、周波数に依存していない。唯一、東京や大阪の町工場のような所は「Hzフリー」ではないが、それらは補助金などで処理すれば圧倒的に安く済む。明日からでも統一すればいい!

<外国からの電力購入>
・・・・「60Hz」にしてしまえば、アメリカから電気が買える。ロシアからも中国からも買える。韓国からも買える。海底ケーブルで電力を引っ張ってくれば済む。それをやらせないためにわざわざ「50Hz」と「60Hz」に分けている。

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引用が長くなりましたが、「送電線」の問題は、当初から制度創設時に議論があり、経産省でも2020年を目標に「発送電分離」を目論んでおり、東電はその為の子会社作りとホールディング・カンパニー制度をこの4月より導入して、虎視眈々と自企業への有利な状況を作りだそうとしていますが、他の地域電力ではまだ足並みがそろっていないようです。それと、もう一つの苫米地の指摘の「50HZ VS 60HZ」のことは、灯台下暗し、でした。確かに周波数の問題はこれまであまり意識されていなかったように思いますが、電力の海外購入という手法の善し悪しの議論は別として、東電と関電がこの周波数の違いをいいことに「電力自由化」を逆利用しているとすればはなはだ問題と言わねばならないでしょう。苫米地氏の表現した「鵜飼の鵜」は事業者だけでなく、一般消費者たる我々自身の姿でもあることを認識しないといけません。

≪補論≫
「電力の自由化」とともに「電力の地産地消」ということも言われます。本稿の「送電」問題は、需要地を大きなエリアとして捉えることから起こる問題でもありますが、逆に言えば需要地を限定的に絞り込めば、送電設備のコストもかなり抑えることが可能に思えます。もちろん、緊急時の対応や地域ごとの需要構造の差については、それぞれの地域電力会社が相互に関与融通しあう技術的且つ制度的な仕組を作ることも可能でしょう。そういう意味でも経産省の「発送電分離制度」に対する姿勢と対応を時の政権とともに注視し続けなくてはならないでしょう。

※苫米地氏発言資料はMXテレビの番組「バラいろダンディ」(2月25日放送)での氏の発言を書き下ろしたものです

≪低炭素都市ニュース&レポート6月号より≫

マルコムXとカシアス・クレイ

モハメド・アリが死んだ。世代的には一世代上になるが、やはり同時代のヒーローというよりアンチ・ヒーロー的存在だった。「モハメド・アリ」という名よりは、「カシアス・クレイ」いう名の方が私にはしっくり来る。彼がヘビー級世界チャンピオンになった頃、日本でもプロボクシングはプロ野球や大相撲と並ぶ子供たちが熱狂するスポーツであり、1967年のベトナム戦争兵役拒否の行動は、当時15歳の私には、並んで人気だったビートルズとは違う“カッコよさ”を感じたものである。彼が、一躍その名を示したのは、1964年の世界ヘビー級王座を獲得した試合だろう。当初の予想を180度裏切る勝利に、ボクシング関係者・メディアは衝撃を受ける。対戦相手のソニー・リストンの勝を信じて疑いもせず、ちなみに試合前の賭けの割合は1:7で圧倒的にリストン有利だった。
ところで、この試合には、カシアス・クレイイスラム教に改宗する動機を授けたともいえるマルコムXが8000の観客席の最前列に近い7番の席で観戦していたことはあまり知られていない。カシアスとマルコムXが直接出会ったのはこの試合の2年前のデトロイトにおけるイライジャ・ムハマドの講演会だった。1960年のローマオリンピックで金メダルを取ったカシアスは有名であり、本人もそのことを相当自覚していたらしく、マルコムに対して「ぼくがカシアス・クレイです」という。マルコムは、その時弟のルドルフを伴って一緒にやってきたこの若い兄弟に好感を示すのだが、実は彼は、「カシアス・クレイなどという名前は聞いたこともなかった」(自伝「マルコムX」)と述懐している。当時のマルコムXが活動していたネーション・オブ・イスラムでは、教団の長であるイライジャ・ムハマドが「いかなるスポーツにも反対せよ」という指令を出していたからだ。しかし、カシアス・クレイはその後も、折に触れ、イスラム寺院や寺院が経営するレストランに頻繁に姿を見せ、その素直な行動と人柄はマルコムXにも“乗り移り(マルコム)”、マルコム家にも行き来するようになるほど、二人は親しくなるのだった。そのマルコムXをカシアスは、初の世界チャンピオン戦を前にフロリダマイアミに、マルコムXの妻ベティとの結婚7周年記念の贈り物として賓客招待する。この時期は、マルコムX が心底から傾倒し信じていた教団の長のイライジャ・ムハムドと袂を分かつ決心をする時期であり、マルコムXの情緒はかなりショック状態にあった時だけに、彼にとっては気力を回復する切っ掛けともなる。そして、カシアスの試合は、「イスラム教徒の優秀さを示す、即ち精神が体力に打ち勝つことを証明する」ことであり、これを手伝うのはアラーの思し召しにかなうことだと確信する。何故なら、これには二つの理由があったからだ。一つは先述したように、ボクサーとしての実績からもリストンの優位は歴然としていたこと、二つ目は、リストンがチャンピオンになった時の試合時に、対戦相手のフロイド・パターソンとともに、「精神的助言者」として白人の宣教師と一緒に取った写真を公開していたことだ。何故なら、パターソンもリストンも黒人だが、基本的に白人の教義であるキリスト教を媒介として、「黒人と白人の融合主義」が一つの大きな流れとしてあったからだ。マルコムXがこの「融合主義」をどれほど憎んでいたかはイスラム教徒としての彼としては当然のことだった。マルコムはカシアスにこう言った。「この戦いは本物だぜ」と。そして「キリスト教イスラム教がリング上ではじめて相まみえるんだ。いわば現代の十字軍だ。一人のキリスト教徒と一人のイスラム教徒が向かい合って立ち、テルスター衛星のテレビ中継で全世界の人々が成り行きを見守るんだ。アラーの神がこのようなことを選ばれたのも、チャンピオンとして君をリングから下させようという思し召しなんだ」。これを受けたカシアスが試合前の計量時に「俺の勝は予言されているんだ!負けるわけがない!」と叫ぶ。この試合の後、翌年(1965年)、リストンと対戦したパターソンは、カシアスに対戦を申し込むが、パターソンは黒人キリスト教徒として、「白人の意のままにならないイスラム教徒黒人」のカシアスをつぶすべく、「タイトルをアメリカに戻す」と発言する。しかし、試合はカシアスが12回TKOで勝利するが、カシアスはパターソンを倒す決定打を放つことなく執拗に攻め、レフェリーストップとなる。マルコムXはパターソンとカシアスの試合を見ることなく暗殺されるが、このような黒人同士の闘う状況をみて、「洗脳された黒人キリスト教徒が味方でもなんでもない白人の代わりに戦う気になる悲しい一例」として、「融合主義」の底に流れる白人支配の本質を見抜いている。
マルコムXの暗殺については、イスラム教団内部とFBI(CIA)が裏で仕組んだことがわかっているが、モハメド・アリは、そのような構図を知りつつも、イスラム教へ帰依した信心を固く守り、その後の兵役拒否や各種の慈善事業など、「平和主義」「人類主義」を貫く活動を一貫して行っている。カシアスの母親のオデッサは、敬虔なクリスチャンだったが、息子のイスラムへの改宗にはなんら干渉、非難することなく、むしろ励ますように「肝心なことはあの子が神様を信じているということよ」と言っている。 マルコムXカシアス・クレイ、歳の差17歳。しかし、彼らは60年代の米国における黒人迫害のまっただ中で、また、黒人社会そのものが分断、階層化が進もうとしている中で、イスラム教に自らの存在の根源理由を求めて、戦い続けた。マルコムXマーチン・ルーサー・キングは黒人活動家として暗殺されたが、カシアスもその可能性が無かったとは言えないだろう。 果たして黒人初の大統領となったバラク・オバマは、自らのルーツと同じこの偉大なる二人の黒人の意思をどこまで理解しているのだろうか。