オバマ大統領の広島でのスピーチについて

先日のオバマ大統領の広島訪問及びスピーチについては、少し考えるものがありました。彼のスピーチは日本のメディアはもちろんのこと、海外メディアでも概ね評価されたものとなっています。また多くの日本人が「感動した!」と思っているようです。確かに、スピーチは表面的には崇高な言葉が飛び交い、そういう意味では格調も高く説得力に富んでいると思います。しかし、メッセージを通して語る主語が「原爆投下を実行した国の大統領」ではなく、ほとんどが「われわれ」或いは「人類」という主体をぼかした抽象者(第三者)となっています。彼は、任期が短いとはいえ現職の米国大統領であり、現実の国際政治の世界でもっとも権力を有している人物です。少なくとも、彼が実現(実行)できる具体的な策は数多くあるはずですが、スピーチに占められた言葉、ちりばめられた言葉の中にはそのようなものは一つもなく、また彼自身の”大統領として”の具体的決意も見出すことは出来ませんでした。もしもあのスピーチを例えばローマ法王が行っていたのであれば、基本的な人類の道徳論としてそれほど感覚的に違和感なく聞けるかもしれません。或いは高校生の発言であれば、それこそ彼(彼女)らのこれからの未来とダブらせ期待できる発言だったでしょう。私は、オバマのスピーチを映像を通し、また全文を新聞を通して何度も読み返しましたが、そのたびに湧き起って来るものは言葉の「空しさ」であり「狡さ」でした。彼はあのような言葉を20分近くに渡って語りながら彼の傍には、いつでもそのボタンを押せる状態にある「核兵器発射装置」を入れたケースを持つ軍人がいたことはあまり知られていません。片方で「人類平和」を語りながら片方で「人類破滅」の鍵を握る彼は、一体何をしに広島へ来たのでしょうか。彼は言いました。「高邁(こうまい)な理由で暴力を正当化することはどれほど安易なことか!」あなたこそがそれをまさに実践しているのではないか。彼は今「核兵器近代化計画」を推進中です。「限定核」とも言われる小型核兵器ですが、爆発力は小さくも命中精度やステルス性、運搬システムの能力を高めることが可能な核兵器です。彼は、この核近代化計画は新たな核兵器製造ではなく、「近代化から削減していく努力を推進していくことが核兵器の保有量を減らす一番の近道」という理由を述べています。そのようなことは現実の国際政治の世界に従事するリーダーとしては当然のこと、という理解もあるかもしれませんが、少なくとも民主主義社会における政治家とは言葉という武器を最大限に使用するものであり、市民はそのようなリーダーの言葉と行為(行動)の一致にこそ政治家の真の誠意と勇気を見るものです。再度言います。彼のスピーチは確かに素晴らしいものでした。だからこそこう言いたいのです。「だからあなたは具体的に何をするのか!」と。
彼のスピーチは面白い仕掛けになっているように見えます。彼のスピーチを文節ごとに区切ると、そのたびに「だからあなたは何をするのか!」と問いかけることができるようになっています。彼のスピーチをそのまま表面だけの美辞麗句を称賛するのではなく、彼のスピーチに対するその問いを我々は発しないといけないし、彼はまた自らが発した言葉の意味を行為として示さなくてはならないでしょう。それが、現職の大統領と言う地位ではないのでしょうか。もし、単に道徳論を高邁に話したかったのであれば、大統領を辞めてから来れば良いのです。

奄美・沖縄「独立論」の裏にあるもの

またもや沖縄で起きた米軍による殺人事件。いつになったら「沖縄問題」は解決するのか。果たして「解決」とは一体どのような状態を指すのか。頭がうまく回らない中で何とか考えてみようと思い書いた。
■支配権力側の視点
沖縄返還から45年が経った。同じ敗戦により、奄美・小笠原も連合軍(実質米軍)の占領下になったが、奄美は1953年12月、小笠原はその15年後の1968年6月に返還されている。奄美が比較的早く返還されたのは、戦後の新たな国際関係の緊張(朝鮮戦争ベトナム戦争)が、沖縄・小笠原に軍事戦略的に重要な位置付を米国(米軍)に与えたからだ。周知のように、米国(米軍)は占領後沖縄の強引な土地収奪により、対ソ連、中国をにらむ基地づくりを急激に進めた。この時点での国家としての日本は、敗戦国と言う立場から表面上は「なすすべがない」状態であったのだが、敗戦後の連合国側の内部対立が占領国である米国(米軍)の立場と思考を微妙に揺るがせ、敗戦国日本の戦後処理をいろいろな場面で矛盾させた。それは例えば東京裁判における天皇の責任問題の忌避であり、また「全面講和・単独講和」論の背景にある沖縄の半永久軍事基地化(サンフランシスコ条約3条)である。というのは、少なくとも占領直後の米国の意思は、沖縄は「日本帝国主義から支配された少数民族」であり、日本からの「解放」と将来の「独立」を目指すべきである、というものだったが、東西冷戦の勃発は米国内の意見対立(国務省と米軍)を徐々に生んでいき、当時のマッカーサー司令官解任はその一端でもある。このような戦勝国側の思惑と不統一は、占領国米国の日本に対する「アメムチ策」によって、いわゆる売国的CIA要員としての政治家や官僚、実業家等をコントロールしながら日本を自国に有利に活用するという戦後日本の対米従属構造を形成していく発端となるのだが、コントロールされた側の連中がそのことを積極的に逆利用する「新国家再建」を思う“国士”なのか、或いは自己保身と裏切りの買弁なのか、その正体は現在も「自由民主党」という隠れ蓑の中にうごめいているのである。ついでに言えば、戦後の沖縄と日本を実質動かしているのは米国ではなく「米軍」である。
奄美・沖縄人民側の視点
さて、このような支配権力側の視点ではなく、被支配民衆の側どのように思っていたのだろうか。いわゆる「独立論」と「復帰論」及び「(米国)属州論」に現れる民衆の側の対応を論じたい。占領直後、米軍は奄美・沖縄を大きく二つのエリアに分け、奄美沖縄本島を北琉球宮古八重山群島を南琉球として、この4つの群島単位での軍政府を設置し統治するという方針であり、占領後の各地域の在り方夷ついては地理空間的にも各群島での個別の動きが現れることとなる。少なくとも「民主制導入」を掲げる米軍政府としては各地域(群島)における政治活動を最低限であれ認めない訳にはいかず、群島ごとに地域政党が組織されることになる。以下にその概要を示す。  
奄美群島>   
・「奄美共産党」(非合法)1947年 ・・・独立論(反米)から復帰論   
・「奄美大島社会民主党」1950年 ⇒「琉球人民党」大島地方委員会1952年・・・復帰路線
 <沖縄本島>   
・「沖縄民主同盟」1947年 ⇒「共和党」合流1950年・・・独立論(反米)から復帰論  
・「沖縄社会党」「琉球社会党」1947年 ⇒「社会党」1947年・・・独立論(親米)   
・「沖縄人民党」1947年 ⇒※「奄美社会民主党」合同 1950年・・・独立論(反米)から復帰論  
・「共和党」1950年 ⇒解散1952年・・・独立論(親米)  
宮古群島>   
・「宮古社会党」1947年(1949年解散)・・・独立論(親米)   
・「宮古民主党」1946年(1950年解散)・・・※自治論   
・「宮古青年党」1947年(1948年解散)・・・※ユートピア論   
・「宮古自由党」1949年⇒「沖縄社会大衆党」合流1952年・・・※民政府与党  
八重山群島>   
・「八重山農本党」1946年(1948年解散)・・・※農本主義   
・「八重山労働党」1946年(自滅)   
・「八重山民主党」1948年 ⇒「琉球民主党」合流1952年・・・※民政府与党   
・「八重山人民党」1948年(「八重山自由党」改称1950年)・・・※民政府野党
この一覧からもうかがえるように、占領直後の奄美・沖縄における人民側の意識は幅広い。しかし、それは戦後の混乱状況から「どうしてよいかわからない」「とにかく生きること」という目の前の切実な欲求が最優先していることは想像に難くなく、同じ「独立論」或いは「復帰論」でもその方向性についてはそれほどまとまったものではないだろう。海を隔てられている条件の中で相互の行き来もままならないまま、異国人の占領という状況において、冷静な独立論或いは復帰論が討議され醸成されるはずはないが、逆に言えば、「とにかく生きる」という本能的な底力が、上に示したような多彩な地域政党が現れる要因でもあった。それに加え、中世を始原とする大和・薩摩による支配、明治維新における琉球併合等の力関係の歴史が奄美・沖縄人民の意識の底に「(占領を)大和支配から離脱する機会」と捉える発意としたことも間違いないだろう。一方、「民主化」を注入しようとする米国政府は、特に沖縄の若い知識人を米国留学させる制度を発足させ、沖縄内部からの「民主化」を図ろうとする。この留学制度には後の沖縄県知事大田昌秀もいた。しかし、日本帝国主義による一方的な戦争駆り立てと陰惨な敗北、そして最初は「解放軍」としての姿勢も垣間見せながら、国際情勢を背景に急激に占領政策の方向転換(日本民主化→防共の砦化・半永久基地化)が、奄美・沖縄人民を結果として「独立論」から「復帰論」へ総意として転換集約させていく。またこの段階で一定の評価を得ていた「属州論」も徐々に消えていく。このような動きに、当時の奄美・沖縄のあるべき方向について政治的或いは精神的にもヘゲモニーを持っていた左翼勢力側も当初は米国を「解放軍」として評価し、一部においては信託統治の導入を肯定し、そこから独立を図るという意見も見られたが、「祖国復帰」という路線を明確にしていく。左翼勢力側には、東西冷戦と言う国際状況を背景にした、日本共産党内の路線対立も「独立論」「復帰論」へ大きな影響を与えたことは否定できないだろう。奄美・沖縄の知識階級は歴史的に或いは民族的に左翼の影響が大きく、現在にいたっているのだが、今においてもこの「復帰論」の総括はされておらず、沖縄における基地を巡る様々な問題に対するある意味その責任の一端を(左翼は)担っているといえる。
■歴史を構成する要素
さて、奄美・沖縄の占領直後の状況を私なりに整理してみたが、現実はこのように単純に言えるものではない。この世に生きる一人一人の人間の意識と行動は合理的でもなければ機械的でも無く、さまざまな不条理の積み重ねの上に歴史の表層として、米国、米軍、天皇、官僚、政治家、実業家、革命家、、、、そして人民と、その大小にかかわらず、全ては歴史と言う大海の中でそれぞれが思惟し判断した結果として様々な事象が現れるものである。アナーキスト大杉栄の論文『主観的歴史論-ピヨートル・ラフロフ論』の中に、歴史を構成する要素として「三個の範疇」の区別を述べている。すなわち、①過去の遺物 ②特殊の時代相 ③将来の萌芽である。何のことはない、単に「過去」「現在」「未来」を言葉を変えただけではないか、と思う向きもあるかもしれないが、上述した様々な対象はこの3要素を内部に持ち、そのそれぞれの強弱とともに、対象同士の相互の関係性(たとえば米国と天皇、官僚と米軍、革命家と人民、、、、)相互の活動が複雑に絡み合って歴史は作られていく。そういう観点からすれば、現状において、米国政府の①②③、日本政府の①②③をかなり的確に見分けられるように思える。と同時に、沖縄人民自身も自らの①②③を積極的に自覚する必要があるのではないだろうか。戦後70年、そして「復帰」後45年を経ようとしている今日、消えたかに見えた「独立論」がにわかに浮上してきた歴史的な意図が果たしてどこにあるのかを、占領直後のいまだに解明されていない「復帰論」へ傾いた経緯の検証が必要に思えるのである。
■追記
上述の説明に唐突に大杉栄を持ち出したのには訳がある。「復帰」した奄美において過去一つの小さな事件があった。時は少し遡り、1926年(大正15年)の6月15日の大阪毎日新聞の一つの記事だ。見出しは『薩南の孤島に大杉栄の碑。一周忌に建てたもの、このほど発見される』である。少し長いがその全文を記す。  
「大島諸島の中の一孤島、遥かに太平洋に面した百尺余りの断崖に建てられていることをこの程、鹿児島県大島郡東方村字蘇刈に漕ぎ着け、大杉の為に心ばかりの追悼会を催した上、同所に建てて引き上げたもので、碑は高さ二尺あまり、表面にローマ字で、大杉栄のOSと刻み、“西暦千九百廿四年九月十六日追悼碑”と、日本文字で刻まれている(東京発)」
この記事で、鹿児島県議会は紛糾したことが奄美市の資料に記述してある。(『名瀬市誌下巻』)この大杉栄に影響を受けた奄美の若者たちの中の一人の武田武市等が建てたものだ。武田は奄美アナーキストとして当時の奄美における薩摩(鹿児島)圧政に敢然と闘う。その武田の娘の井上邦子氏は今でも健在だが、亡き父の精神を受け継ぎ、占領後の奄美復帰運動を長く戦った一人だが、井上氏によると奄美における大杉栄の碑の話を大杉と伊藤野江の4女の伊藤ルイにも伝えたそうだ。奄美・沖縄を巡る歴史の大きな物語の中にも、このような小さくはあるも人間存在の根源を示してくれる物語があるのである。私個人としては、奄美人として今でも「奄美独立」を観念ベースではあるが保持している。今、政治的にもまた歴史的にも転換点を迎えようとしている「沖縄」の問題を人民サイドからの文字通り主体論として「復帰」した「日本」とは何者か、「独立」とはどこから、そして誰からの「独立」なのか、を明確にする必要を感じている。
※参考資料
奄美の奇跡』(2015年WAB出版)
『新たに発見された沖縄・奄美非合法共産党文書』(2001年大原社会問題研究所

低炭素社会へのアプローチ考

平成24年に独立行政法人科学技術振興機構が出したレポート『低炭素社会づくりのための 総合戦略とシナリオ』の中、「6章3.低炭素社会構築促進への社会システム・デザイン手法の適用」では、低炭素社会のイメージとして、(低炭素社会とは)「資源浪費型の人間活動が飛躍的に増大し、自然環境の自己調節機能の範囲を超え始めた」ことへの対処する「行動としてのテーマ」であり、「世界は技術中心のロジックから社会の価値観との関係で技術進歩を捉える時代に変わろうとしているのであり、ある意味で明確なパラダイム転換が起ころうとしている」という認識の下で、もう一つのパラダイム転換として「地域間、及び分野間の相互連鎖」を挙げ、この二つのパラダイム転換へのアプローチとして「社会の価値観を組み込んだ技術開発と活用を目指した課題解決を成し遂げる」ことの必要性を問うている。しかし、社会を“相互連鎖の仕組み(システム)”という捉え方をしているものの、「社会システム」の概念をその経済的或いは政治的或いは人間性の根本的在り方そのものを問う“社会全体としてのシステム”として捉えてのではなく、「消費者・生活者への価値創造と提供の仕組み」という科学技術振興機構自身が「部分的」と限定しており、自らも「供給サイドに立った発想」と認めている。「社会価値観(の変化)」を商品開発の分野に限定し、そこへ消費者を誘い込み、そして囲い込んでいくという、このような発想では、「低炭素社会」とは、単にマーケティング戦略の域を出ず、根本的な解決にはならないと思われる。片方で、「地球の危機」或いは「人類の危機」を声高に叫びながら、相変わらず「核兵器開発」やさまざまな「軍事戦略」に名を借りた戦争状態を創出しようとしているパラドキシカルな現実の国際社会の問題は、いみじくも上述の人類を含む自然環境における自己調節機能の崩壊を示すものであり、その要因こそ、社会を相互連鎖とみる視点の欠如と思われる。確かに数学的には、部分の総和として「全ての国家の危機」或いは「全ての国民の危機」が無くなれば「地球の危機」或いは「人類の危機」は無くなるという論理にはなる。しかし「地球の危機」と「国家の危機」或いは「人類の危機」と「日本人の危機」は果たして同じ性質のものだろうか。「地域間、分野間の相互連鎖」とは言い換えれば「社会は無数の関係性で成り立つ」ということであり、科学技術振興機構の同レポートのなかでも「それは産業や学問などの分野間の相互連鎖である。医療、情報、金融、エネルギーなど先端分野のそれぞれの最適化を図れば全体最適につながるということはありえず、それらの分野間の相互連鎖によるフィードバックを含んだダイナミック・システムとして捉えないといけなくなってきている」と述べられている。「相互連鎖によるフィードバックを含むダイナミック・システム」とは単にco2を出さない技術開発と販売戦略ではなく、人類の根本、或いは個々人にとっての人生そのものへ問いかけるものとなっていることを認識しなくてはならないだろう。科学技術振興機構自身が一分野であり、また現実の制約の中では、同レポートの大いなる根源的提起にも関わらず自らが「限定」と認めざるを得ない手法しか出てこないことがこの命題の困難さを物語っているのだが、このような一つの誤謬は、個別性の総和を全体性と見る要素還元論にあると思われるが、「低炭素社会」とは部分の総和ではなく、部分同士の無数の関係性で縫い合わされた織物(web)というホリスティックな概念へのアプローチとして捉えるべきと思われる。言い換えれば、生物学で言う創発の概念を引き込むような仕組みこそが、「相互連鎖によるフィードバックを含むダイナミック・システム」と言えるのではないだろうか。

法衣と権威に弱いのは誰か!?

一休さんの頓智ばなしは子供時代に聞いてもなかなか面白いものですが、世の中のいろいろな経験を重ねた今でも、読み返すと子供時代の解釈とはまた違った、言い換えれば奥が深いというか微妙な人生の機知のようなものも感じさせてくれます。その一休さんのとんち話の中に、「法衣」の話があります。
・・・・・・・
≪豪商から法事の招きを受けました。一休さんは、ボロボロの普段着の法衣で訪ねました。それを見た店のものから、追い出されました。そこで、一休さんは、最高位の法衣を着て、再び訪れると、丁重なもてなしを受けました。しかし、一休さんは、着ていた法衣を仏前に置いてそのまま帰ってしまいました。≫
・・・・・・・・・・・
さて、私が経験した-逸話その①-
昔、某霞が関役所の委員会メンバー選定にあたって役人と協議した時に、「(委員のメンバーとしては)やはり東大か、せめて早稲田、慶応クラスの先生がふさわしい」という担当者からの依頼がありました。
-逸話その②-
これも昔、ある地方の役所の仕事を行っていた時のこと。「上司を納得させたいのだが、本省の係長か課長クラスをご存じありませんか?」という担当者からの依頼がありました。
-逸話その③-
これは誰でも知っている話。ご存じ水戸黄門。身なりの質素な爺さんが説教しても聞かない悪代官の前で「この紋所が見えないか!頭が高い、控えおろう!」というあの決まり文句。これは説明の必要がないでしょう。

このような話は誰でもご自分の経験の中で日常的に持っているものであり、その例をあげれば枚挙にいとまがないでしょう。
これを以て「日本人は権威に弱い」という御馴染みの文句が出るのですが、哲学者の内田樹は逸話③の水戸黄門に関して面白い解釈をしています。彼が言うには、印籠に翻弄されるのはいつもワルモノばかりであり、逆に庶民は最後はご隠居さんと同じ目線でものをみている。ワルモノたちは彼ら自身が「根拠のない権威の名乗り」によって現在の地位に達し、その役得を享受しているので、「あなたの権威の由来を挙証せよ」と他人にいうことができなくなっている。この水戸黄門のワルモノたちこそ、日本の知識人たちの主流である「舶来の権威」を笠に「無辜の民衆」たちを睥睨(へいげい)してきた「狐」たちの戯画に他ならない
(『日本辺境論』内田樹より)・・・・


さすが内田樹。読みが深い、、、、、。と言いたいところですが、ワルモノと庶民という区分の仕方が恣意的であり、それほど単純な解釈でもないような気もします。内田さんの言う、「舶来の権威を笠に着る狐」はどこにでもいますが、果たして庶民である我々自身の中にも「虎の威を借りる」風潮が無いと言えるでしょうか。富に、昨今の日本社会中に「専門家に頼る」「支配者に頼る」ような我々自身がワルモノになっているのではないか、という気がしないでもありません。
さて、冒頭の一休さんのとんち(公案)の一応の正解は、「形にとらわれるな」という至極もっともなものですが、さて、あなたの人生経験からはどのような答が出るのでしょうか。

 

<DAIGOエコロジー通信5月号>

中央構造線上における地震の連鎖へのあるべき態度

「連動型地震」というのは学会的には仮説ということらしい。気象庁が「想定外」という表現で今回の”多発地震”について説明していたが、「科学的に証明されたものでないと信用しない」という相変わらずの悪しき科学主義から出た見解と言わざるを得ないだろう。本日の原子力規制委員会の田中俊一の「(川内原発停止についての)今判断を変える理由はない」という見解も同じ立場である。そして、コトが起きたら相変わらず「想定外」という便利な”行政用語”で逃げる、交わす、という狡猾さが透けて見える。ところで、気象庁は「想定外」という表現の他に「経験則から外れた地震」という説明も行ったが、これが無知から来たものか、或いはわざと知らないことにしたのか不明だが、全くの虚偽発言に近いものと言える歴史的根拠がある。それは、1596年の9月1日から5日にかけて起きた慶長地震だ。それはまず9月1日に愛媛県で発生した慶長伊予地震だ。その3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震、4日後の1596年9月5日に発生した京都の慶長伏見地震(ともにM7.0規模と推定)と立て続けに連続で起きた地震である。地震研究においては、これらは中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つで「連動型地震」とされているが、あくまでも冒頭の「仮説」ということらしい。地震予知に関わる研究者・学者においては、「連動型」を科学的な根拠で説明することは難しいらしいが、現実がその根拠を示しているではないか、と思われる。このことを裏付けていると言ってもいいように、先ほど(2016年4月18日PM11:16)、この構造線に近い徳島(三好市、土佐町)でも規模は小さいが震度1地震が発生している。気象庁、或いは原子力規制委員会などそれぞれの立場からのいわゆる責任逃れ的なポジショントークが乱発され、また政権はこれを悪用、逆利用して丸投しているが、このような人知を超える自然現象に対しては、政治や科学などの専門家にすべてを委ねるという態度こそ我々は改めねばならないと思われる。東日本震災がそのことを如実に物語っているではないか。個人は弱いものであるが、弱さゆえにこそ自らの内面が発する警告に敏感にならねばならないだろう。そそてそれは「妄想」ではなく、多分歴史上のどこかで同じことが繰り返されていることの目に見えない無意識の伝播と思われる。

関係性の科学ー東洋思想の再評価ー

今からおよそ50年ほど前、オーストリアの美しい小さな村アルプバッハに15人の科学者が集まり、生命及び科学の本質について議論を行った。呼びかけたのは、アーサー・ケストラーというユダヤ人のジャーナリストだ。この会議には、遺伝学者、心理学者など15名が集まったが、会議のテーマは「還元主義を超えて」と題し、機械論的世界観の転換を図ることを目的としたものだ。19世紀後半から20世紀にかけての科学における基本となった要素還元主義の思考は今でも医学界などにおいては主流だが、「部分の総和=全体」或いは「全ての事象は物理・化学的法則に還元(翻訳)できる」という機械論は、確かに人間社会に「効率性」「利便性」をもたらしたが、一方で例えば、フレデリック・テイラーが唱えた「科学的管理法(テーラリズム)」は、我が国では戦後の高度成長時に日本生産性本部が取り入れそれがトヨタカンバン方式へとつながったが、それはチャップリンのモダンタイムズでも批判された人間を実質機械と見る経営管理手法であった。このような機械論的発想は、いわば無機質思考とでもいうべきものであり、結果として人間特有の有機論的価値観(生きることの意味、目的、価値等)を捨て去ることになった。これらへのアンチテーゼとして、冒頭のケストラーが行ったシンポジウムはその後、「ニューサイエンス」と呼ばれるジャンルの成立につながるのだが、それは同時に反文化論としての「ニューエイジ」、「フェミニズム」「エコロジー」という思想的潮流も生み出した。今、我々がテーマとしている「地球環境」という言葉或いはパラダイムが現れるのもこの頃だ。この流れが「科学・哲学・宗教」という領域を発展的に溶融し、新しい価値観を生むようにみえたものの、しかし、その後それらは東洋的或いは西洋的「神秘主義」と結びつくことになり、例えば我が国ではオウムのような「科学こそ宗教」という極端な思考集団を生むこととなったのは、記憶にまだ新しい。現在の環境保護運動にはこの「ニューサイエンス」的、或いは「ニューエイジ」的思考或いは集団が少なからずみられる一因であろう。しかし、果たして「ニューサイエンス」は怪しげなオカルトだったのだろうか。量子力学におけるコペンハーゲン解釈、或いは最近話題になったアインシュタイン重力波を、F・カプラは仏教の「縁起・空思想」との相似性を提起し、科学(物理学)に東洋思想を積極的に取り入れることを謳ったが、カテゴリーエラーとして批判もされた。しかし、ともかくも数式的に説明できないもの、或いは(定理・公理に)還元できない論理をすぐ「怪しい」とする“科学主義”は、STAP細胞問題を見るまでもなく、ある意味決定論的思考となっており、自らが科学主義信仰に陥るというパラドックスを示しているようにも見える。簡潔に言えば、これら西洋合理主義思考は、デカルト哲学により精神と物質の分離を強固なものとし、またルネサンスに端を発する自然科学の発展は二つの領域の関係性を問うことなく、いつのまにか物質的説明を精神世界に持ち込む転倒が行われた。一方、東洋的精神とは、「分離・対立・相対」的な西洋合理思考と違い、「統合・相関・絶対」的であり、自然状態を「あるがまま」に観ることを基本とするように思える。しかし、分離・対立により、物質の説明を原子レベルまでは見事に説明してきた近代科学が、その先の素粒子に至って量子論で示した『世界は相互作用の関係性のみが存在している宇宙的織物』『世界を主体と客体、内的世界と外的世界、身体と魂に分ける通常の分割法は、もはや充分とは言えない』(ハイゼンベルグ)という言葉は一体何を示しているのだろうか。この「関係性」と言う言葉にこそヒントがあるような気がするのである。関係性の科学は、ウイナーのサイバネティックス或いはベイトソンのシステム論など、先述のニューサイエンスの流れを汲む西洋の学者によって、これまで単発的に説明されてきたが、その後が続かないように見えるのは、どうしても彼らが根本的に西洋人であるからではないか、と思える。ハイゼンベルクシュレーディンガーは言う。『戦後、日本から理論物理学の領域で素晴らしい貢献がなされたことは、東洋の伝統的な哲学思想と、量子論の哲学的性格との間になんらかの関係性があることを示しているのかもしれない』(ハイゼンベルグ・ボストン講演)『西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている』(シュレーディンガー)そして、アインシュタインと我が湯川秀樹の言葉で本論を締めくくる。我ながら何を言いたいのかまとまりがない散文となってしまったが、少しでも意図が伝われば幸いである。
●『現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教です』(アインシュタイン
●『素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた』(湯川秀樹


<付記>
関係性については、「平成23年度科学技術白書 第2節社会と科学技術との新しい関係構築に向けて」でこのような文章を掲載している。
「・・・科学技術を、単に研究者・技術者だけが関わるものとしてではなく、その功罪を含めて社会・経済・政治などの関係性の中で考えていくべきものであると認識して、社会を構成する個々人が、持続可能な民主社会を創出するために共に社会の一員という自覚を持って決断し行動するための力となるような科学技術の知恵とは何かを明らかにすることを目標としている・・・・」(科学技術の智プロジェクト)

 

一般社団法人 日本低炭素都市研究協会 会報『低炭素都市ニュース&レポート』4月10日号より>

木炭と鉄

「鉄は国家なり」という有名な言葉があります。言ったのはドイツのビスマルク(鉄血宰相)でしたが、我が日本も明治維新以降、この言葉を金科玉条として鉄の生産に励みました。ということで鉄の話をするには、そもそも鉄を作り出す方法について知る必要があります。鉄の生産に木炭が使用されたのは、日本のたたら鉄のみならず、世界中どこでも使われていましたが、この技術は「酸化還元法」と言われるもので、原料となる砂鉄や鉄鉱石の中に含まれる酸素分を木炭燃焼によって除去(還元)することです。もちろん鉄分そのものを溶融するための熱源としての用途も木炭にはあります。鉄を作るには、高温状態にある中に、原料(鉄鉱石や砂鉄)と還元剤としての木炭を交互に何度も混ぜ合わす必要があり、この方法で大量に鉄を取り出すために考案されたのが、いわゆる「高炉」という設備です。この高炉で出来た鉄は「銑鉄(せんてつ)」と呼ばれるもので、まだ不純分を相当含んでおり、そのまま使用することは出来ません。この「銑鉄」をもう一度溶融(炭素分除去:酸化)させるのが「転炉」と呼ばれるもの
で、この過程で炭素分を調整することにより、硬さの違う鉄を抽出出来ます。この工程を「精錬(せいれん)」と呼んでいます。ちなみに木炭をつくる最後の作業も「精錬」(ねらし)と言いますが、これは炭化のムラを無くす作業のことですが、炭化時に含まれる不純ガスをやすのですが、これにより純度の高い良質な炭が出来ます。木炭は製鉄における燃材及び参加還元剤として、古代から近代まで非常に長い間利用されましたが、それは結果として森林伐採の弊害を招くことから、中国では既に4世紀に木炭の代わりにコークスが利用されており、西洋では17世紀頃からは石炭、そして18世紀にコークスが使われるようになりました。ところで、ここまでの話で言う鉄は、その形としては固形物であり、その活用方法は建築物から車両、家庭用製品など幅広く行きわたっていることは余りにも当たり前ですね。しかし、鉄粉という粉状のものの用途についてはあまり知られていないのではないでしょうか。ところが結構身近なところで、この鉄粉は使用されています。たとえば使い捨てカイロや脱酸素剤などですが、その他にも製薬メーカーの造血剤、或いは水田稲作における種子(モミ)を鉄でコーティングした「鉄コーティング水稲直播技術」にも使用されています。炭も粉末にすることによりその利用用途が大きく拡大しますが、鉄もおなじように粉状(紛体化)することで、これまで考えられなかった利用用途が考えられるのですね。アメリカのIBMでは、炭素繊維と鉄粉を使用した電磁波遮蔽材を特許取得していますが、この技術は建築や繊維産業などでも新しい技術として導入されています。現
在では、木炭を製鉄に利用することは技術の進歩によりほとんどありませんが、鉄と炭の関係は人類の歴史においてはこのように現在でも深いつながりがあります。

 

<DAIGOエコロジー村通信4月号>