美智子皇后と五日市憲法②

先日は五日市憲法に対する美智子皇后の発言について書いたが、そもそも現憲法の9条についての背景には様々な説があるが、一つのノンフィクション的仮説として考えてみたい。

その一つの切り口として昭和天皇の母親である貞明皇后(1884年~1951)を取り上げる。

彼女は、語弊はあるが「反戦思想」の持ち主であった。それは、皇后がキリスト教(クエーカー派)へ傾倒し、日本古来の精神とキリスト教の“融合”を模索していることからもうかがいしれる。ちなみにクエーカー教徒は平和主義・平等主義で知られている。そのきっかけを作ったのは、皇后の家庭教師でもあった東京帝国大学教授の筧克彦(1872年~1961)である。

貞明皇后はこのような環境から、やはりクエーカー教徒の新渡戸稲造(1862~1933)・内村鑑三(1861年~1930)が設立に寄与した「普連土学園」の関谷衣子(1886~)とも親しくなる。日米戦開戦中に、貞明皇后と関谷衣子の会話のエピソードとして、衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と述べたという。ちなみに、普連土学園は今も東京都港区三田に普連土学園中学校・高等学校として存在している。また、この関谷衣子の三男・光彦の妻が日本YWCA会長として反核平和運動に関わった関谷綾子(1915年~2002)である。綾子は薩摩藩士で初代文部大臣を務めた森有礼(1847年~1889)の孫娘でもある。

さて、貞明皇后は、二男の秩父宮雍仁親王の妃として、会津藩松平容保の孫娘(父は4男恒男)の松平節子(のちに秩父宮勢津子1909年~1995)を強く推挙し、1928年に正式に婚約が発表される。貞明皇后の旧会津藩に対する配慮もあったと思われる。実は、この秩父宮妃も、米国ワシントンDCのクエーカー系のフレンド・スクールを卒業している。ちなみに秩父宮妃の有名なエピソードとして、白洲正子(1910年~1998)との友情があるが、この白洲正子の祖父は薩摩藩士樺山資紀であり、また父樺山愛輔(1865年~1953)は吉田茂らとともに終戦へ向けての工作を行ったとされる「ヨハンセングループ(吉田反戦G)」の一員でもあったが、特に貞明皇后の信頼が厚く、日米戦開戦前と終戦直前に秘密の使者として米国との裏交渉を行ったという逸話もある。この樺山愛輔もまたクリスチャン(メソジスト派)であった。

話を戻すと、秩父宮妃のフレンド・スクール入学に積極的に関わったのは、当時のクエーカー教徒でもあった外交官の澤田節蔵(1884年~1976)である。この節蔵の妻になるのが、薩摩出身駐イタリア公使大山綱介の長女・美代子である。美代子も長らくローマに住み、帰国後は双葉女学校カトリックで学んでカトリック信者となっている。この節蔵の弟の澤田廉三もクリスチャン外交官であったが、彼の妻が三菱財閥岩崎久弥の長女・美喜であり、のちに混血孤児救済施設のエリザベスサンダースホームを設立することになる。

さて、長々と貞明皇后に関わる周辺人物の血脈と経歴を述べたが、そこから浮かび上がって来る構図は、「キリスト教薩摩藩(・会津藩)」という政治的つながりと、キリスト教(特にクエーカー教徒)に根差した平和主義を持った先進的な女性たちの姿である。貞明皇后は先に述べた関谷衣子との会話からも知れるように、「(我が子)昭和天皇の命」を救うために終戦まじかに奔走するのであるが、結果として「象徴天皇の存続」としての憲法制定の中に9条を盛り込むことにより、キリスト教的な立場としての平和主義を実現することになる。

9条の制定については、表向きの歴史教科書的認識では、マッカーサーが発案したということになっているが、近年では、幣原喜重郎(第44代内閣総理大臣1872年~1951)がその政治的リアルポリティックで発案したという研究もなされている。(堤尭「昭和の三傑」集英社インターナショナル)じつは、この幣原もクエーカー教徒であったという説もある。

さて、終戦後、現天皇である明仁親王の英語教師にも、エリザベス・バイニング、ミス・ローズという二人のクエーカー教徒が就いている。このように戦後の天皇家キリスト教(クエーカー)は深い関係にあるとみても間違いないだろう。深いと言ってもいわゆる陰謀論的なことではなく、新渡戸稲造を契機とし、神道思想家の筧克彦に影響された貞明皇后の積極的な神道キリスト教の“融合”に新しい時代の皇室の在り方を見ていたと思われる。その流れが、美智子皇后、雅子妃へとつながっていると言える。美智子皇后の実家である正田家はやはりクリスチャン(カトリック)であり、美智子皇后自身も母校の聖心女子大学であるが、小学校は「四谷雙葉学園」である。皇太子妃である雅子妃もまた同じ「田園調布雙葉学園小・中・高」と現皇后と皇太子妃が同じカトリック修道会が母体となっている学園を出ている。

さて、美智子皇后の「五日市憲法」の発言の裏には、このような憲法・9条をめぐる皇室サイドの史実があるのもまた事実である。果たして、ノンフィクション的推理であろうと、現実はそんなに単純、或いはきれいごとではないだろう。しかし、歴史を見る場合、個別のエレメントをつなぐことによりその脈絡或いはコンテクスト(文脈)が見えて来るものである。あの悲惨な戦争そして原爆を経験した、皇族を含むすべての日本人がいろいろな思いと知恵で作り上げた「憲法」を、いとも簡単に破壊し、時代錯誤的なものに変えようとする勢力の意図がこのように皇室をめぐる史実を丹念に拾っていくと、皮肉にも彼らが拠り所の一つとする「天皇家(制度)」側からも敢えて“反論”が出てくるという状況ではないだろうか。

(参考:萬晩報通信員 園田義明氏資料)

 

<補足>宮中を巡っては明治維新以降、いわゆる薩長閥の確執がずっと続いているという“仮説”がある。史実的に言えば、本論で述べた大戦前後の宮中には、牧野伸顕を中心とする薩摩グループと木戸幸一を中心とする長州グループの存在は明確であった。本論の貞明皇后はその中の薩摩グループと連携していたと思われる。そのほか、昭和天皇の妃をめぐる薩長の「宮中某重大事件」も起こっている。さて、安倍晋三は生粋の長州人であるが、果たして美智子皇后の発言をめぐる現代の「薩長の闘い」が起きているのだろうか?!

 

貞明皇后と明仁親王(現天皇)貞明皇后明仁親王(現天皇