皮膚感覚的他者感覚

以前も「エコロジー村の人たちはなぜ仲が良いの?」「エコロジー村はなぜこんなに長く活動できるの?」という質問が多いということを書きました。その時は「炭を焼くという共通の行為が共同の価値を醸成した」というような主旨を展開しました。(2018年3月号【チャーチルの寓話とエコロジー】)。ところで、今の時代、世の中を眺めていると、異国・異民族への排外的行為、すべてを裁判に委ねる訴訟の多さ、イジメ、、、etc、他者への攻撃的行為が上は政府から下は学校、職場、家庭或いはネット上にまで広く蔓延しています。ちょっと前に「今だけ、金だけ、自分だけ」というブラックジョーク的標語が流行りましたが、今の社会の側面をよく表していると思えます。なぜ、このように他者に対して攻撃的になるのか、については心理学的には「自己防衛本能」という説明もあります。つまり、「何か知らないが自分を取り巻く不安」があり、それから身を守ろうとする「自己防衛本能」が「他者攻撃」という行為を通じて「自己を正当化」することによって、その「不安を取り除く」ということです。原因は「不安」ということですが、人間である限り「不安」はついてまわるものであるので、そもそもこれから逃れようとすること自体に根本的間違いがあるのかもしれません。しかし、「自己防衛本能」は生物としてなくてはならない「安全」上の重要な要素です。この重要な生物的要素が自己を守るために他者を攻撃する、言葉を変えると他者を「食い物にする」という行為に一方的に走ることが問題ではないか、という疑問(回答仮説)が出ます。「他者攻撃」の最たるものが「戦争」ですが、日本の敗戦直後に思想家の丸山真男はこの「戦争」を排除できる一つの考えとして『他者感覚』ということを述べています。彼(丸山)は「(他者感覚とは)お互いを理解しあう”対話”(※会話ではない!)が必要であり、”対話”が成立するにはその人の考えの底にある言葉を掘り起こし、汲み上げること」と定義づけました。丸山さんは学者ですからどうしても説明が固くアカデミックな表現になりがちで、ちょっと頭をひねらないと理解できないところもありますが、この「他者感覚」とは巷よく言われる「人の立場に立て」ということと同義ではないか、とも思うのですが、丸山さんの考えはそのような単純な「倫理道徳」段階ではなく「民主主義」の根源のところでこの「他者感覚」という観念を用いているようです。さて、丸山さんの意図したところは別として、冒頭の「エコロジー村はなぜ・・・・」という疑問へのもう一つの回答が、この「他者感覚」というものの存在ではないか、と私は思います。つまり、エコロジー村のメンバーに共通しているものに「炭焼」という行為と「他者感覚」という意識の二つがあり、それが「エコロジー村」の存在を象徴しているように思えます。先ほどの丸山さんほど突き詰めたわけではありませんが、この感覚は頭で考える「思考感覚(観念)」ではなく、もっと自然的な或いは環境的な体自身が反応する「皮膚感覚」のようなものではないでしょうか。「恩方というなんの変哲もない里山で炭を焼く」という行為は、実は、口、鼻、耳などの受容感覚に多くの刺激を与え、他者と競争しあうことで自己を確立していかなければならない都会とは違う、自然に生かされているという意識を持ったことにより、この「他者感覚」というものが生まれくるのではないかと思います。なぜならば、私自身が生き馬の目抜く都会において他者攻撃的生活を是とした過去があり、しかし、そのような過去も「エコロジー村」という環境の中で、「他者攻撃」から「他者感覚」へと気持ちが移行してきたという経験を持つからにほかなりません。これはほかのメンバーにも大なり小なり共通しているのではないかと思います。そして、この「他者感覚」は人から人へとお互いの皮膚を通して、まさに丸山さんの言う「会話」ではなく「対話」が成立し、自然とエコロジー村のメンバーの他者感覚的つながりを形成している、という風に私は考えますが、みなさんいかがでしょうか。

<DAIGOエコロジー村通信12月号>