ヤポネシア論

ヤポネシア」とは作家の島尾敏雄が作った造語です。島尾は終戦直後に特攻人間魚雷回天の乗組員として奄美大島加計呂麻島にあった回天の基地で死を前に終戦を迎えました。戦後、彼は島娘のミホ氏と結婚、実家のある神戸へ移り住むもミホ氏の心の病を癒すために奄美へ移住します。自らが死を覚悟した特攻の生き残りとしての中途半端な自らの存在を小説を書きながら見つめ続けますが、本土とは自然だけでなく文化も違う奄美大島の環境が、徐々に彼の目的を失ったかのような心の内面にある”気づき”を与えます。国民一丸となって戦争に突っ込んだ日本社会、即ち「みんなが一色に塗りつぶされてしまう息づまるような何か、固い画一性」が「日本人というものを狭くしている」と感じ、何故そうなのか、どうすればそこから抜け出せるのか、を彼は常々考えていましたが、それは、その疑問へのある一つの回答でもありました。彼は言います。「…この島々の文化の中には本土で感じられる、緊張と硬化でこねあげられた固さがないことに気づいた。……ひとことでいうことは容易ではないがナイーブな生命力のようなものが、この琉球列島の島々の生活にはひそみ、人々の挙措のあいだに、日本本土では忘れられてしまった『やさしさ』を見つけだすことができたのである。誤解をおそれずにいえば、この島々には近代の文明に毒されない、中世もしくは古代の人間まるごとの生活が息づいていた。…」
 島尾は、本土の社会の「固さ」と南島の「柔らかさ(やさしさ)」の違いを南西諸島を総称して言う「琉球弧」にその根源を見出そうとし、南洋のポリネシア、或いはメラネシアなどとおなじような「ヤポネシア」という概念で捉えました。彼は、日本人である事或いは空間的にも日本から抜け出すことが出来ない状態の中で「もう一つの日本」という発想に行きつきます。彼は言います。「この抜け出せない日本からどうしても抜け出そうとするなら日本にいながら日本の多様性というものを見つけて行くしかない。…もう一つの日本、つまりヤポネシアの発想の中で日本の多様性を見つけるということ」だと。島尾が言いたかったことは、個別奄美・沖縄の特殊地域性ではなく、日本全国どこへ行っても「ヤポネシア」は存在する のではないか。それは日本人が自ら信じ込んでいる、或いは信じ込まされている「画一性」というものは相対的に作られたものであり、天皇と言えども歴史はわずか1500年程度しか遡れない。しかし、「日本人」は縄文或いはそれ以前、数千年は遡れるはずだ。ということではなかったのではないでしょうか。そう考えれば、我々が現代居住する地域それぞれが「ヤポネシア」に該当するハズです。
 科学技術の発達やグローバル化が進展する世界において、また現代日本社会が置かれている息詰まるような閉塞感の素因に前述の「固さ・画一性」があることは間違いないでしょう。それを「柔らかさ(やさしさ)・多様性」に変えることを可能にする考えの一つに「ヤポネシア論」はあるのかもしれません。

 

<DAIGOエコロジー村通信 2018年7月号より>

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