土屋高輝さんを悼む

土屋高輝さんと初めてお会いしたのは、共通の友人であった和田典久氏の紹介が切っ掛けだった。その頃北新宿にあった私の事務所に和田氏と一緒にお出でになられたのは、記憶は定かではないが確か平成12年の春の頃だったように思う。しかし、お会いする以前から時折、和田氏から「あなたに是非会わせたい御仁がいる」という御話は聞いており、その和田氏の説明する土屋さんの人物像が、とても破天荒で魅力ある印象が深かったので、直接お会いするまでの間も私の頭の片隅に土屋さんのイメージは棲みついていた。そして確かに、最初の挨拶の懐かしい“薩摩弁”とともに、朴訥な中にも一種武士道的精神を備えた土屋さんの立ち振る舞いに、私はもう何年もあっていない旧友に会うような感覚に捉われたのだ。その後、私の方から頻繁に土屋さんに声を掛けて、時には事務所で、また時には居酒屋で、経済を語り、政治を語り、そして世界を語った。その頃の私は、父を亡くした直後であり、また自らの人生を振り返りながらそれから先の“生き方”に自信を少々失いかけてた時であり、家族や友人、仕事仲間とはまた違う環境を求めて、空いた時間に肉体労働のアルバイトをしていたのだが、酒の酔いも手伝い、つい土屋さんの優しさに甘えたのだろう。私はある時、土屋さんから「あなたの言葉を聞いていると逃げの言葉が多すぎる!」と一喝されたのだった。友とは言え、5歳の年齢差の土屋さんは私にとって、先輩であると同時に兄でもあり、ともすれば人の言葉にいつも反論しながら生きてきた私であるが、その時は何故か土屋さんの言葉を素直に受け入れることが出来たのだった。自分ではなかなか気づかなかったマイナーな生きる姿勢に対する、土屋さんの真正面からの“喝”は“檄”でもあった。思い返せば、この土屋さんとの出会いにより、私は事業意欲とともに生きていく気持ちも180度ターンしたのだろう。そのような土屋さんとの付き合いが短くも終わるとは夢にも思わなかった。というのは、土屋さんが新たな活躍の場を名古屋に求めて東京を離れたのだった。「明日名古屋へ向かう」という土屋さんと荻窪の居酒屋で“最後の酒”を交わしながら語った内容は、まるでこれから戦場へ赴く友との別れのような雰囲気があったことを今でも覚えている。しかし、実は話はこれでは終わらなかった。それは、私と土屋さんにとっての第二幕が次に控えていたとは想像だにしない、別れの酒だったのだ。土屋さんが名古屋へ赴いてから二月ほど経った頃、名古屋を豪雨が襲い、後にそれは「東海豪雨」と名付けられたのだが、土屋さんが勤務する天白区の印刷会社もビルごと水につかったのだった。当然安否を気遣った私はすぐ土屋さんと連絡を取ったのだが、土屋さんは沈着冷静にも、ご自分のことよりも会社のことを右往左往するその経営者以上に考え行動しようとしていた。ここでも、土屋流武士道的経営思考とでもいうべき、また薩摩っぽの性格かもしれないが、そのような土屋さんの行動は、当然経営者とぶつかるのは避けて通れない。そのような、土性骨の強い土屋さんを再び東京に舞い戻らせた要因の一つは、私自身がまた再び友とまみえることを願って土屋さんを口説いたことにもあるだろう。私は、現場仕事が終わるとそのまま車で名古屋へ土屋さんを迎えるべく一路向かったのだった。水害の後始末はまだ残っていたが、土屋さんのアパートから家財道具一式を積み、そのまま東京へUターンした。これを切っ掛けに私と土屋さんの第二ステージは幕を開いたのである。とりあえずは、東京での新たな出発を誓う土屋さんを半ば強制的に我が家へ同居させ、私と土屋さんの事業コラボを始めることになった。「新規事業決起集会」などと銘打って、北新宿の事務所で先述の和田典久氏、そして土屋さんのご子息の有君なども参加して、盛大な“飲み会”を開いたことを今でも時折思い出す。そのようにして、土屋さんと私の共同生活と共同事業が始まったのだが、ともに「商売道」をトコトン突き詰めるタイプではないことを多分土屋さんも私のことをそのように思っていたのではないだろうか。二人がある事業計画を討議する時も、最後は「政治論」「人生論」のような話になり、そしてお互いに共通する文学的感覚とでもいうべきか、「信条」ではなく「心情」を優先する話に気持ちが昂ぶって来るのである。少なくとも、この時私たちは数十年前の「世界を変えたい」という若き学生時代に舞い戻っていたのである。土屋さんの学生運動との詳細な関わりは知らないが、フランス文学を専攻されていた土屋さんには、いつも「パリ5月革命」のカルチェラタンの印象が胸の思いにあったように思える。土屋さんは一方では冷静に現状を分析し、理路整然な行動を規範としつつも、もう一方では人間に対する根本的な優しさで、どのような相手でも包み込む深さを備えていた。土屋さんのまなざしの優しさはそれを物語るものだろう。この共同事業においては、このような土屋さんの幅広い人脈とその人間性が、また私にとっても新たな人間関係の幅を広げていったのだった。そのような土屋さんが、今から思えば、人生最後のステージを故郷宮崎に移したのは、平成13年だっただろうか。私も土屋さんも、現実的な利益確保を目的とする事業に全身全霊を打ち込む(※土屋さんは良く「全知全能を傾ける!」という表現が好きだった!)には、余りにもいろいろな人生経験を積んでおり、単なる利益稼ぎの商売では、その存在を満足させることは出来なかった。とはいえ、身近な人を大事にする土屋さんの家族愛は慎み深くも大きいものであり、多少の望郷の念も手伝ったのではないだろうか。しかし、土屋さんは、故郷宮崎においてまた新たな試練と壮絶な闘いに挑んでいくのである。串間市を相手に堂々と決して譲らない裁判闘争は、「蟷螂の斧」とは知りつつもそれをやり抜くという土屋さんの姿勢は、最初に私が土屋さんから一喝された「逃げるな!」というあの言葉を吐く土屋高輝という存在の一つの本質だった。裁判の勝ち負けではなく、まさに「心情」を「信条」に転換してやり抜くことにその意義を見出したのだ。しかし、現実の裁判闘争は時間的、空間的、経済的にもかなりな労苦を伴ったことだろう。そのことが皮肉にも土屋さんの肉体を蝕んでいたとしたら、もし神と言う存在があるとすればあまりにも非情ではないか。さて、土屋さんとの思い出をつづりながらの哀悼文になってしまったが、思い出をかき集めればまだまだ書きつくせないほどである。土屋さんと最後にお会いしたのは、旅立つ二月前の5月31日、娘さん一家がある東京世田谷の尾山台だった。ここは、私が通った大学がある懐かしい場所であり、それにも土屋さんと私のつながりの不思議な縁を感じるのである。この時は、お互い夫人同伴の短い時間だったが、それでも非常に血色のよい、お元気な土屋さんと酒抜きとはいえ、会話は弾んだのだが、そのわずか一月後に、「上京した」という土屋さんからのメールを頂いた。そして、そのメールには、「余命1か月を宣告された。セカンドオピニオンを求めるために上京した」という返事とともに、「やはり(余命1か月という)同じ見解だった」という文字が何故か冷静な感じで書いてあった。私はとっさに「余命なんて医者が決めるものではないですよ。宣告されてもずっとピンピンしている人はいます」と即レスしたが、いまから思えば慰めの積りで書いたのだろうが、私の心は何とも言えない複雑な揺れを感じた。しかし、土屋さんの覚悟はどこかで決まっていたのだろう。7月13日付のメールをそのまま転記したい。「既に人生の整理を始めています。整理と最期の準備はしていますが、最後まで諦めずに静かに頑張るつもりです。著作として<ドキュメント・串間の真相、日本の深層>、更に、<我が転戦記>を出すことにしました。そうです、余命は自分で決めます」

最後まで土屋式武士道とも言える規範を曲げることなく旅立った土屋高輝さん、あなたからはいろいろなことを教えてもらいました。私がそちらへ行くにはまだ少し時間がありそうですので、そちらでお好きだった『百万本のバラ』でも歌いながらお待ちください。私だけでなく、あなたの友だった方々もきっとまたそちらでお会いすることができるでしょう。その日まで、さようなら。

 

平成28年8月21日

 

川口武文

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仮想通貨

金融経済については余り知識はありませんが、というかもともと興味が無いのですが、とはいえこの社会に生きている以上、金融(カネ)が私自身の物質的生活基盤の要諦となっているのは事実でありそこから逃れることはできません。さて、今年の2月、東京三菱UFJ銀行が、「仮想通貨」を発行することを発表しましたが、一部の人を除きそれほど大きな話題にはなりませんでした。大概に言えば、「仮想通貨」とは以前問題となった「ビットコイン」のことです。10年ほど前でしょうか、セカンドライフと言うバーチャル空間ビジネスが一時流行りました(今はどうなっているか?!)が、その中で使用されていた「リンデン$」というバーチャルな通貨がありましたが、これと同じものかと思った所、どうも違うようです。この領域の専門家によれば、リンデン$とビットコインの違いは、発行主体にあるとのことで、リンデン$の場合は、セカンドライフの運営会社が発行主体ですが、一方のビットコインには発行主体というものが無い、というか「しいていえば、ビットコイン取引に参加するコンピュータ全体である」とのことらしいのですが、政府日銀発行の紙幣通貨になれている私にとっては、ちょっとイマイチ理解できないものです。もう一つの説明では、現在流通している通貨紙幣が各国家(の中央銀行)という中央集権的取引性格だとすれば、ビットコインは「分散型取引」であるということです。このような「仮想通貨」を発行するとした三菱UFJの説明によると、「独自の仮想通貨として「MUFJコイン」を開発中であり、これはビットコインの技術をベースとしている」「まずは「行内通貨」として実験を行い、可能性が実証されれば円と交換できるようにし、一般ユーザー向けに解放することも検討する」と述べています。一方、メガバンクがこのような「仮想通貨」の開発に乗り出した本質的狙いとして、別の要因も考えられているようです。すなわち、コンピューター上の「通貨」と人工知能(AI)による接続が、現在不透明な形で行われている貨幣需給(量的緩和金利政策等)をより適正に安定的に調節することが出来るようになりインフレ・デフレの防止策となる、というものです。これについては、日本政府もこの主旨を明言はしていませんが、三菱UFJの発表後、金融庁が「仮想通貨」を「法定通貨」として認める準備(法整備)を検討しているとの報道がされています。小さい時、親からもらったお小遣いで駄菓子屋でお菓子を買った時から、時々の親を始め社会からの「額に汗して働いた結果」としての道徳的説教もあった「お金」には、そこに印刷刻印された数字的価値以外の、人間が社会的動物としてのより根源的価値も含まれているかのように感じたものです。給料袋に現金が入っている時の“感動”は銀行振り込みという機械的な仕組みに変わりはしましたが、それでもATMを操作すれば、そこには物質的には殆ど価値のない金属と紙ではあるものの、やはり「人間感情」としての“喜び”はあるものです。しかし、それが、コンピュータやスマホなどによる一つの「情報」としてしか機能しなくなることは、先述のインフレ・デフレの効率的適正管理によって景気動向に左右されてきた人間の経済暮しが安定するという効果と果たして取引できるだけの価値があるものか、疑問に思うところです。もっと端的に言えば、インフレ・デフレの繰り返しは、ある意味人間経済活動の本質的なことであり、これを適正にコントロールできることなど所詮無理であり、もしそれを可能にするとすれば、人間自身がその人間自身の本質そのものを変えていくことしかあり得ないのではないか、と思う次第です。

 ★「仮想通貨」については、ウイキリークのジュリアン・アサンジがその可能性と効果について、「管理国家VS市民」という構図から述べていますが、確かに一時議論された「地域通貨」と概念的に重なるところもあり、本論でのべた「中央集権管理VS分散型管理」という構図とも重なるので、そこの部分ではその可能性を肯定することはやぶさかではありませんが、いずれにせよ、我々の生殺与奪を握る「通貨」がAIと連動することの“怖さ”の想像力を膨らませる必要もあるかもしれません。

 

<低炭素都市ニュース&レポート8月号より>

天皇明仁と人間明仁

平成天皇が「生前退位」という”お気持ち”を表明されました。朴訥と語る口調のおよそ11分の全文は1823文字からなっています。普通5分間スピーチで1500文字と言いますから、天皇はその倍以上の時間をかけてスピーチを行ったことになります。天皇の口調をモノマネするタレントもときおり見かけますが、今回のスピーチの言葉と口調は説得力と訴求力があるように思えます。それは、やはり天皇の偽りのない本音がにじみ出ていたからでしょう。天皇制を巡る政治的立場からの議論は横に置き、人間として彼の言葉をどのように受け取ることが出来るか、或いは受け取らなければならないか、ということは国民としてだけでなく我々も人間として避けてはならないことのように思えます。何故なら、彼と私たちの存在の関係は政治や制度と言う社会的制限を取り払えば、人間共通項としての”自由”という根源的命題が横たわっているからです。極言すれば、彼(平成天皇)の自由を奪っている主体の一つに我々(国民)の存在があるのではないでしょうか。少なくとも戦後、天皇から国民が「自由を奪われる」ということはなかったでしょう。彼の話しの中の「天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて」いたという個所は、彼の素直な立場上の思いとともに彼自身の苦悩も感じさせるという受取は私だけかもしれませんが、彼の意識的或いは無意識的呪縛をほどき、人間としての根本的自由を取り戻させるのは、時の政治権力ではなく、同じ人間共通項としての我々国民にしかできないものです。戦後70年、とくに彼が在位したおよそ30年に渡る彼の行動は「天皇明仁」ではなく「人間明仁」として高い評価を与えうるものでした。戦後民主主義の申し子の一人としての人間明仁は、その妻美智子皇后とともに新しい時代における皇室の在り方を模索してこれまで来た訳ですが、敢えてこのタイミングで彼が”お気持ち”を述べたその真意と本音を考えることは、同じ戦後民主主義を啓蒙された者として私自身には必要に思えます。

安倍晋三と今上天皇

安倍晋三の祖父である岸信介昭和天皇の関係はそれほど良いものではない。東条英機内閣の閣僚だった岸信介A級戦犯になったにも関わらず、戦後総理大臣になったのは、GHQ児玉誉士夫笹川良一などともに米国のスパイになることを条件として釈放したからだ。一旦死ぬべき命を売った人間のその後は推して知るべしだ。安倍晋三がねじれているのは、母方の祖父ばかりに傾倒するその屈折した心情のなかに、父方である安倍晋太郎の血脈のなかにいる祖父、安倍寛の存在がある。政治ジャーナリスト・野上忠興による連載「安倍晋三『沈黙の仮面』」によると、「岸が東条内閣で商工大臣を務めて戦中から権力の中枢を歩いていたのに対し、寛は東条英機の戦争方針に反対し、戦時中の総選挙では『大政翼賛会非推薦』で当選した反骨の政治家として知られる」と言う。A級戦犯容疑者として収監された岸に対し、安倍寛は戦争に反対し「昭和の吉田松陰」とまで呼ばれたそうだ。(※『絶頂の一族 プリンス・安倍晋三と六人の「ファミリー」』(松田賢弥講談社))安倍晋三の父である安倍晋太郎の回想録(毎日新聞(1985年4月6日付))によると、「父(寛)は大政党を敵にまわし、その金権腐敗を糾弾し、始終一貫、戦争にも反対を続けた。軍部ににらまれ、昭和十七年の翼賛選挙では、非推薦で戦った。当選を果たしたものの、あらゆる妨害を受けた。私(晋太郎)も執拗な警察の尋問をうけた」ということだ。なぜそのような晋太郎の息子の晋三がこうも依怙地な気持ちになるのは、晋三の兄弟との関係と思われる。(このことは詳細には書かない。どんな人間であれ、家族の中におけ不条理を他人が暴くのは人間の根本的な道に悖るだろう)そのような思想性にも乏しい安倍晋三を利用する輩が晋三の背後にいるのは紛れもない事実と思える。このような安倍晋三の母方の祖父である岸信介に対する昭和天皇の気持ちが表れている回想録が中曽根康弘の「自省録」だ。詳細はここでは書かないが、このサイトを見て欲しい。

さて、今上天皇が来週にも「生前退位」の“お言葉”を述べるという。安倍政権は右往左往しているということらしい。それはそうだろう。安倍政権(及びそのお友達)の天皇無視の姿はあまりにも露骨過ぎた。覇権を狙う連中の王権に対するボロが出たと思える。もう一つは、美智子妃の存在だ。今上天皇はある意味では戦後民主主義の申し子のようなものである。戦犯を免れた昭和天皇の息子として多感なころに様々な不条理を感じたことだろう。それを中和してくれたのが美智子妃だ。美智子妃は敬虔なクリスチャンである。その美智子妃が東京都あきる野市にある郷土館で五日市憲法に触れたことを述べている。五日市憲法とは、明治維新後の自由民権運動流れを汲むリベラルな思想の賜物である。美智子妃と五日市憲法については、拙著ながら私が書いたこの論評をみてもらいたい。

安倍政権が憲法を変えようとし、また再び戦争への道を歩もうとしているまさにその時に、美智子妃は「五日市憲法」を公に述べたのである。私は心情左翼の人間であるが、その前に右左関係なく根本的に“人間”である。まさに美智子妃もそのような思いになったのではないだろうか。今上天皇と美智子妃の結びつきはテニスのロマンスという、確かに少々作り話もあったのだろうが、人間今上天皇と人間美智子妃の間には、いろいろな政治的画策があつたかもしれないが、お二人はやはり人間の根本教義ともいえる“愛”を貫いたと言える。そのような今上天皇が現在の憲法を揺るがすかも知れない「象徴天皇」の枠をあえて外してまでも「生前退位」を述べようとするその“お気持ち”こそ、今回の安倍政権と今上天皇の闘いがあるのである。そのような両陛下の前で、「美しい国」などと薄っぺらな言葉をもてあそぶ「安倍政権、恥を知れ!」と言いたい。しかし、安倍晋三もある意味では可哀そうだ。両親の血脈ががまったく違うところに生まれた“不条理”を背負わなければならなかった、彼の心情は思っても余りあるばかりである。安倍晋三に言いたい。「もうこれでいいではないか!よくやった!」と。彼を利用する連中は魑魅魍魎の世界で生きている連中である。奴らこそ本当の“ワル”なのである。

中小企業の小考察

先日の参院選時にテレビのインタビューに都内の中小企業経営者がこのように語っていました。「(アベノミクスによって)景気が良くなり、我々中小企業にも大企業からどんどん仕事が入って来ることを期待しています」と。アベノミクスの是非はともかくも、この経営者の発言は非常に“素直”だと感じました。これが日本のほとんどの中小企業経営者の現実的な本音ではないでしょうか。マスコミや各種媒体を通じて、中小企業の日本産業構造における“本質的位置づけ”を無視した「中小企業の挑戦」とか「中小企業の強み」「地域のリーダー」などと言った表層的な言葉が片方では飛び交い、若者への「起業のすすめ」なども国家中枢から積極的に飛び出していますが、中小企業の実態とは企業の生産領域における大企業との「主従関係(仕事を出す、もらう)」がその根底にあり、先ほどのインタビューの経営者は正直にその実態を吐露しただけのことです。「日本産業構造の本質的位置づけ」と述べましたが、経済学者の大内力(1918~2009)によれば、我が国の中小企業の歴史は、その前段としての明治政府の「殖産興業化」における農村破壊と言う手段による機械工業への労働力動員があり、その受け皿として従来の家内制手工業が小機械化導入により中小企業として再生され、一方日本資本主義の短期間における成長の推進力となる独占資本形成の為にも中小企業は必要な存在でもありました。しかし、中小企業が拡大再生産するためには、前述の「低賃金労働」は存立の不可欠条件であるとともに、もう一つの不可欠要件として「中小企業が絶えず成長を阻止され、中小企業の枠内で停滞し、没落・発生をくり返す」必要がある、という分析を行っています。(大内力『日本経済論(下)』)この論を証明するものではありませんが、今年3月の「Newsweek」において加谷珪一と言う評論家が「日本で倒産が激減しているが、決して良いことではない」という題名で「本来なら存続が難しいはずの企業が延命するケースが増え、経済の新陳代謝が進まないという弊害もある。実は、これが日本経済の好循環を阻害している可能性がある」と述べ、「アベノミクスの役割はこのような非効率部分を改革するもの」と言っています。一般論として読めば、確かに、「産業構造の変化についていけない企業は退場」などという市場法則として理解する旨もあるでしょうが、前述の大内力の分析の視点から見れば、中小企業こそ産業構造転換の“生贄”という役割を本質的に背負わされている、ということになります。国家予算に「中小企業対策費」という名目はありますが、「大企業対策費」というものはありません。表現を変えれば、「中小企業庁」という役所はありますが、「大企業庁」という役所はありません。それは必要ないからであり、何故なら「大企業関連予算」は国家予算の名目すべてに内包されているからです。儒教道徳心の強い日本人のメンタルな部分を効果的に利用する手法が、高度成長期には一時的にであれ功を奏し我が国経済が成長したという事実はありますが、その根底にはこのような国家と大企業の意図がいつも脈々と流れているということを知る必要があります。さて、次期総理と言う呼び声も高い、若き政治家の小泉進次郎氏はこのように発言したそうです。「国民はいつまでも国に頼るな。自らを律し、自ら立て。それが自民党の哲学であり信念だ」国民を中小企業に置き換えても彼の信念を変えたことにはならないでしょう。「頼らないから君たちも我々には必要ない」という反論も出来そうですが、個人的範疇はともかくも、如何せん相手は「権力」を保持しており、そのさじ加減でどうにでもなる組織体としての中小企業が、このような思考を行う政治体制及び経済体制に対してどのように向き合えば良いか、ということは非常に重要なことと思われます。果てしない競争の中で没落・発生のサイクルに組み込まれるのではなく、「社会」をお互いが共存・共有する基盤として捉え、「競争」のマネジメントではなく、「協同」のマネジメントを行うことの必要性を感じます。
<低炭素都市ニュース&レポート 7月号>

オリジナルと複製

ちょっと前にあったオリンピックエンブレム「コピー」騒動ですが、現代の技術はいやおうなしに「複製」を極限に可能とするものです。複製の技術を歴史的に見れば、その始原はまず「写真」に求められ、次いで写真(静止画)を動画化する「映画」が指摘されるでしょう。最近では、立体表現の3Dプリンターなるものまで現れ、果てはDNAのコピーと言う生命原理までをも超越する「複製技術」の進展には驚かされると同時に空恐ろしさも感じるものです。ところで、ドイツの著名な文芸評論家のベンヤミンの著書に『複製技術時代の芸術作品』(1936年)という面白い本があります。ベンヤミンの生きた時代は第1次世界大戦前後のファシズムが勃興して来る時代ですが、彼は「複製の芸術」を新しい時代の民主主義的価値としてそれに評価を与えています。彼に言わせると、「芸術は当初礼拝的価値であったが近代の大衆化により展示的価値を持った。これによりそれまでの一部のものの対象物から万人の対象物と言う性質の変化を遂げた。」ベンヤミンは、「複製技術」の大衆化がそれまでの権力者にその価値を所有されていた「芸術」の解放を述べている訳ですが、しかし、彼が民主主義の発展として捉えた「大衆化した芸術」である映画芸術ヒットラーはじめ、その後のファシズム政治的プロパガンダの強力なツールとなっていることは皮肉なことです。ところで、確かに、現代の複製技術の粋であるコンピュータの発達は、普通の人をも”創作者”に変えることが可能になっています。いろいろなソフトを使うことにより、”自分だけの”作品を作ることができますが、その作品は「コピー&ペースト」という機能を抜きには語れないものです。先日の「コピー騒動」はこの技術の使いまわしが疑われ、芸術の「ホンモノ性」が問われた訳ですが、先述のベンヤミンはこの「ホンモノ」についてこうも言っています。「「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」という性格によってつくられる。」(上記同書)即ち、「いま」という時間性と「ここ」という空間性にオリジナル(ホンモノ)の本質を見ている訳ですが、「複製技術」はまさにこの時間と空間と言う制限を取り払ったものと言えます。ここから先は非常に思弁的というか観念的世界になるのでこれ以上は追求しませんが、複製技術があふれかえる現代社会は単純に「オリジナルが良くて複製は悪い」という道徳的倫理的規範では判断できない時代になっていると言えるでしょう。ベンヤミンの時代は「複製技術」を大衆への解放として称賛したのですが、万人が芸術家になれる時代を果たして「平等」「自由」といえるのかどうか。いや、逆に言えば、究極の芸術の姿が「自由・平等」かもしれません。もう一度ベンヤミンの言葉に戻りましょう。彼はこうも言いました。「人間の製作したものは,たえず人間によって模造されたのである。このような模造を,弟子たちは技能を修練するために,巨匠は作品を流布させるために,また商人はそれでひと儲けするために,おこなってきた。」グローバル化が進む中で、あらゆる事象が「複製化」している時代(いま)と社会(ここ)は果たしてオリジナルと言えるのかどうか。先日のイギリスの「EU離脱」も例えて言えば、複製から離脱してオリジナルな英国を目指したものと言えるのかもしれません。果たして私自身もオリジナルと言えるのか。もしかしたら存在そのものが模写かもしれない。現代社会は、「オリジナル」と「複製」という両極端な価値の間で揺れ動いています。 �
DAIGOエコロジー村通信7月号より(一部加筆)

離婚劇としてのイギリスEU離脱

イギリスがEU離脱する。我が国を含む先進国の報道をみていると悲観的な論調がほとんどであるが、その根拠は「カネ」でしかない。EU離脱が「やれ株価が下がる」「やれ円高だ」「日本企業が危ない」、、、、挙句の果てが、「年金がもらえなくなる」という脅しにも似た解説も見受けられる。今回の離脱劇の底には、「金融経済vs実体経済」「大企業vs中小企業」「中央vs地方」というグローバル“金融”経済が引き起こした資本主義の断末魔を象徴しているように思える。しかし、見方を変えれば、「21世紀の民族自決運動」とも言える側面をもっているのではないか。「民族自決」の概念は、第1次世界大戦後、1918年にウッドロー・ウィルソン大統領が米国議会で提示した「14か条の平和宣言」にさかのぼる。またこの平和宣言は、レーニンも民族自決を認めた「平和に関する布告」に対する資本主義国側からの回答でもあった。その後、第二次世界大戦以後は、旧植民地国が宗主国に対する、またある国家内における少数民族独立運動の基本的理念として国連でも正式に認められたが、感覚としては「大国家vs小国家(or少数民族)」という公式のように思えるが、イギリスのような大“資本主義”国家においても、グローバル経済は“民族”を凌駕する勢いで浸食しており、結果として民族内で「富者」と「貧者」が二分化されている。或いはグローバル“金融”経済とは、国家を超え、民族を超え、ただカネだけが絶対的な価値を持つ体制のことであり、言い方を変えれば「カネをうまく使えるもの」と「カネに振り回されるもの」の二分化がすすんでいるのだろう。特に、20世紀に「先進国」という名を頂いた国ほどこの“不平等化”は進んでいるものと思われる。社会主義革命を夢見るものにとってはこの状況が「プロレタリアート(貧者)の結集」に結びつくところか、「国粋主義」と結びつくことがはなはだ不満であり、不可解であろうが、「国家・民族」の乗り越え(消滅)はマルクス主義の目標でありまた課題でもある。今回のEU離脱は単純な左右イデオロギーでは到底理解しえないだろう。先述のレーニンは民族自決について、面白いたとえ話をしている。彼は「民族自決」を夫婦の離婚の権利に例えて曰く「離婚の権利を認めるのは、離婚を義務づけるためでもなければ、うまく行っている夫婦に離婚を説いて勧めるためでもない。それは、両性の真に対等で民主主義的な結婚を保障するためのものである。離婚の権利が認められてはじめて両性は真に民主主義的な基盤の上で結婚生活を送ることができるのである。いつでも離婚することができるにもかかわらず、あえて離婚を望まず、みずから進んでその結婚生活を続けるというところに自由意志に基づく真の結婚生活がありうるのであり、その方がかえって夫婦の結びつきは強まるのである。それとちょうど同じようにいつでも分離することができるにもかかわらず、分離せずにあえて大国家の中にとどまるというところに真に民主主義的でより強固な民族関係がありうるのである。つまり、分離の権利の保障が自発的な結合を促進するのである。」(丸山敬一著「民族自決権の意義と限界」(有信堂高文社 2003))離婚経験のある私としては少々耳が痛い話である(笑)が、なかなか面白いたとえ話である。現代の感覚からすれば若干の家父長的道徳的にも聞こえなくはないが、しかし「カネの切れ目が縁の切れ目」という言葉もある。レーニンは、「離婚できるけれどもやはりカネのあるやつ(大きな国)と一緒の方が幸せだよ」と言っているのであるが、イギリスは「私にもプライド(主権)と言うものがあるわよ!」と言って別れ話を持ち込んだのである。さて、世界中はこのような「離婚劇・話」があちこちで出始めている。当のイギリスも今回の離脱でスコットランド独立がまた再燃する可能性があり、EU離脱ドミノ現象で世界に及ぶことも否定できないだろう。米国のトランプ現象も一種の離婚話でもある。日米同盟などと未練たらしくしないで、安倍晋三は堂々と「日米離婚」を言えば良いと思うのだが、独立心のないものが新たな船出など出来る訳はない。ここは沖縄も長年DVのように虐げられてきた“本土・日本”からの離婚を真剣に考えてはいかがか。
<付記>「国家」と「民族」という問題は歴史的にも現代に至るまでなかなか解決できない命題でもあるが、カネ=資本主義が「国家」を僕として扱うようになった現代において、民族問題が先進国からも出て来たことの意味は大きく深いと思える。