低炭素社会へのアプローチ考

平成24年に独立行政法人科学技術振興機構が出したレポート『低炭素社会づくりのための 総合戦略とシナリオ』の中、「6章3.低炭素社会構築促進への社会システム・デザイン手法の適用」では、低炭素社会のイメージとして、(低炭素社会とは)「資源浪費型の人間活動が飛躍的に増大し、自然環境の自己調節機能の範囲を超え始めた」ことへの対処する「行動としてのテーマ」であり、「世界は技術中心のロジックから社会の価値観との関係で技術進歩を捉える時代に変わろうとしているのであり、ある意味で明確なパラダイム転換が起ころうとしている」という認識の下で、もう一つのパラダイム転換として「地域間、及び分野間の相互連鎖」を挙げ、この二つのパラダイム転換へのアプローチとして「社会の価値観を組み込んだ技術開発と活用を目指した課題解決を成し遂げる」ことの必要性を問うている。しかし、社会を“相互連鎖の仕組み(システム)”という捉え方をしているものの、「社会システム」の概念をその経済的或いは政治的或いは人間性の根本的在り方そのものを問う“社会全体としてのシステム”として捉えてのではなく、「消費者・生活者への価値創造と提供の仕組み」という科学技術振興機構自身が「部分的」と限定しており、自らも「供給サイドに立った発想」と認めている。「社会価値観(の変化)」を商品開発の分野に限定し、そこへ消費者を誘い込み、そして囲い込んでいくという、このような発想では、「低炭素社会」とは、単にマーケティング戦略の域を出ず、根本的な解決にはならないと思われる。片方で、「地球の危機」或いは「人類の危機」を声高に叫びながら、相変わらず「核兵器開発」やさまざまな「軍事戦略」に名を借りた戦争状態を創出しようとしているパラドキシカルな現実の国際社会の問題は、いみじくも上述の人類を含む自然環境における自己調節機能の崩壊を示すものであり、その要因こそ、社会を相互連鎖とみる視点の欠如と思われる。確かに数学的には、部分の総和として「全ての国家の危機」或いは「全ての国民の危機」が無くなれば「地球の危機」或いは「人類の危機」は無くなるという論理にはなる。しかし「地球の危機」と「国家の危機」或いは「人類の危機」と「日本人の危機」は果たして同じ性質のものだろうか。「地域間、分野間の相互連鎖」とは言い換えれば「社会は無数の関係性で成り立つ」ということであり、科学技術振興機構の同レポートのなかでも「それは産業や学問などの分野間の相互連鎖である。医療、情報、金融、エネルギーなど先端分野のそれぞれの最適化を図れば全体最適につながるということはありえず、それらの分野間の相互連鎖によるフィードバックを含んだダイナミック・システムとして捉えないといけなくなってきている」と述べられている。「相互連鎖によるフィードバックを含むダイナミック・システム」とは単にco2を出さない技術開発と販売戦略ではなく、人類の根本、或いは個々人にとっての人生そのものへ問いかけるものとなっていることを認識しなくてはならないだろう。科学技術振興機構自身が一分野であり、また現実の制約の中では、同レポートの大いなる根源的提起にも関わらず自らが「限定」と認めざるを得ない手法しか出てこないことがこの命題の困難さを物語っているのだが、このような一つの誤謬は、個別性の総和を全体性と見る要素還元論にあると思われるが、「低炭素社会」とは部分の総和ではなく、部分同士の無数の関係性で縫い合わされた織物(web)というホリスティックな概念へのアプローチとして捉えるべきと思われる。言い換えれば、生物学で言う創発の概念を引き込むような仕組みこそが、「相互連鎖によるフィードバックを含むダイナミック・システム」と言えるのではないだろうか。

法衣と権威に弱いのは誰か!?

一休さんの頓智ばなしは子供時代に聞いてもなかなか面白いものですが、世の中のいろいろな経験を重ねた今でも、読み返すと子供時代の解釈とはまた違った、言い換えれば奥が深いというか微妙な人生の機知のようなものも感じさせてくれます。その一休さんのとんち話の中に、「法衣」の話があります。
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≪豪商から法事の招きを受けました。一休さんは、ボロボロの普段着の法衣で訪ねました。それを見た店のものから、追い出されました。そこで、一休さんは、最高位の法衣を着て、再び訪れると、丁重なもてなしを受けました。しかし、一休さんは、着ていた法衣を仏前に置いてそのまま帰ってしまいました。≫
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さて、私が経験した-逸話その①-
昔、某霞が関役所の委員会メンバー選定にあたって役人と協議した時に、「(委員のメンバーとしては)やはり東大か、せめて早稲田、慶応クラスの先生がふさわしい」という担当者からの依頼がありました。
-逸話その②-
これも昔、ある地方の役所の仕事を行っていた時のこと。「上司を納得させたいのだが、本省の係長か課長クラスをご存じありませんか?」という担当者からの依頼がありました。
-逸話その③-
これは誰でも知っている話。ご存じ水戸黄門。身なりの質素な爺さんが説教しても聞かない悪代官の前で「この紋所が見えないか!頭が高い、控えおろう!」というあの決まり文句。これは説明の必要がないでしょう。

このような話は誰でもご自分の経験の中で日常的に持っているものであり、その例をあげれば枚挙にいとまがないでしょう。
これを以て「日本人は権威に弱い」という御馴染みの文句が出るのですが、哲学者の内田樹は逸話③の水戸黄門に関して面白い解釈をしています。彼が言うには、印籠に翻弄されるのはいつもワルモノばかりであり、逆に庶民は最後はご隠居さんと同じ目線でものをみている。ワルモノたちは彼ら自身が「根拠のない権威の名乗り」によって現在の地位に達し、その役得を享受しているので、「あなたの権威の由来を挙証せよ」と他人にいうことができなくなっている。この水戸黄門のワルモノたちこそ、日本の知識人たちの主流である「舶来の権威」を笠に「無辜の民衆」たちを睥睨(へいげい)してきた「狐」たちの戯画に他ならない
(『日本辺境論』内田樹より)・・・・


さすが内田樹。読みが深い、、、、、。と言いたいところですが、ワルモノと庶民という区分の仕方が恣意的であり、それほど単純な解釈でもないような気もします。内田さんの言う、「舶来の権威を笠に着る狐」はどこにでもいますが、果たして庶民である我々自身の中にも「虎の威を借りる」風潮が無いと言えるでしょうか。富に、昨今の日本社会中に「専門家に頼る」「支配者に頼る」ような我々自身がワルモノになっているのではないか、という気がしないでもありません。
さて、冒頭の一休さんのとんち(公案)の一応の正解は、「形にとらわれるな」という至極もっともなものですが、さて、あなたの人生経験からはどのような答が出るのでしょうか。

 

<DAIGOエコロジー通信5月号>

中央構造線上における地震の連鎖へのあるべき態度

「連動型地震」というのは学会的には仮説ということらしい。気象庁が「想定外」という表現で今回の”多発地震”について説明していたが、「科学的に証明されたものでないと信用しない」という相変わらずの悪しき科学主義から出た見解と言わざるを得ないだろう。本日の原子力規制委員会の田中俊一の「(川内原発停止についての)今判断を変える理由はない」という見解も同じ立場である。そして、コトが起きたら相変わらず「想定外」という便利な”行政用語”で逃げる、交わす、という狡猾さが透けて見える。ところで、気象庁は「想定外」という表現の他に「経験則から外れた地震」という説明も行ったが、これが無知から来たものか、或いはわざと知らないことにしたのか不明だが、全くの虚偽発言に近いものと言える歴史的根拠がある。それは、1596年の9月1日から5日にかけて起きた慶長地震だ。それはまず9月1日に愛媛県で発生した慶長伊予地震だ。その3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震、4日後の1596年9月5日に発生した京都の慶長伏見地震(ともにM7.0規模と推定)と立て続けに連続で起きた地震である。地震研究においては、これらは中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つで「連動型地震」とされているが、あくまでも冒頭の「仮説」ということらしい。地震予知に関わる研究者・学者においては、「連動型」を科学的な根拠で説明することは難しいらしいが、現実がその根拠を示しているではないか、と思われる。このことを裏付けていると言ってもいいように、先ほど(2016年4月18日PM11:16)、この構造線に近い徳島(三好市、土佐町)でも規模は小さいが震度1地震が発生している。気象庁、或いは原子力規制委員会などそれぞれの立場からのいわゆる責任逃れ的なポジショントークが乱発され、また政権はこれを悪用、逆利用して丸投しているが、このような人知を超える自然現象に対しては、政治や科学などの専門家にすべてを委ねるという態度こそ我々は改めねばならないと思われる。東日本震災がそのことを如実に物語っているではないか。個人は弱いものであるが、弱さゆえにこそ自らの内面が発する警告に敏感にならねばならないだろう。そそてそれは「妄想」ではなく、多分歴史上のどこかで同じことが繰り返されていることの目に見えない無意識の伝播と思われる。

関係性の科学ー東洋思想の再評価ー

今からおよそ50年ほど前、オーストリアの美しい小さな村アルプバッハに15人の科学者が集まり、生命及び科学の本質について議論を行った。呼びかけたのは、アーサー・ケストラーというユダヤ人のジャーナリストだ。この会議には、遺伝学者、心理学者など15名が集まったが、会議のテーマは「還元主義を超えて」と題し、機械論的世界観の転換を図ることを目的としたものだ。19世紀後半から20世紀にかけての科学における基本となった要素還元主義の思考は今でも医学界などにおいては主流だが、「部分の総和=全体」或いは「全ての事象は物理・化学的法則に還元(翻訳)できる」という機械論は、確かに人間社会に「効率性」「利便性」をもたらしたが、一方で例えば、フレデリック・テイラーが唱えた「科学的管理法(テーラリズム)」は、我が国では戦後の高度成長時に日本生産性本部が取り入れそれがトヨタカンバン方式へとつながったが、それはチャップリンのモダンタイムズでも批判された人間を実質機械と見る経営管理手法であった。このような機械論的発想は、いわば無機質思考とでもいうべきものであり、結果として人間特有の有機論的価値観(生きることの意味、目的、価値等)を捨て去ることになった。これらへのアンチテーゼとして、冒頭のケストラーが行ったシンポジウムはその後、「ニューサイエンス」と呼ばれるジャンルの成立につながるのだが、それは同時に反文化論としての「ニューエイジ」、「フェミニズム」「エコロジー」という思想的潮流も生み出した。今、我々がテーマとしている「地球環境」という言葉或いはパラダイムが現れるのもこの頃だ。この流れが「科学・哲学・宗教」という領域を発展的に溶融し、新しい価値観を生むようにみえたものの、しかし、その後それらは東洋的或いは西洋的「神秘主義」と結びつくことになり、例えば我が国ではオウムのような「科学こそ宗教」という極端な思考集団を生むこととなったのは、記憶にまだ新しい。現在の環境保護運動にはこの「ニューサイエンス」的、或いは「ニューエイジ」的思考或いは集団が少なからずみられる一因であろう。しかし、果たして「ニューサイエンス」は怪しげなオカルトだったのだろうか。量子力学におけるコペンハーゲン解釈、或いは最近話題になったアインシュタイン重力波を、F・カプラは仏教の「縁起・空思想」との相似性を提起し、科学(物理学)に東洋思想を積極的に取り入れることを謳ったが、カテゴリーエラーとして批判もされた。しかし、ともかくも数式的に説明できないもの、或いは(定理・公理に)還元できない論理をすぐ「怪しい」とする“科学主義”は、STAP細胞問題を見るまでもなく、ある意味決定論的思考となっており、自らが科学主義信仰に陥るというパラドックスを示しているようにも見える。簡潔に言えば、これら西洋合理主義思考は、デカルト哲学により精神と物質の分離を強固なものとし、またルネサンスに端を発する自然科学の発展は二つの領域の関係性を問うことなく、いつのまにか物質的説明を精神世界に持ち込む転倒が行われた。一方、東洋的精神とは、「分離・対立・相対」的な西洋合理思考と違い、「統合・相関・絶対」的であり、自然状態を「あるがまま」に観ることを基本とするように思える。しかし、分離・対立により、物質の説明を原子レベルまでは見事に説明してきた近代科学が、その先の素粒子に至って量子論で示した『世界は相互作用の関係性のみが存在している宇宙的織物』『世界を主体と客体、内的世界と外的世界、身体と魂に分ける通常の分割法は、もはや充分とは言えない』(ハイゼンベルグ)という言葉は一体何を示しているのだろうか。この「関係性」と言う言葉にこそヒントがあるような気がするのである。関係性の科学は、ウイナーのサイバネティックス或いはベイトソンのシステム論など、先述のニューサイエンスの流れを汲む西洋の学者によって、これまで単発的に説明されてきたが、その後が続かないように見えるのは、どうしても彼らが根本的に西洋人であるからではないか、と思える。ハイゼンベルクシュレーディンガーは言う。『戦後、日本から理論物理学の領域で素晴らしい貢献がなされたことは、東洋の伝統的な哲学思想と、量子論の哲学的性格との間になんらかの関係性があることを示しているのかもしれない』(ハイゼンベルグ・ボストン講演)『西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている』(シュレーディンガー)そして、アインシュタインと我が湯川秀樹の言葉で本論を締めくくる。我ながら何を言いたいのかまとまりがない散文となってしまったが、少しでも意図が伝われば幸いである。
●『現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教です』(アインシュタイン
●『素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた』(湯川秀樹


<付記>
関係性については、「平成23年度科学技術白書 第2節社会と科学技術との新しい関係構築に向けて」でこのような文章を掲載している。
「・・・科学技術を、単に研究者・技術者だけが関わるものとしてではなく、その功罪を含めて社会・経済・政治などの関係性の中で考えていくべきものであると認識して、社会を構成する個々人が、持続可能な民主社会を創出するために共に社会の一員という自覚を持って決断し行動するための力となるような科学技術の知恵とは何かを明らかにすることを目標としている・・・・」(科学技術の智プロジェクト)

 

一般社団法人 日本低炭素都市研究協会 会報『低炭素都市ニュース&レポート』4月10日号より>

木炭と鉄

「鉄は国家なり」という有名な言葉があります。言ったのはドイツのビスマルク(鉄血宰相)でしたが、我が日本も明治維新以降、この言葉を金科玉条として鉄の生産に励みました。ということで鉄の話をするには、そもそも鉄を作り出す方法について知る必要があります。鉄の生産に木炭が使用されたのは、日本のたたら鉄のみならず、世界中どこでも使われていましたが、この技術は「酸化還元法」と言われるもので、原料となる砂鉄や鉄鉱石の中に含まれる酸素分を木炭燃焼によって除去(還元)することです。もちろん鉄分そのものを溶融するための熱源としての用途も木炭にはあります。鉄を作るには、高温状態にある中に、原料(鉄鉱石や砂鉄)と還元剤としての木炭を交互に何度も混ぜ合わす必要があり、この方法で大量に鉄を取り出すために考案されたのが、いわゆる「高炉」という設備です。この高炉で出来た鉄は「銑鉄(せんてつ)」と呼ばれるもので、まだ不純分を相当含んでおり、そのまま使用することは出来ません。この「銑鉄」をもう一度溶融(炭素分除去:酸化)させるのが「転炉」と呼ばれるもの
で、この過程で炭素分を調整することにより、硬さの違う鉄を抽出出来ます。この工程を「精錬(せいれん)」と呼んでいます。ちなみに木炭をつくる最後の作業も「精錬」(ねらし)と言いますが、これは炭化のムラを無くす作業のことですが、炭化時に含まれる不純ガスをやすのですが、これにより純度の高い良質な炭が出来ます。木炭は製鉄における燃材及び参加還元剤として、古代から近代まで非常に長い間利用されましたが、それは結果として森林伐採の弊害を招くことから、中国では既に4世紀に木炭の代わりにコークスが利用されており、西洋では17世紀頃からは石炭、そして18世紀にコークスが使われるようになりました。ところで、ここまでの話で言う鉄は、その形としては固形物であり、その活用方法は建築物から車両、家庭用製品など幅広く行きわたっていることは余りにも当たり前ですね。しかし、鉄粉という粉状のものの用途についてはあまり知られていないのではないでしょうか。ところが結構身近なところで、この鉄粉は使用されています。たとえば使い捨てカイロや脱酸素剤などですが、その他にも製薬メーカーの造血剤、或いは水田稲作における種子(モミ)を鉄でコーティングした「鉄コーティング水稲直播技術」にも使用されています。炭も粉末にすることによりその利用用途が大きく拡大しますが、鉄もおなじように粉状(紛体化)することで、これまで考えられなかった利用用途が考えられるのですね。アメリカのIBMでは、炭素繊維と鉄粉を使用した電磁波遮蔽材を特許取得していますが、この技術は建築や繊維産業などでも新しい技術として導入されています。現
在では、木炭を製鉄に利用することは技術の進歩によりほとんどありませんが、鉄と炭の関係は人類の歴史においてはこのように現在でも深いつながりがあります。

 

<DAIGOエコロジー村通信4月号>

かまとこ地蔵

DAIGOエコロジー村のある八王子・恩方地域にも「平将門落人伝説」がありますが、全国各地に散らばる「平家落人伝説」はその真偽はともかくも、地域の人に歴史における悲哀からくる郷土愛のようなものがあります。この話もその一つですが、ちょっと厳しいというか残酷な感じがある話です。
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時は寿永4年(1185年)、所は、四国高松。源平屋島の合戦から逃げ落ちた平氏の一軍は阿讃山脈(讃岐山脈)から高松の神村(こうのむね)に逃れますが、そこには先回りしていた源氏の武士どもが待ち伏せしています。。。そして、平家の武将の乗っていた馬の首を斬り落しました!乗っていた平氏の武士は落馬、追われて斬られ、馬も首のないまま主の後を追ったが息絶えてしまう。。。
この神村(こうのむね)には、今でも馬の首を埋めた塚があり、切られた平氏の墓を祀ってあるそうです。。。。
しかし、話はこれで終わりません!
まだ生き残っている平氏は源氏の兵に追われながらも、神村(こうのむね)まで逃げてきます。神村は山深い所、安心はできないが山一つ越えれば逃げきることができるのではないかと思ったとき、追っ手はそこまで来ています。
と、そこに火の入ってない炭焼窯がありました。平氏はここぞとばかりに、その炭焼窯に身を隠しました。敵が通り過ぎるのを、身も心も仏に祈るような気持ちで息を殺し待ちます。。。
しかし、戦いは無情!非道!
源氏は窯の中を改めますが、念のため窯の焚口を土で塞いでしまいます。
わずかな一瞬のことでした!
その後この神村(こうのむね)には、いろんな怪異現象や災いが続いておきます。地元の人たちは、「これは平氏の無念が引き起こしたものだ。弔ってあげないといけない」と話し合い、その炭焼窯に地蔵を祀りました。
これが、今でも香川県高松市神村に残っている「かまとこ地蔵」です。
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炭焼窯で焼き殺されないで良かったですね!
平氏落人伝説」と「お地蔵さん」はなんとなく親和性があります。敗者、或いは弱者への同情といたわりの気持ちを感じます。
この話の中の炭焼窯というアイテムはちょっと”悪役”っぽいのですが、窯床(かまどこ)というネーミングでやんわりと包んでくれそうです。
民話や伝説というものは非常にシンプルな話が多いのですが、深読みすればいろいろな情景・想いを抱かせてくれますね。

 

<DAIGOエコロジー村通信3月号>

 

自由と平等の対立

フランス革命のテーゼは『自由・平等・友愛』であることは誰もが知っている。このテーゼがその後の民主主義を根本から支える基本概念となったことには誰しも反論しないだろう。そのフランス革命から200年以上経過した現在、しかし、現実の社会は『格差・不平等』が益々世界を覆う状況である。これを民主主義の形骸化として表象的に捉えることも出来ようが、民主主義を歴史上人類の存在に関する合意のとりあえずの最終到達点、として見るならば、なぜそのような状況になっているのか、を考えねばならない。『格差・不平等』の矛盾を生産体制と言う視点からみたマルクス主義が挫折、資本主義を『歴史の終わり』としてその最終勝利を「政治的自由主義」「経済的自由主義」こそが歴史の到達点とした、フランシス・フクヤマの論は耳目にまだ新しいが、冷戦終了後から30年近くを経過した今、彼の論に対する批判を実は彼自らが行っている。彼は言う。「あらゆる政治システムにおいて・・・・自由は特権に変質する。これは権威主義システムだけでなく、民主主義国家においても真実である」(2014年・WSJ)彼は、彼自身が人類の最終歴史と言う到達点に持ち込んだ「自由」と言う概念の変質を嘆いている訳だが、これは「何をいまさら」という気がしないでもない。際限ない自由は放縦(放恣)となり、その結果が不平等を生むとすれば、自由と平等という概念は根本的に対立するものとなるのだが、これは換言極論すれば、「自由なき平等」と「平等なき自由」という観念対立とも言える。言葉を変えれば、「(右翼・左翼)全体主義」と「リバータリアニズム」の対立であり、これが現代社会の基底に流れる二つの大きなイデオロギーではないか。しかし、「自由と平等」をこのような大きな物語的な捉え方ではなく、個人の問題として還元した時に見えてくるものとして、「自由なき平等(社会)」が依拠するのは「弱者(弱い個人)」であり、「平等なき自由(社会)」が依拠するのは「強者(強い個人)」と言えないだろうか。フランス革命の始祖とも言えるルソーはこのような「自由」の行き過ぎを危惧し、彼自身は自由よりも平等を重要視した。彼が出した一つの解は、「(危険な)自由を平等の中に取り込む(自由を平等化する)」という「平等主義的自由」というものであり、それはまさにフクシマが言った「特権化した自由」の封じ込めともいえる。すなわち、ルソーは「個人(強い人間)のエゴが出るからこそ平等でなければならない」としたのだが、これに反して、ルソーの後に出たトクビルは全く真逆の論を持ち出した。彼は、「デモクラシーが持ち込んだ平等化が結局は個人(弱い人間)のエゴイズムを生みだした」と分析した。この論理の対立は、例えば生活保護を巡る論説、或いは正規、非正規雇用を巡る論説にも通じるものである。
さて、少し観念論的過ぎた感があるが、何を持って弱者(或いは強者)と為すかは、いろいろ議論もあるだろうし、またある個人が絶対的な弱者(或いは強者)という存在になることもありえないだろう。しかし一般論的に解釈することなく現実を見れば、乱暴な解釈だがやはり「金を持つもの=強者」であり、「金を持たないもの=弱者」といえるのではないか。そこで「たかが金されど金」という堂々巡りする循環論に陥ることなくどうすればよいかを根本から考える必要があるのだが、そのヒントは、やはり身近なところにあるように思えるのである。前述のフクシマはこのようにも言っている。「裕福な人のほうが政治システムに質のいいコネを持っていて、自分たちの利益促進のためにそのコネを利用することができる」のである。しかし、彼らとて決して自由ではない。最後にもう一度ルソーの言葉を記す。「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼等以上に奴隷である」(社会契約論)
ああ、悲しや、汝の名は人間。。。。。