エマニュエル・トッドを通して視る左翼幻想

世界の行方を占う手段として、「為替」「株価」などの経済的要因、「民族」「宗教」などを背景とした軍事的要因、そして「イデオロギー」に基づく地政学的要因などが国際政治に関わるあらゆる領域において活用されるのは現代の常識である。それは少なくとも「占星術」や「陰謀論」類の非合理的、非知性的判断よりは、支持されている。しかし、統計学をベースに世界の行方を予想し、しかも見事に言い当てたのが、エマニュエル・トッドだ。トッドは人口学の研究者(フランス国立人口学研究所)だが、1976年に書いた『最後の転落』で、ソ連の人口指標の一つである乳幼児死亡率の推移からソ連帝国崩壊を予想したことで一躍“預言者”という肩書を、本人の意思とは別につけられたが、その後もそのような世迷言に惑うことなく、研究者としての立ち位置を外すことなく、世界政治に関わる著書を書き続けた。『最後の転落』の後は、『世界の多様性(『第三惑星』『世界の幼少期』の合作)』(1984年)で家族形態を領域化することに成功、その家族指標に識字率、自殺率、殺人率、農業形態などを加味した統計手法を基に西欧諸国の根本的な差異化を明確にした『新ヨーロッパ大全』(1990年)と続き、9.11直後には『帝国以後』(2002年)でアメリカの崩壊も“予言”したのは記憶に新しい。その後もトッドは、アラブ革命や移民問題、EU統合、イスラムなどについて次々と “予言”を繰り出し、世界の知識人においてのみならず政治家、経済人の中においてもその存在は大きいが、しかし、相変わらずそのスタンスは自らが「私は政治家でもなければ経済学者でもない、ただの研究者である」と述べるように謙虚なものだ。そのようなトッドの性格的な温和さと研究者としての冷厳さが不思議にミックスしているのが、彼の著書の特長でもある。ソ連の崩壊を“予言”したことで、一時はポストマルクス主義の旗手としてもてはやされようとしたが、彼はそのような秋波にも惑うことなく相変わらず「研究者」という立場を変えなかった。
 ところで、トッドは上記のように今や“知の巨人”であり、彼の著書の説明や彼の理論等についてここで改めて記述するのは無駄であり、私にとって意味が無い。私が興味を持ったのは、まさにE・トッドという人物そのものであり、彼と同時代、同世代の存在としての興味からだ。世界の知の巨人と極東の片隅で小さく世間と付き合いながら生きている人物を比較することに、若干の引け目と気負いはあるが、同世代(同じ64歳)として通時的にも共時的にも許されるのではないかと思う。トッドの祖父そして父はコミュニストであり、トッド自身、幼少から思春期を経ての自らのイデオロギーを「左翼」と位置付けている。そのような彼が、60年後半から70年代に至る、日本では70年安保、フランスではパリ5月革命など、世界で左翼の嵐が吹き荒れた時代を、彼自身は余り当時のことを発言していないが、相当に影響を受けたことは間違いないだろう。そのような彼が「革命家」にならずなぜ「研究者」になったのか、がここで問いたいテーマでもある。トッドにならって、一つの領域化(カテゴライズ)を図ってみる。60-70年前後の左翼思考の影響を受けたものが、その後の冷戦崩壊、ネオリベラリズムの台頭という大きな世界史の流れの中で、恣意的ではあるがどのような意識に変わったかという観点から見て、①左翼原理主義を抱いたまま(原理主義) ②イデオロギーと現実の相互乗り入れ(日和見主義・オポチュニズム)、③理想と現実はやはり違う(現実主義・プラグマチズム) ④左翼主義は完全な間違いであった(右翼反動)と四つに分けてみた。①と④は多分少数であり、いわゆる“極端”だ。現実的には多分②と③が多数を占めるだろう。ところで、この②と③を荒っぽく恣意的に分析すると、②については、悪く言えばご都合主義といえるが、未だに左翼的理想からは完全に抜け切れず、どちらかといえば情緒的な意識が主といえる。一方、③は左翼的理想を完全に否定はしないものの現実をどちらかといえば客観的に捉えて行こうとする意識が強い。この観点から見れば、私は間違いなく②であり、多分トッドは③に分類されると思う。社会の表象は様々な要因の関係性の結果として現れるものであるが、現代の表象の裏側にある関係性或いは力学という観点で見れば、少なくとも世界史の動きに量的・質的に大きな影響を与えている“塊”として、②と③は位置づけられるのではないだろうか。何故なら、ここで古いマルクス理論を持ち出すならば、「存在が意識を決定(規定)する」(『経済学批判』序言)ということを社会有機論的に現実社会に当てはめた場合、60-70年代に生きた我々の存在が社会に与えている影響はいまだに継続していると言えるからだ。例えば、安倍政権の④のような右翼的反動政治が彼らが思うほど簡単に世の中が覆らないのは、②と③という力が働いているからであり、逆に言えば①のような武力革命もほぼ不可能だろう。トッドも「社会の変化はわれわれが想像するよりはるかに緩慢である」と言っていることがその証左だ。
 さて、上記のような分類を行い、そこから見えてくるものを何とか明確にしたいと思う所以は、私がトッドの意見にある分与しながらも、「そうじゃないだろう!」という気持ち(これは敢えて反論ではない)があるからだ。言い換えると、上記の②と③の間の反駁のようなものが、現代社会の抱える行き詰まりの要因とも言えるからだ。マルクス主義に「大きな物語」という表現を使ったフランス哲学者ジャン・F・リオタールを当然トッドも知っているはずだが、彼(トッド)はリオタールのポストモダンの「小さな物語」の穴倉に入るような奴ではないだろう、という(同世代としての)思いからでもある。トッドに上記のマルクスに変わる「大きな物語」を期待する向きは今でも世界中にあるようだが、そこまで彼を持ち上げることはないにしても、彼自身が言う「単なる研究者」としての意識は、まさに存在が意識を決定する如く、彼自身も変化せざるを得ないように思える。トッドは、マルクス主義モデルについてこのように言っている。「イデオロギー的な傾向を経済的な層状構造もしくは家族構造から導き出すことは、それぞれ論理的には類似した操作である。だがマルクス主義モデルと人類学モデルとの間にある確実な相違は、前者が観察された事例を説明できないのに反して、後者はそれが可能と言う点である。」そうではないのだ。観察されないところこそ観察すべきものであり、それによってこそ、社会の「変革」は行われるのだ。そこで、トッドがまたしも「私は一研究者に過ぎない」と言い逃れるのであれば、まさに単なる研究所の主体性のない分析作業者に過ぎないだろう。しかし、彼の意図は彼自身が言うが如く「一科学者として、政治家たちがその国に暮らす人々のうちで最も弱くて脆い立場にいる人々を無益に苦しめつつ、全体を災厄へと引っ張っていくのを目の当たりにして激しく苛立つことがあるのです」(『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』2015年)ということではないのか。エマニュエル・トッドという人物は、我々世代の典型的人物像の一人でもあり、また類まれな才の持ち主でもある。彼の発言を言辞的表象的理解、或いは単純な古い左右イデオロギー観念でみれば、「節操がない」と見受けられるものもあるが、それについてはまだ学習が足りない、ということで無視できる。何故なら、彼自身が「知らないという権利」という表現で、「政治的、倫理的な問題が問われるなかで、知識人が或る問題について何の意見ももたないということがあっても、私は恥だとは考えていません」と述べている。そのような彼には教えてあげれば良いのである。もちろん、研究者としての彼が興味を引くことが重要なのだが、研究者以前の人間としての存在からは彼とて神ではないので逃れられないだろう。
 長くトッドのことを書いたが、一つは身近な問題として、私自身が職業(カネを得る手段として)とはいえ、やはりデータを駆使してある結論に導くような作業を行っていたからだ。確かに統計学は面白い。ある事象の説明に複数の別の事象を用いて結論付ける作業は非常に魅力的であり、世の中の全てがこのモデルにぶち込むことによって説明可能になるような気がする。しかし、ほんとのところ「統計学は未来を予測できるか?」という疑問は常に残る。金融経済という不明確不明朗な仕組みに覆われた現代社会では、現実の不安を未来の予測で解消しようとする方向へすべてが動きつつあるように思える。「一寸先は闇」という観念は多分東西問わず、経験的知としてあるのではないだろうか。理想或いは理念などというものはトッドの言う「観察されないもの」と言えるが、科学の一つの極としての「統計データ」と精神の一つの極としての「自由意志」を一致させることが果たしてできるのだろうか。出来るとすれば、果たして人間はそれで幸福になるのだろうか。それと同時に、左翼の理想とは一言で言えば「普遍性」ということだろう。「格差」や「差別」が現代社会を表現する大きな言葉であり、しかもその固定化が固着化が問題視される今、「違うから違う」「同じだから同じ」ではなく「違うから同じ」「同じだから違う」という弁証法揚棄する思考を、現実社会のなかでどのように行動、具体化していくのかが問われているように思える。もちろん、トッドにも私にも!そして敢えて言えば、我が世代すべてがこの世に生きた証をどのように生きている間に還元できるかが問われているような気がするのである。

久々の友との出会いのプチ旅

連休最後の11日から2拍3日で、福島・喜多方へ移住した旧友先輩の和田典久氏宅を訪問した。和田氏は当方の数少ない人生の友の一人だ。喜多方には今から10数年前に二度ほどお邪魔しているが、ちょっと間が開いた今回の訪問はやはりワクワクした。新宿から高速バスでおよそ5時間弱の乗車。こちらも暖冬の影響で積雪はほとんどなかったのがちょっと期待外れ(?)だったか。工学部建築出身ながら、ご自身では直接図面は引かなかったと豪語する(笑)和田氏の”邸宅”は実にシンプルながらも機能性に優れた空間だった。通常では多分2.5階くらいに相当する高さの吹き抜けの中心には、若干角度が急な階段が途中の踊り場(ここが今回私の寝床)を経由して屋上まで続いているのが印象的だ。「そのうち足が弱った時はどうするのだろう?」などと余計な心配をしつつも、屋上から真正面に磐梯山を見る眺望は中々のものだ。当夜は和田氏の地元仲間の高橋氏も参加しての鍋宴会となり、「竹林の七賢」ならぬ“鍋前の三愚老”の鼎談で盛り上がる。元NHKカメラマンだったという高橋氏。御年80を超えているにも関わらず豪快な話しっぷりと飲みっぷりにつられて当方もついつい酒と余計なおしゃべりを重ねてしまった。結局宴会は夜半10時過ぎまで続きお開きとなる。翌日は、和田氏に誘われて奥会津にある秘湯の「つるの湯」へ。只見川を上流へと登る途中にある湯治場も兼ねた温泉は、目の前に只見川を間近にみながらの露天はその豊かな泉質が与える効果も加わって何とも言えない心地よさだ。まさに桃源郷の気分。さて、午前中の弛緩した気分と打って変って午後は、やはり一宿一飯の義理は果たさないとならぬという訳で、薪材の調達作業を行う。事前に間伐した40年モノのスギが数本倒れている中の1本をチェンソーで玉切りにしたものを薪割器の前まで運搬する。その数約20個。「美味しいビールとそばを食す」為にも、お正月以来あまり体を動かしていないのでちょうどいい運動になる。というのは、和田氏は玄人肌の蕎麦打ち名人でもある。蕎麦打ちを始めておよそ20年近いキャリアの持ち主だ。当方が薪材調達中に、およそ3時間かけて今夜の宴会のメインディッシュとなる蕎麦を和田氏は打っていたのだ。そしてこの日もまた高橋氏も参加、昨夜に続き三愚老の宴会第二弾が始まる。この日高橋氏は喜多方からほど近い猫魔スキー場で滑った後の立ち寄りだったが、ともかくもこの日の三愚老はそれぞれが程よく肉体を駆使した後の宴会となったのである。ところで、ちょっと不幸なことではあるが、和田氏と高橋氏は共に奥様と死別された境遇だ。個人的感想としてだが、夫婦の場合、ほとんどがどちらかが先に旅立つケースになる訳だが、大体において離別後未亡人の方が元気よく長生きするのに比べ、男やもめと言われるケースでは結構悲惨な状況が多いように見受けられる。そのようなこともあり、今回の喜多方訪問は和田氏の環境を少し心配しつつ慰めも兼ねての訪問意図があったのだが、おっとどっこい!すっとこどっこい!何とやもめ連中の元気な事か!ともすればまだ離別していない当方の方が元気づけられるような始末ではないか!かような訳で、二日目の宴会は、三愚老ともやはり「男の子」である。話題は自然と「女人」の話に及ぶ。お二方も適度な交流(※どうも交際までには発展していないような)があるようだ。特定の女人の名前が飛び交う話に花が咲き、また笑いがついつい酒を誘う。和田老、高橋老の話を聞いていると、「喜多方は男やもめの天国か!!まさに桃源郷!」などと勝手に想像してしまう。前半の酒タイムがそろそろ終了と言う頃合いになり、さてお待ちかねの今夜のメイン。和田老手打ちの「冷蕎麦」と「温蕎麦」をこれまた手製のオリジナル蕎麦汁でいただく。「美味い!」としか言いようがない。久々に食す和田老の蕎麦だが、かなり腕を上げていた。「これなら一人暮らしでも大丈夫だな。心配なし!」と当方心で軽くつぶやく。二日目の喜多方の夜もかように前夜に続き他愛のない話にも関わらず大いに盛り上がった三愚老だが、やはり老齢の身はごまかせないのか、日中の肉体労働・活動疲れに少し早目にお開きとなった。

 さて、当方にとっては非常に短い旅ではあったが、やはり遠く離れている友と久々に酒を交わす語らいは何とも言えず至福なものだ。初対面にも関わらず気さくに応じてくれた高橋氏にも、また新しい出会いとして感謝せねばならないだろう。人生を振り返ると、人には必ず自らのそれを左右する出会いというものがあるが、和田氏との出会いも当方にとっては、そのような数少ない人生で出会った貴重な存在である。流れ者根無し草的性向の当方が、よく30年近くもそれなりに落ち着いた生活が出来ているのも和田氏との出会いのお蔭と言って言い過ぎではないだろう。文字通り青年とも言える時期の出会いから30年を経た今、双方に齢を重ねてはいるが、「まだまだ行けるな!」と相互に感じ合ったことも疑いようがない気がする。「会津若松まで車で送るよ」というその和田氏に少しわがままを言い喜多方駅で見送られ、乗ってみたかった磐越西線で帰りのバスが出る会津若松へ向かったのだが、バスの車窓から道中全然顔を出さなかった磐梯山がその姿をくっきりと青空とのコントラストで見せた時、「ああ旅が終わったんだな」とちょっと心理の深淵を見るような感傷にふけったのが印象に残る旅だった。

<お断り>

※日記では愚老などという表現を使っているが、和田氏、高橋氏とも素晴らしいダンディな紳士であることは言うまでもない。

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『現実主義の陥穽』(丸山眞男)

現代に生きる個々人或いは組織の葛藤の多くを占める「現実」という逃げ口上を、喝破する丸山眞男のエッセイを評論無しにそのまま掲載する。

 

 

<以下引用>

「私はどうしてもこの際、私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもつているかということをよくつきとめて置く必要があると思うのです。私の考えではそこにはほぼ三つの特徴が指摘出来るのではないかと思います。

 第一には、現実の所与性ということです。

 現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもつばら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのつぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが、他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行つたのもまさにこうした「現実」観ではなかつたでしようか。「国体」という現実、軍部という現実、統帥権という現実、満洲国という現実、国際連盟脱退という現実、日華事変という現実、日独伊軍事同盟という現実、大政翼賛会という現実――そうして最後には太平洋戦争という現実、それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私達の観念にのしかかり、私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺して行つたのはついこの間のことです。

日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましようか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によつて立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいつて叱陀する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(中略)戦後、米ソの対立が日を追うて激化して来たことは、むろん子供にも分る「現実」にちがいありませんが、同時に他の諸国はもとより当の米ソの責任ある当局者が何とかして破局を回避しようとさまざまの努力をしているのも「現実」ですし、更に世界の到るところで反戦平和の運動が――その中にさまざまの動向を含みながら――ますます高まつて来ていることも否定出来ない「現実」ではありませんか。「現実的たれ」というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指していうのでしようか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立つて「現実」の一面を選択しているのです。講和問題にしろ、再軍備問題にしろ、それは決して現実論と非現実論の争ではなく、実はそうした選択をめぐる争にほかなりません。それにも拘らず、片面講和論や向米一辺倒論や(公式非公式含めての)再軍備論の立場の側からだけしきりに「現実論」が放送され、世間の人も、またうつかりすると反対論者までつりこまれて「現実はその通りだが理想はあくまで云々」などと同じ考え方に退却してしまうのはどういうわけでしようか。

そう考えてくると自から我が国民の「現実」観を形成する第三の契機に行き当らざるをえません。すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(中略)民衆の間の動向は権力者の側ほど組織化されていず、また必ずしもマス・コミュニケーションの軌道に乗りませんから、いつでも表面的にはそれほど派手に見えませんが、少し長い目で見れば、むしろ現実を動かしている最終の力がそこにあることは歴史の常識です。ここでも問題は「太く短かい」現実と「細く長い」現実といずれを相対的に重視するかという選択に帰着するわけです。

 私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味して見ればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもつたものであることが分ります。こうした現実感の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしよう。そうしてあのアンデルセンの童話の少女のように「現実」という赤い靴をはかされた国民は自分で自分を制御出来ないままに死への舞踏を続けるほかなくなります。」

( 『世界』1952年5月号「現実主義の陥穽」より )

国家と自由

「個人の自由」を「国家(権力)」と言う枠の中で主張することの根本的な限界と矛盾があると思える。憲法最高裁もそれ自身が立脚しているのは「国家(権力)」であり、憲法或いは最高裁が”根源的”な「個人の自由」を認めることはあり得ない。「個人の自由」を完全に「法」に委ねることは全体主義であり、その場合結果として「個人の自由」は「法」によって規定解釈されることとなる。「法」を作る(立法)機関が「国家(権力)」であること(統治行為論)を鑑みれば判決はおのずから決まってくる。憲法を絶対的且つ至高の存在と考えることの限界を儚くも示したのではないか。そろそろ「国家(権力)とは何か」を民主主義という政治論或いは得体の知れない社会論から視るのではなく、「自己」という存在論から 「国家と自由」という問題を思考すべき時期に来ているのではないか。「国家と沖縄(独立論)」とも通底する問題であると思える。安倍晋三氏の発言はまさにそのこと(国家イデオロギー)を素直に述べているのである。

http://lite-ra.com/2015/12/post-178...

水資源の危機

石油資源と二酸化炭素の直接的関係を元にしたCOPにおける議論では、水問題は残念ながら中心的な課題にはなっていない。COPはある意味、石油資源を巡る国際的な国家利権の調整とみることができる。20世紀は確かに化石燃料(の確保)が国際関係でのヘゲモニーを握る大きな資源であった。開発途上国の経済発展が先進国の石油資源の独占を許さなくなったことから、先進国が先に手を打った手段が「地球温暖化問題」であったと言える。さて、そのような流れの裏で、21世
紀の根本的課題として浮上してくる課題が「水資源」問題だ。「20世紀は石油をめぐって戦争が起きたが、21世紀は水をめぐる戦争が起こるだろう」というのはたびたび言われる言説だが、間違ってはないだろう。特に日本は森林国で、水が豊富なことからこのような国際な水資源課題への認識が低い。2009年に民間シンクタンク東京財団が「日本の水源林の危機~グローバル資本の参入から「森と水の循環」を守るには~」と言う論考を出し、それに伴い、主要な水資源
を持つ自治体が調査したところ、既に外資に買われた水源林が膨大に上ることが判明したことは記憶に新しい。買収の目的は文字通り「水資源」であることは明白だ。日本の水資源に関する法律は、水の利用(利水)、水害防止(治水)という観点からのみの法制度しかなく、水の「所有」と言う観点からの法整備は無いことから、水源林を買収されても法的に抗弁出来ないという根本的な問題も指摘される。ところで、水ビジネス市場は2025年には110兆円規模に成長するという試算が行われているが、経済産業省においても日本の水関連産業が世界のシェアの6%確保を目標に掲げている。また、各自治体においても水道事業を積極的に海外展開している事例(東京、埼玉、神奈川、広島、大阪等)も増加しているが、これを手放しでは喜べない。海外企業が日本の水を牛耳るビジネスを展開していることを知っている日本人はほとんどいないだろう。例えば、フランスのヴェオリアは千葉県の手賀沼の浄化施設を約50億円で落札した。また同社は、松山市浄水場の運転業務を一括で行っているが、松山市の水道料金は2倍に跳ね上がったという話もある。さて、この水ビジネスで無視できない存在が、ウォーターバロン(水男爵)だ。仏ヴェオリア・エンバイロメント、仏スエズ、英テムズ・ウォーターという水ビジネス3社のことを指す言葉だが、彼らは実に巧妙に世界の水道事業の民営化を狙っている。「世界水会議」というフォーラムは、彼らがフランスマルセイユに本部を置き、国際連合世界銀行を表に出しながら、専門家を使って「水道事業は民営化すべし」という国際世論を作り上げるために
立ち上げたものだ。彼らは「上下水道部門を民営化しなければ、世界銀行が融資しない」という制度まで作ったが、南米ボリビアにおける外資による水道民営化では暴動まで起きている。一旦民営化されれば、後は企業の思うままに事業が支配されるのは、水に限らず、我が国における民営化の実態が如実に物語っているだろう。しかし、新自由主義を標榜する安倍政権においても麻生太郎が、2013年4月にSIS(米戦略国際問題研究所)での演説で日本の水道事業の民営化(外資への開放)を公約している。水は、人間が生命を維持する必要不可欠な資源であるが、「国民の命を守る」という安倍晋三氏が繰り返す言葉は、この水資源の外国への売却によっても果たして守られるのだろうか。二酸化炭素排出に対する意識と同レベル否それ以上の意識を、我々は我が国の水資源に対して持つ必要があるだろう。

『文学の責任』

標題の『文学の責任』は1957年、高橋和巳のエッセーから取ったものだが、このエッセーは高橋が25歳の時の作品であり、新進気鋭の小説家として売り出す直前の観念作家としての思いがあふれんばかりのアジテイションとも言えるものである。そこでは、西洋東洋の哲学、古典からの引証をベースに彼自身の意識と思考が決意にまで高まる、文字通り「文学の責任」に対する縦横無尽な切込みが表現されている。しかし、わずか150枚程度の中編論ではあるが、これを読みこなすにはまだ当方の知識のみならず思弁そのものが相当足りないことから、現時点でこの論の理解とそれに対する批評・論議はまだ私には不可能と思える。しかし、この論で高橋が言いたかったことは、「文学の責任」とはとりもなおさず『(・・・文学者は・・・)いわば精神の危険物をあつかう職務ゆえに、全面的に己の発言に責任を負う必要がある』(河出書房『文学の責任』P44)のであり、また『・・・まさに文学は、人間の根源的な認識論操作であるゆえに、戦争責任だけではない、人間の精神にたいして、まっさきにそれを問われてしかるべき責任性をもっている』(〃P48)のであるから、『行為は、言語に照明され、意識は存在に裏打ちされる。行動の随伴現象として心理はあり、心理が決意となったとき、行為が必然的にうまれる』(〃P59)ものだ、ということである。すなわち、「表現(認識)と実践の一致」こそが「文学の責任」と喝破した。

さて、長々と高橋和己の論を引用してしまったが、本論はこの「文学の責任」を具体的な事例で考えてみたいと思ったからだ。いまから、20年前の1995年、本多勝一が『大江健三郎の人生-貧困なる精神X集-』を出し、大上段で大江健三郎をメッタ切りにしたことを覚えているだろうか。その本の帯には、「体制にも反体制にも「いい顔」をする処世術、ノーベル賞作家の偽善を徹底的に追及する!」と何とも刺激的な言辞が書いてある。それは、下衆な表現をすれば、その前年(1994年)の大江のノーベル賞受賞をきっかけに、本多が大江に売った喧嘩でもあったわけだが、本多の言わんとしたことは、大江の言行不一致とその「狡猾さ(本多)」ということだった。少し説明すると、1982年に大江を始めとする文学者関係者数百人規模の署名による「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に対して、当時日本の核武装を積極的に進める月刊誌『諸君』などを発行していた文芸春秋社から幾冊もの本を出していた大江に対する本多の疑念から始まった論争でもある。その経緯は彼の本を読めば、本多が論点とともに詳細に記述してあるのでそれに譲るとする。ところで、今般の「戦争法案反対」の運動における大江の“活躍”を私は素直に受け止めたのであるが、しかし、少しの違和感を感じたことも事実だ。一言で言えば、大江健三郎は本当に体を張ってまで「法案阻止」を体現するのだろうか、という疑念だ。私は、彼の「持続する志」を高校時代に読み感銘を受けたものだが、今回の戦争法案における大江の行動もその延長上にあるとみていた。しかし、ふとした疑念が先述の本多の著書を思い出し、読み返したみたのだ。少しわかったことは、本多はジャーナリストであり、あくまでも「現実」からのアプローチであり、そこには「リアリズム」が絶対的な価値観を持っている。一方、大江のような文学者は「現実」ではなく「虚構」からのアプローチであり、そこでは「想像」が働く世界である。「想像」は「虚偽」と同一ではないが、その可能性を含むものであり、リアリズムから見ると疑念が湧く要因の一つとも言える。しかし、本多は大江の小説は一冊も読んでいない。とはっきりと答えたうえで、大江をそれでも非難しているのは、大江の倫理性を問題にしているからであるが、この論争は結局は双方半端に終わり、現時点では過去の面白い話程度にしかなっていない。ここでは、この論争の是非を問うのではなく、冒頭の高橋和己の「文学の責任」という問題にもう一度立返り、「表現すること」の「責任」を考えてみたいと思ったからだ。あるいみでは、これは文学者のみならず、表現媒体の進化、特にインターネットの普及はそれこそ「一億総言語表現者」ともなっている現状から見れば、われわれ一般人にも「表現すること」の「責任」という課題は今後重く大きな問題となるのではないか、という思いがある。それとともに、これこそ重要なことだが、相対的に政治家の表現・言辞の軽量化と無責任さが益々明らかになりつつある、ということだ。便利なシステムが人間の存在を根本づける価値観である「言語表現」の「無責任」さを拡大させるものとすれば、ここで一度たちどまり、「言うことの責任」の在り方も考えてみたいものだ。

<補論>

『文学者の責任』は高橋和巳が自らの内面に問いかけ、自らが答えた50年も前の論評にもかかわらず現代に通じる普遍性をもっていると思える。また本多が敢えて刺激的に提起した「大江健三郎」も人間の内面に起点を置けば、やはり普遍的なものとして捉えることが可能だ。もう一つ、高橋和巳が重要なことを言っている。それは「読む(んだ)側」にも「責任」が発生するということである。そこにおいては、「知らなかった(ことにしよう)」とか「無視」「無為」ということは「無責任」ということであり、とりもなおさずそれは『人間の物化』に他ならない、ということだ。政治家の言辞を「知らなかった」「どうでもいい」と言う態度で受け止めることはまさに自らをモノと化すことに他ならない。

縮小社会と地域の自立

京都に「縮小社会研究会」という集まり(フォーラム)があるのを知りました。京都大学の松久寛名誉教授が中心となって定期的(ほぼ毎月)に研究会を開催しています。代表の松久寛教授は『縮小社会への道』という本を編集していますが、その要旨は「我々の選択は、成長の果ての破滅か縮小かの二者択一であり、縮小なくして持続はあり得ない。」(同書:はじめに)と至極明快であり、その中で、「・・・・悲惨な未来を回避するためには、縮小社会に向かって発展するべきであるともいえる。そこで、持続という玉虫色の言葉を避けて、あえて縮小という言葉を使っている。」と述べています。松久教授の専攻は機械理工学であり、観念だけで「縮小」を唱えているのではなく、地球と言う有限な物質から還元される量は一定、或いはエントロピー理論に従えば、その量は逓減化していくものであるということがその論拠となっています。となれば、物質的には消費量を「縮小」していくしかないのは自明の理でもあります。同書ではまたこの縮小を「これは量的な縮小であって、質的な後退ではない」とも述べています。最近の先進国でも「幸福論」についての議論が盛んにおこなわれていますが、「物質より精神」という傾向が強いようです。しかし、この「縮小論」も決して新しい考えではなく、古くは50年前の「宇宙船地球号」(1966年B.フラー、K.Eボールディング)、「成長の限界」(1972年ローマクラブ)、「Small is beautiful」(1973年F.シューマッハ)、、など、或いは最近の「里山資本主義」(2015年藻谷浩介)などもその部類に入るでしょう。この流れから見れば、人類の数少ない部分が「地球資源の有限性、限界性」を認めている訳ですが、しかし現実にはこのような考えはなぜなかなか取り入れられないのか!一つは、「総論賛成各論反対」という理念先行論になりがちな所もあるのでしょう。そのような反省から「縮小社会研究会」では、課題を一つづつ具体的に論じ、また社会システムの在り方としての根本的課題も提起していますが、そこから踏み出す糸口を見つけることが出来ないようです。これは「縮小社会研究会」だけでなく、我々「低炭素研究会」においても共通する課題のようです。これはどこかで無意識に、方策を施す対象を「社会全体」に常においているからではないかと思われます。「縮小社会」或いは「低炭素社会」とは考えてみれば、イメージとしても”小さな社会”であり、現実的には最近の地産地消という表現があるように、まずは小さなコミュニティ(或いはソサイエティ)で自己完結する仕組みを作り上げることが肝要な気がします。つまり、「縮小」するのは物質的量だけでなく仕組(システム)としての国家或いは企業組織等も「縮小」すべきではないか、ということであり、逆に言えば、地域はもっと「自立する意志」を持つべきと言うことです。このような歴史的文脈と言う視点から見れば、スコットランドカタルーニャ、或いは沖縄における独立論の中にも、このような「縮小社会」の”本質”が含まれているのではないか、と考える次第です。

一般社団法人 縮小社会研究会

http://shukusho.org/index.html