中央構造線上における地震の連鎖へのあるべき態度

「連動型地震」というのは学会的には仮説ということらしい。気象庁が「想定外」という表現で今回の”多発地震”について説明していたが、「科学的に証明されたものでないと信用しない」という相変わらずの悪しき科学主義から出た見解と言わざるを得ないだろう。本日の原子力規制委員会の田中俊一の「(川内原発停止についての)今判断を変える理由はない」という見解も同じ立場である。そして、コトが起きたら相変わらず「想定外」という便利な”行政用語”で逃げる、交わす、という狡猾さが透けて見える。ところで、気象庁は「想定外」という表現の他に「経験則から外れた地震」という説明も行ったが、これが無知から来たものか、或いはわざと知らないことにしたのか不明だが、全くの虚偽発言に近いものと言える歴史的根拠がある。それは、1596年の9月1日から5日にかけて起きた慶長地震だ。それはまず9月1日に愛媛県で発生した慶長伊予地震だ。その3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震、4日後の1596年9月5日に発生した京都の慶長伏見地震(ともにM7.0規模と推定)と立て続けに連続で起きた地震である。地震研究においては、これらは中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つで「連動型地震」とされているが、あくまでも冒頭の「仮説」ということらしい。地震予知に関わる研究者・学者においては、「連動型」を科学的な根拠で説明することは難しいらしいが、現実がその根拠を示しているではないか、と思われる。このことを裏付けていると言ってもいいように、先ほど(2016年4月18日PM11:16)、この構造線に近い徳島(三好市、土佐町)でも規模は小さいが震度1地震が発生している。気象庁、或いは原子力規制委員会などそれぞれの立場からのいわゆる責任逃れ的なポジショントークが乱発され、また政権はこれを悪用、逆利用して丸投しているが、このような人知を超える自然現象に対しては、政治や科学などの専門家にすべてを委ねるという態度こそ我々は改めねばならないと思われる。東日本震災がそのことを如実に物語っているではないか。個人は弱いものであるが、弱さゆえにこそ自らの内面が発する警告に敏感にならねばならないだろう。そそてそれは「妄想」ではなく、多分歴史上のどこかで同じことが繰り返されていることの目に見えない無意識の伝播と思われる。

関係性の科学ー東洋思想の再評価ー

今からおよそ50年ほど前、オーストリアの美しい小さな村アルプバッハに15人の科学者が集まり、生命及び科学の本質について議論を行った。呼びかけたのは、アーサー・ケストラーというユダヤ人のジャーナリストだ。この会議には、遺伝学者、心理学者など15名が集まったが、会議のテーマは「還元主義を超えて」と題し、機械論的世界観の転換を図ることを目的としたものだ。19世紀後半から20世紀にかけての科学における基本となった要素還元主義の思考は今でも医学界などにおいては主流だが、「部分の総和=全体」或いは「全ての事象は物理・化学的法則に還元(翻訳)できる」という機械論は、確かに人間社会に「効率性」「利便性」をもたらしたが、一方で例えば、フレデリック・テイラーが唱えた「科学的管理法(テーラリズム)」は、我が国では戦後の高度成長時に日本生産性本部が取り入れそれがトヨタカンバン方式へとつながったが、それはチャップリンのモダンタイムズでも批判された人間を実質機械と見る経営管理手法であった。このような機械論的発想は、いわば無機質思考とでもいうべきものであり、結果として人間特有の有機論的価値観(生きることの意味、目的、価値等)を捨て去ることになった。これらへのアンチテーゼとして、冒頭のケストラーが行ったシンポジウムはその後、「ニューサイエンス」と呼ばれるジャンルの成立につながるのだが、それは同時に反文化論としての「ニューエイジ」、「フェミニズム」「エコロジー」という思想的潮流も生み出した。今、我々がテーマとしている「地球環境」という言葉或いはパラダイムが現れるのもこの頃だ。この流れが「科学・哲学・宗教」という領域を発展的に溶融し、新しい価値観を生むようにみえたものの、しかし、その後それらは東洋的或いは西洋的「神秘主義」と結びつくことになり、例えば我が国ではオウムのような「科学こそ宗教」という極端な思考集団を生むこととなったのは、記憶にまだ新しい。現在の環境保護運動にはこの「ニューサイエンス」的、或いは「ニューエイジ」的思考或いは集団が少なからずみられる一因であろう。しかし、果たして「ニューサイエンス」は怪しげなオカルトだったのだろうか。量子力学におけるコペンハーゲン解釈、或いは最近話題になったアインシュタイン重力波を、F・カプラは仏教の「縁起・空思想」との相似性を提起し、科学(物理学)に東洋思想を積極的に取り入れることを謳ったが、カテゴリーエラーとして批判もされた。しかし、ともかくも数式的に説明できないもの、或いは(定理・公理に)還元できない論理をすぐ「怪しい」とする“科学主義”は、STAP細胞問題を見るまでもなく、ある意味決定論的思考となっており、自らが科学主義信仰に陥るというパラドックスを示しているようにも見える。簡潔に言えば、これら西洋合理主義思考は、デカルト哲学により精神と物質の分離を強固なものとし、またルネサンスに端を発する自然科学の発展は二つの領域の関係性を問うことなく、いつのまにか物質的説明を精神世界に持ち込む転倒が行われた。一方、東洋的精神とは、「分離・対立・相対」的な西洋合理思考と違い、「統合・相関・絶対」的であり、自然状態を「あるがまま」に観ることを基本とするように思える。しかし、分離・対立により、物質の説明を原子レベルまでは見事に説明してきた近代科学が、その先の素粒子に至って量子論で示した『世界は相互作用の関係性のみが存在している宇宙的織物』『世界を主体と客体、内的世界と外的世界、身体と魂に分ける通常の分割法は、もはや充分とは言えない』(ハイゼンベルグ)という言葉は一体何を示しているのだろうか。この「関係性」と言う言葉にこそヒントがあるような気がするのである。関係性の科学は、ウイナーのサイバネティックス或いはベイトソンのシステム論など、先述のニューサイエンスの流れを汲む西洋の学者によって、これまで単発的に説明されてきたが、その後が続かないように見えるのは、どうしても彼らが根本的に西洋人であるからではないか、と思える。ハイゼンベルクシュレーディンガーは言う。『戦後、日本から理論物理学の領域で素晴らしい貢献がなされたことは、東洋の伝統的な哲学思想と、量子論の哲学的性格との間になんらかの関係性があることを示しているのかもしれない』(ハイゼンベルグ・ボストン講演)『西洋科学へは東洋思想の輸血を必要としている』(シュレーディンガー)そして、アインシュタインと我が湯川秀樹の言葉で本論を締めくくる。我ながら何を言いたいのかまとまりがない散文となってしまったが、少しでも意図が伝われば幸いである。
●『現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものがあるとすれば、それは仏教です』(アインシュタイン
●『素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、仏教には多くを教えられた』(湯川秀樹


<付記>
関係性については、「平成23年度科学技術白書 第2節社会と科学技術との新しい関係構築に向けて」でこのような文章を掲載している。
「・・・科学技術を、単に研究者・技術者だけが関わるものとしてではなく、その功罪を含めて社会・経済・政治などの関係性の中で考えていくべきものであると認識して、社会を構成する個々人が、持続可能な民主社会を創出するために共に社会の一員という自覚を持って決断し行動するための力となるような科学技術の知恵とは何かを明らかにすることを目標としている・・・・」(科学技術の智プロジェクト)

 

一般社団法人 日本低炭素都市研究協会 会報『低炭素都市ニュース&レポート』4月10日号より>

木炭と鉄

「鉄は国家なり」という有名な言葉があります。言ったのはドイツのビスマルク(鉄血宰相)でしたが、我が日本も明治維新以降、この言葉を金科玉条として鉄の生産に励みました。ということで鉄の話をするには、そもそも鉄を作り出す方法について知る必要があります。鉄の生産に木炭が使用されたのは、日本のたたら鉄のみならず、世界中どこでも使われていましたが、この技術は「酸化還元法」と言われるもので、原料となる砂鉄や鉄鉱石の中に含まれる酸素分を木炭燃焼によって除去(還元)することです。もちろん鉄分そのものを溶融するための熱源としての用途も木炭にはあります。鉄を作るには、高温状態にある中に、原料(鉄鉱石や砂鉄)と還元剤としての木炭を交互に何度も混ぜ合わす必要があり、この方法で大量に鉄を取り出すために考案されたのが、いわゆる「高炉」という設備です。この高炉で出来た鉄は「銑鉄(せんてつ)」と呼ばれるもので、まだ不純分を相当含んでおり、そのまま使用することは出来ません。この「銑鉄」をもう一度溶融(炭素分除去:酸化)させるのが「転炉」と呼ばれるもの
で、この過程で炭素分を調整することにより、硬さの違う鉄を抽出出来ます。この工程を「精錬(せいれん)」と呼んでいます。ちなみに木炭をつくる最後の作業も「精錬」(ねらし)と言いますが、これは炭化のムラを無くす作業のことですが、炭化時に含まれる不純ガスをやすのですが、これにより純度の高い良質な炭が出来ます。木炭は製鉄における燃材及び参加還元剤として、古代から近代まで非常に長い間利用されましたが、それは結果として森林伐採の弊害を招くことから、中国では既に4世紀に木炭の代わりにコークスが利用されており、西洋では17世紀頃からは石炭、そして18世紀にコークスが使われるようになりました。ところで、ここまでの話で言う鉄は、その形としては固形物であり、その活用方法は建築物から車両、家庭用製品など幅広く行きわたっていることは余りにも当たり前ですね。しかし、鉄粉という粉状のものの用途についてはあまり知られていないのではないでしょうか。ところが結構身近なところで、この鉄粉は使用されています。たとえば使い捨てカイロや脱酸素剤などですが、その他にも製薬メーカーの造血剤、或いは水田稲作における種子(モミ)を鉄でコーティングした「鉄コーティング水稲直播技術」にも使用されています。炭も粉末にすることによりその利用用途が大きく拡大しますが、鉄もおなじように粉状(紛体化)することで、これまで考えられなかった利用用途が考えられるのですね。アメリカのIBMでは、炭素繊維と鉄粉を使用した電磁波遮蔽材を特許取得していますが、この技術は建築や繊維産業などでも新しい技術として導入されています。現
在では、木炭を製鉄に利用することは技術の進歩によりほとんどありませんが、鉄と炭の関係は人類の歴史においてはこのように現在でも深いつながりがあります。

 

<DAIGOエコロジー村通信4月号>

かまとこ地蔵

DAIGOエコロジー村のある八王子・恩方地域にも「平将門落人伝説」がありますが、全国各地に散らばる「平家落人伝説」はその真偽はともかくも、地域の人に歴史における悲哀からくる郷土愛のようなものがあります。この話もその一つですが、ちょっと厳しいというか残酷な感じがある話です。
・・・・・・・・・・・・・・
時は寿永4年(1185年)、所は、四国高松。源平屋島の合戦から逃げ落ちた平氏の一軍は阿讃山脈(讃岐山脈)から高松の神村(こうのむね)に逃れますが、そこには先回りしていた源氏の武士どもが待ち伏せしています。。。そして、平家の武将の乗っていた馬の首を斬り落しました!乗っていた平氏の武士は落馬、追われて斬られ、馬も首のないまま主の後を追ったが息絶えてしまう。。。
この神村(こうのむね)には、今でも馬の首を埋めた塚があり、切られた平氏の墓を祀ってあるそうです。。。。
しかし、話はこれで終わりません!
まだ生き残っている平氏は源氏の兵に追われながらも、神村(こうのむね)まで逃げてきます。神村は山深い所、安心はできないが山一つ越えれば逃げきることができるのではないかと思ったとき、追っ手はそこまで来ています。
と、そこに火の入ってない炭焼窯がありました。平氏はここぞとばかりに、その炭焼窯に身を隠しました。敵が通り過ぎるのを、身も心も仏に祈るような気持ちで息を殺し待ちます。。。
しかし、戦いは無情!非道!
源氏は窯の中を改めますが、念のため窯の焚口を土で塞いでしまいます。
わずかな一瞬のことでした!
その後この神村(こうのむね)には、いろんな怪異現象や災いが続いておきます。地元の人たちは、「これは平氏の無念が引き起こしたものだ。弔ってあげないといけない」と話し合い、その炭焼窯に地蔵を祀りました。
これが、今でも香川県高松市神村に残っている「かまとこ地蔵」です。
・・・・・・・・・・・
炭焼窯で焼き殺されないで良かったですね!
平氏落人伝説」と「お地蔵さん」はなんとなく親和性があります。敗者、或いは弱者への同情といたわりの気持ちを感じます。
この話の中の炭焼窯というアイテムはちょっと”悪役”っぽいのですが、窯床(かまどこ)というネーミングでやんわりと包んでくれそうです。
民話や伝説というものは非常にシンプルな話が多いのですが、深読みすればいろいろな情景・想いを抱かせてくれますね。

 

<DAIGOエコロジー村通信3月号>

 

自由と平等の対立

フランス革命のテーゼは『自由・平等・友愛』であることは誰もが知っている。このテーゼがその後の民主主義を根本から支える基本概念となったことには誰しも反論しないだろう。そのフランス革命から200年以上経過した現在、しかし、現実の社会は『格差・不平等』が益々世界を覆う状況である。これを民主主義の形骸化として表象的に捉えることも出来ようが、民主主義を歴史上人類の存在に関する合意のとりあえずの最終到達点、として見るならば、なぜそのような状況になっているのか、を考えねばならない。『格差・不平等』の矛盾を生産体制と言う視点からみたマルクス主義が挫折、資本主義を『歴史の終わり』としてその最終勝利を「政治的自由主義」「経済的自由主義」こそが歴史の到達点とした、フランシス・フクヤマの論は耳目にまだ新しいが、冷戦終了後から30年近くを経過した今、彼の論に対する批判を実は彼自らが行っている。彼は言う。「あらゆる政治システムにおいて・・・・自由は特権に変質する。これは権威主義システムだけでなく、民主主義国家においても真実である」(2014年・WSJ)彼は、彼自身が人類の最終歴史と言う到達点に持ち込んだ「自由」と言う概念の変質を嘆いている訳だが、これは「何をいまさら」という気がしないでもない。際限ない自由は放縦(放恣)となり、その結果が不平等を生むとすれば、自由と平等という概念は根本的に対立するものとなるのだが、これは換言極論すれば、「自由なき平等」と「平等なき自由」という観念対立とも言える。言葉を変えれば、「(右翼・左翼)全体主義」と「リバータリアニズム」の対立であり、これが現代社会の基底に流れる二つの大きなイデオロギーではないか。しかし、「自由と平等」をこのような大きな物語的な捉え方ではなく、個人の問題として還元した時に見えてくるものとして、「自由なき平等(社会)」が依拠するのは「弱者(弱い個人)」であり、「平等なき自由(社会)」が依拠するのは「強者(強い個人)」と言えないだろうか。フランス革命の始祖とも言えるルソーはこのような「自由」の行き過ぎを危惧し、彼自身は自由よりも平等を重要視した。彼が出した一つの解は、「(危険な)自由を平等の中に取り込む(自由を平等化する)」という「平等主義的自由」というものであり、それはまさにフクシマが言った「特権化した自由」の封じ込めともいえる。すなわち、ルソーは「個人(強い人間)のエゴが出るからこそ平等でなければならない」としたのだが、これに反して、ルソーの後に出たトクビルは全く真逆の論を持ち出した。彼は、「デモクラシーが持ち込んだ平等化が結局は個人(弱い人間)のエゴイズムを生みだした」と分析した。この論理の対立は、例えば生活保護を巡る論説、或いは正規、非正規雇用を巡る論説にも通じるものである。
さて、少し観念論的過ぎた感があるが、何を持って弱者(或いは強者)と為すかは、いろいろ議論もあるだろうし、またある個人が絶対的な弱者(或いは強者)という存在になることもありえないだろう。しかし一般論的に解釈することなく現実を見れば、乱暴な解釈だがやはり「金を持つもの=強者」であり、「金を持たないもの=弱者」といえるのではないか。そこで「たかが金されど金」という堂々巡りする循環論に陥ることなくどうすればよいかを根本から考える必要があるのだが、そのヒントは、やはり身近なところにあるように思えるのである。前述のフクシマはこのようにも言っている。「裕福な人のほうが政治システムに質のいいコネを持っていて、自分たちの利益促進のためにそのコネを利用することができる」のである。しかし、彼らとて決して自由ではない。最後にもう一度ルソーの言葉を記す。「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。ある者は他人の主人であると信じているが、事実は彼等以上に奴隷である」(社会契約論)
ああ、悲しや、汝の名は人間。。。。。

エマニュエル・トッドを通して視る左翼幻想

世界の行方を占う手段として、「為替」「株価」などの経済的要因、「民族」「宗教」などを背景とした軍事的要因、そして「イデオロギー」に基づく地政学的要因などが国際政治に関わるあらゆる領域において活用されるのは現代の常識である。それは少なくとも「占星術」や「陰謀論」類の非合理的、非知性的判断よりは、支持されている。しかし、統計学をベースに世界の行方を予想し、しかも見事に言い当てたのが、エマニュエル・トッドだ。トッドは人口学の研究者(フランス国立人口学研究所)だが、1976年に書いた『最後の転落』で、ソ連の人口指標の一つである乳幼児死亡率の推移からソ連帝国崩壊を予想したことで一躍“預言者”という肩書を、本人の意思とは別につけられたが、その後もそのような世迷言に惑うことなく、研究者としての立ち位置を外すことなく、世界政治に関わる著書を書き続けた。『最後の転落』の後は、『世界の多様性(『第三惑星』『世界の幼少期』の合作)』(1984年)で家族形態を領域化することに成功、その家族指標に識字率、自殺率、殺人率、農業形態などを加味した統計手法を基に西欧諸国の根本的な差異化を明確にした『新ヨーロッパ大全』(1990年)と続き、9.11直後には『帝国以後』(2002年)でアメリカの崩壊も“予言”したのは記憶に新しい。その後もトッドは、アラブ革命や移民問題、EU統合、イスラムなどについて次々と “予言”を繰り出し、世界の知識人においてのみならず政治家、経済人の中においてもその存在は大きいが、しかし、相変わらずそのスタンスは自らが「私は政治家でもなければ経済学者でもない、ただの研究者である」と述べるように謙虚なものだ。そのようなトッドの性格的な温和さと研究者としての冷厳さが不思議にミックスしているのが、彼の著書の特長でもある。ソ連の崩壊を“予言”したことで、一時はポストマルクス主義の旗手としてもてはやされようとしたが、彼はそのような秋波にも惑うことなく相変わらず「研究者」という立場を変えなかった。
 ところで、トッドは上記のように今や“知の巨人”であり、彼の著書の説明や彼の理論等についてここで改めて記述するのは無駄であり、私にとって意味が無い。私が興味を持ったのは、まさにE・トッドという人物そのものであり、彼と同時代、同世代の存在としての興味からだ。世界の知の巨人と極東の片隅で小さく世間と付き合いながら生きている人物を比較することに、若干の引け目と気負いはあるが、同世代(同じ64歳)として通時的にも共時的にも許されるのではないかと思う。トッドの祖父そして父はコミュニストであり、トッド自身、幼少から思春期を経ての自らのイデオロギーを「左翼」と位置付けている。そのような彼が、60年後半から70年代に至る、日本では70年安保、フランスではパリ5月革命など、世界で左翼の嵐が吹き荒れた時代を、彼自身は余り当時のことを発言していないが、相当に影響を受けたことは間違いないだろう。そのような彼が「革命家」にならずなぜ「研究者」になったのか、がここで問いたいテーマでもある。トッドにならって、一つの領域化(カテゴライズ)を図ってみる。60-70年前後の左翼思考の影響を受けたものが、その後の冷戦崩壊、ネオリベラリズムの台頭という大きな世界史の流れの中で、恣意的ではあるがどのような意識に変わったかという観点から見て、①左翼原理主義を抱いたまま(原理主義) ②イデオロギーと現実の相互乗り入れ(日和見主義・オポチュニズム)、③理想と現実はやはり違う(現実主義・プラグマチズム) ④左翼主義は完全な間違いであった(右翼反動)と四つに分けてみた。①と④は多分少数であり、いわゆる“極端”だ。現実的には多分②と③が多数を占めるだろう。ところで、この②と③を荒っぽく恣意的に分析すると、②については、悪く言えばご都合主義といえるが、未だに左翼的理想からは完全に抜け切れず、どちらかといえば情緒的な意識が主といえる。一方、③は左翼的理想を完全に否定はしないものの現実をどちらかといえば客観的に捉えて行こうとする意識が強い。この観点から見れば、私は間違いなく②であり、多分トッドは③に分類されると思う。社会の表象は様々な要因の関係性の結果として現れるものであるが、現代の表象の裏側にある関係性或いは力学という観点で見れば、少なくとも世界史の動きに量的・質的に大きな影響を与えている“塊”として、②と③は位置づけられるのではないだろうか。何故なら、ここで古いマルクス理論を持ち出すならば、「存在が意識を決定(規定)する」(『経済学批判』序言)ということを社会有機論的に現実社会に当てはめた場合、60-70年代に生きた我々の存在が社会に与えている影響はいまだに継続していると言えるからだ。例えば、安倍政権の④のような右翼的反動政治が彼らが思うほど簡単に世の中が覆らないのは、②と③という力が働いているからであり、逆に言えば①のような武力革命もほぼ不可能だろう。トッドも「社会の変化はわれわれが想像するよりはるかに緩慢である」と言っていることがその証左だ。
 さて、上記のような分類を行い、そこから見えてくるものを何とか明確にしたいと思う所以は、私がトッドの意見にある分与しながらも、「そうじゃないだろう!」という気持ち(これは敢えて反論ではない)があるからだ。言い換えると、上記の②と③の間の反駁のようなものが、現代社会の抱える行き詰まりの要因とも言えるからだ。マルクス主義に「大きな物語」という表現を使ったフランス哲学者ジャン・F・リオタールを当然トッドも知っているはずだが、彼(トッド)はリオタールのポストモダンの「小さな物語」の穴倉に入るような奴ではないだろう、という(同世代としての)思いからでもある。トッドに上記のマルクスに変わる「大きな物語」を期待する向きは今でも世界中にあるようだが、そこまで彼を持ち上げることはないにしても、彼自身が言う「単なる研究者」としての意識は、まさに存在が意識を決定する如く、彼自身も変化せざるを得ないように思える。トッドは、マルクス主義モデルについてこのように言っている。「イデオロギー的な傾向を経済的な層状構造もしくは家族構造から導き出すことは、それぞれ論理的には類似した操作である。だがマルクス主義モデルと人類学モデルとの間にある確実な相違は、前者が観察された事例を説明できないのに反して、後者はそれが可能と言う点である。」そうではないのだ。観察されないところこそ観察すべきものであり、それによってこそ、社会の「変革」は行われるのだ。そこで、トッドがまたしも「私は一研究者に過ぎない」と言い逃れるのであれば、まさに単なる研究所の主体性のない分析作業者に過ぎないだろう。しかし、彼の意図は彼自身が言うが如く「一科学者として、政治家たちがその国に暮らす人々のうちで最も弱くて脆い立場にいる人々を無益に苦しめつつ、全体を災厄へと引っ張っていくのを目の当たりにして激しく苛立つことがあるのです」(『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる 日本人への警告』2015年)ということではないのか。エマニュエル・トッドという人物は、我々世代の典型的人物像の一人でもあり、また類まれな才の持ち主でもある。彼の発言を言辞的表象的理解、或いは単純な古い左右イデオロギー観念でみれば、「節操がない」と見受けられるものもあるが、それについてはまだ学習が足りない、ということで無視できる。何故なら、彼自身が「知らないという権利」という表現で、「政治的、倫理的な問題が問われるなかで、知識人が或る問題について何の意見ももたないということがあっても、私は恥だとは考えていません」と述べている。そのような彼には教えてあげれば良いのである。もちろん、研究者としての彼が興味を引くことが重要なのだが、研究者以前の人間としての存在からは彼とて神ではないので逃れられないだろう。
 長くトッドのことを書いたが、一つは身近な問題として、私自身が職業(カネを得る手段として)とはいえ、やはりデータを駆使してある結論に導くような作業を行っていたからだ。確かに統計学は面白い。ある事象の説明に複数の別の事象を用いて結論付ける作業は非常に魅力的であり、世の中の全てがこのモデルにぶち込むことによって説明可能になるような気がする。しかし、ほんとのところ「統計学は未来を予測できるか?」という疑問は常に残る。金融経済という不明確不明朗な仕組みに覆われた現代社会では、現実の不安を未来の予測で解消しようとする方向へすべてが動きつつあるように思える。「一寸先は闇」という観念は多分東西問わず、経験的知としてあるのではないだろうか。理想或いは理念などというものはトッドの言う「観察されないもの」と言えるが、科学の一つの極としての「統計データ」と精神の一つの極としての「自由意志」を一致させることが果たしてできるのだろうか。出来るとすれば、果たして人間はそれで幸福になるのだろうか。それと同時に、左翼の理想とは一言で言えば「普遍性」ということだろう。「格差」や「差別」が現代社会を表現する大きな言葉であり、しかもその固定化が固着化が問題視される今、「違うから違う」「同じだから同じ」ではなく「違うから同じ」「同じだから違う」という弁証法揚棄する思考を、現実社会のなかでどのように行動、具体化していくのかが問われているように思える。もちろん、トッドにも私にも!そして敢えて言えば、我が世代すべてがこの世に生きた証をどのように生きている間に還元できるかが問われているような気がするのである。

久々の友との出会いのプチ旅

連休最後の11日から2拍3日で、福島・喜多方へ移住した旧友先輩の和田典久氏宅を訪問した。和田氏は当方の数少ない人生の友の一人だ。喜多方には今から10数年前に二度ほどお邪魔しているが、ちょっと間が開いた今回の訪問はやはりワクワクした。新宿から高速バスでおよそ5時間弱の乗車。こちらも暖冬の影響で積雪はほとんどなかったのがちょっと期待外れ(?)だったか。工学部建築出身ながら、ご自身では直接図面は引かなかったと豪語する(笑)和田氏の”邸宅”は実にシンプルながらも機能性に優れた空間だった。通常では多分2.5階くらいに相当する高さの吹き抜けの中心には、若干角度が急な階段が途中の踊り場(ここが今回私の寝床)を経由して屋上まで続いているのが印象的だ。「そのうち足が弱った時はどうするのだろう?」などと余計な心配をしつつも、屋上から真正面に磐梯山を見る眺望は中々のものだ。当夜は和田氏の地元仲間の高橋氏も参加しての鍋宴会となり、「竹林の七賢」ならぬ“鍋前の三愚老”の鼎談で盛り上がる。元NHKカメラマンだったという高橋氏。御年80を超えているにも関わらず豪快な話しっぷりと飲みっぷりにつられて当方もついつい酒と余計なおしゃべりを重ねてしまった。結局宴会は夜半10時過ぎまで続きお開きとなる。翌日は、和田氏に誘われて奥会津にある秘湯の「つるの湯」へ。只見川を上流へと登る途中にある湯治場も兼ねた温泉は、目の前に只見川を間近にみながらの露天はその豊かな泉質が与える効果も加わって何とも言えない心地よさだ。まさに桃源郷の気分。さて、午前中の弛緩した気分と打って変って午後は、やはり一宿一飯の義理は果たさないとならぬという訳で、薪材の調達作業を行う。事前に間伐した40年モノのスギが数本倒れている中の1本をチェンソーで玉切りにしたものを薪割器の前まで運搬する。その数約20個。「美味しいビールとそばを食す」為にも、お正月以来あまり体を動かしていないのでちょうどいい運動になる。というのは、和田氏は玄人肌の蕎麦打ち名人でもある。蕎麦打ちを始めておよそ20年近いキャリアの持ち主だ。当方が薪材調達中に、およそ3時間かけて今夜の宴会のメインディッシュとなる蕎麦を和田氏は打っていたのだ。そしてこの日もまた高橋氏も参加、昨夜に続き三愚老の宴会第二弾が始まる。この日高橋氏は喜多方からほど近い猫魔スキー場で滑った後の立ち寄りだったが、ともかくもこの日の三愚老はそれぞれが程よく肉体を駆使した後の宴会となったのである。ところで、ちょっと不幸なことではあるが、和田氏と高橋氏は共に奥様と死別された境遇だ。個人的感想としてだが、夫婦の場合、ほとんどがどちらかが先に旅立つケースになる訳だが、大体において離別後未亡人の方が元気よく長生きするのに比べ、男やもめと言われるケースでは結構悲惨な状況が多いように見受けられる。そのようなこともあり、今回の喜多方訪問は和田氏の環境を少し心配しつつ慰めも兼ねての訪問意図があったのだが、おっとどっこい!すっとこどっこい!何とやもめ連中の元気な事か!ともすればまだ離別していない当方の方が元気づけられるような始末ではないか!かような訳で、二日目の宴会は、三愚老ともやはり「男の子」である。話題は自然と「女人」の話に及ぶ。お二方も適度な交流(※どうも交際までには発展していないような)があるようだ。特定の女人の名前が飛び交う話に花が咲き、また笑いがついつい酒を誘う。和田老、高橋老の話を聞いていると、「喜多方は男やもめの天国か!!まさに桃源郷!」などと勝手に想像してしまう。前半の酒タイムがそろそろ終了と言う頃合いになり、さてお待ちかねの今夜のメイン。和田老手打ちの「冷蕎麦」と「温蕎麦」をこれまた手製のオリジナル蕎麦汁でいただく。「美味い!」としか言いようがない。久々に食す和田老の蕎麦だが、かなり腕を上げていた。「これなら一人暮らしでも大丈夫だな。心配なし!」と当方心で軽くつぶやく。二日目の喜多方の夜もかように前夜に続き他愛のない話にも関わらず大いに盛り上がった三愚老だが、やはり老齢の身はごまかせないのか、日中の肉体労働・活動疲れに少し早目にお開きとなった。

 さて、当方にとっては非常に短い旅ではあったが、やはり遠く離れている友と久々に酒を交わす語らいは何とも言えず至福なものだ。初対面にも関わらず気さくに応じてくれた高橋氏にも、また新しい出会いとして感謝せねばならないだろう。人生を振り返ると、人には必ず自らのそれを左右する出会いというものがあるが、和田氏との出会いも当方にとっては、そのような数少ない人生で出会った貴重な存在である。流れ者根無し草的性向の当方が、よく30年近くもそれなりに落ち着いた生活が出来ているのも和田氏との出会いのお蔭と言って言い過ぎではないだろう。文字通り青年とも言える時期の出会いから30年を経た今、双方に齢を重ねてはいるが、「まだまだ行けるな!」と相互に感じ合ったことも疑いようがない気がする。「会津若松まで車で送るよ」というその和田氏に少しわがままを言い喜多方駅で見送られ、乗ってみたかった磐越西線で帰りのバスが出る会津若松へ向かったのだが、バスの車窓から道中全然顔を出さなかった磐梯山がその姿をくっきりと青空とのコントラストで見せた時、「ああ旅が終わったんだな」とちょっと心理の深淵を見るような感傷にふけったのが印象に残る旅だった。

<お断り>

※日記では愚老などという表現を使っているが、和田氏、高橋氏とも素晴らしいダンディな紳士であることは言うまでもない。

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