『現実主義の陥穽』(丸山眞男)

現代に生きる個々人或いは組織の葛藤の多くを占める「現実」という逃げ口上を、喝破する丸山眞男のエッセイを評論無しにそのまま掲載する。

 

 

<以下引用>

「私はどうしてもこの際、私達日本人が通常に現実とか非現実とかいう場合の「現実」というのはどういう構造をもつているかということをよくつきとめて置く必要があると思うのです。私の考えではそこにはほぼ三つの特徴が指摘出来るのではないかと思います。

 第一には、現実の所与性ということです。

 現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもつばら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのつぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが、他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行つたのもまさにこうした「現実」観ではなかつたでしようか。「国体」という現実、軍部という現実、統帥権という現実、満洲国という現実、国際連盟脱退という現実、日華事変という現実、日独伊軍事同盟という現実、大政翼賛会という現実――そうして最後には太平洋戦争という現実、それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私達の観念にのしかかり、私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺して行つたのはついこの間のことです。

日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましようか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によつて立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいつて叱陀する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。(中略)戦後、米ソの対立が日を追うて激化して来たことは、むろん子供にも分る「現実」にちがいありませんが、同時に他の諸国はもとより当の米ソの責任ある当局者が何とかして破局を回避しようとさまざまの努力をしているのも「現実」ですし、更に世界の到るところで反戦平和の運動が――その中にさまざまの動向を含みながら――ますます高まつて来ていることも否定出来ない「現実」ではありませんか。「現実的たれ」というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指していうのでしようか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のうちのある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立つて「現実」の一面を選択しているのです。講和問題にしろ、再軍備問題にしろ、それは決して現実論と非現実論の争ではなく、実はそうした選択をめぐる争にほかなりません。それにも拘らず、片面講和論や向米一辺倒論や(公式非公式含めての)再軍備論の立場の側からだけしきりに「現実論」が放送され、世間の人も、またうつかりすると反対論者までつりこまれて「現実はその通りだが理想はあくまで云々」などと同じ考え方に退却してしまうのはどういうわけでしようか。

そう考えてくると自から我が国民の「現実」観を形成する第三の契機に行き当らざるをえません。すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。(中略)民衆の間の動向は権力者の側ほど組織化されていず、また必ずしもマス・コミュニケーションの軌道に乗りませんから、いつでも表面的にはそれほど派手に見えませんが、少し長い目で見れば、むしろ現実を動かしている最終の力がそこにあることは歴史の常識です。ここでも問題は「太く短かい」現実と「細く長い」現実といずれを相対的に重視するかという選択に帰着するわけです。

 私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味して見ればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもつたものであることが分ります。こうした現実感の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしよう。そうしてあのアンデルセンの童話の少女のように「現実」という赤い靴をはかされた国民は自分で自分を制御出来ないままに死への舞踏を続けるほかなくなります。」

( 『世界』1952年5月号「現実主義の陥穽」より )

国家と自由

「個人の自由」を「国家(権力)」と言う枠の中で主張することの根本的な限界と矛盾があると思える。憲法最高裁もそれ自身が立脚しているのは「国家(権力)」であり、憲法或いは最高裁が”根源的”な「個人の自由」を認めることはあり得ない。「個人の自由」を完全に「法」に委ねることは全体主義であり、その場合結果として「個人の自由」は「法」によって規定解釈されることとなる。「法」を作る(立法)機関が「国家(権力)」であること(統治行為論)を鑑みれば判決はおのずから決まってくる。憲法を絶対的且つ至高の存在と考えることの限界を儚くも示したのではないか。そろそろ「国家(権力)とは何か」を民主主義という政治論或いは得体の知れない社会論から視るのではなく、「自己」という存在論から 「国家と自由」という問題を思考すべき時期に来ているのではないか。「国家と沖縄(独立論)」とも通底する問題であると思える。安倍晋三氏の発言はまさにそのこと(国家イデオロギー)を素直に述べているのである。

http://lite-ra.com/2015/12/post-178...

水資源の危機

石油資源と二酸化炭素の直接的関係を元にしたCOPにおける議論では、水問題は残念ながら中心的な課題にはなっていない。COPはある意味、石油資源を巡る国際的な国家利権の調整とみることができる。20世紀は確かに化石燃料(の確保)が国際関係でのヘゲモニーを握る大きな資源であった。開発途上国の経済発展が先進国の石油資源の独占を許さなくなったことから、先進国が先に手を打った手段が「地球温暖化問題」であったと言える。さて、そのような流れの裏で、21世
紀の根本的課題として浮上してくる課題が「水資源」問題だ。「20世紀は石油をめぐって戦争が起きたが、21世紀は水をめぐる戦争が起こるだろう」というのはたびたび言われる言説だが、間違ってはないだろう。特に日本は森林国で、水が豊富なことからこのような国際な水資源課題への認識が低い。2009年に民間シンクタンク東京財団が「日本の水源林の危機~グローバル資本の参入から「森と水の循環」を守るには~」と言う論考を出し、それに伴い、主要な水資源
を持つ自治体が調査したところ、既に外資に買われた水源林が膨大に上ることが判明したことは記憶に新しい。買収の目的は文字通り「水資源」であることは明白だ。日本の水資源に関する法律は、水の利用(利水)、水害防止(治水)という観点からのみの法制度しかなく、水の「所有」と言う観点からの法整備は無いことから、水源林を買収されても法的に抗弁出来ないという根本的な問題も指摘される。ところで、水ビジネス市場は2025年には110兆円規模に成長するという試算が行われているが、経済産業省においても日本の水関連産業が世界のシェアの6%確保を目標に掲げている。また、各自治体においても水道事業を積極的に海外展開している事例(東京、埼玉、神奈川、広島、大阪等)も増加しているが、これを手放しでは喜べない。海外企業が日本の水を牛耳るビジネスを展開していることを知っている日本人はほとんどいないだろう。例えば、フランスのヴェオリアは千葉県の手賀沼の浄化施設を約50億円で落札した。また同社は、松山市浄水場の運転業務を一括で行っているが、松山市の水道料金は2倍に跳ね上がったという話もある。さて、この水ビジネスで無視できない存在が、ウォーターバロン(水男爵)だ。仏ヴェオリア・エンバイロメント、仏スエズ、英テムズ・ウォーターという水ビジネス3社のことを指す言葉だが、彼らは実に巧妙に世界の水道事業の民営化を狙っている。「世界水会議」というフォーラムは、彼らがフランスマルセイユに本部を置き、国際連合世界銀行を表に出しながら、専門家を使って「水道事業は民営化すべし」という国際世論を作り上げるために
立ち上げたものだ。彼らは「上下水道部門を民営化しなければ、世界銀行が融資しない」という制度まで作ったが、南米ボリビアにおける外資による水道民営化では暴動まで起きている。一旦民営化されれば、後は企業の思うままに事業が支配されるのは、水に限らず、我が国における民営化の実態が如実に物語っているだろう。しかし、新自由主義を標榜する安倍政権においても麻生太郎が、2013年4月にSIS(米戦略国際問題研究所)での演説で日本の水道事業の民営化(外資への開放)を公約している。水は、人間が生命を維持する必要不可欠な資源であるが、「国民の命を守る」という安倍晋三氏が繰り返す言葉は、この水資源の外国への売却によっても果たして守られるのだろうか。二酸化炭素排出に対する意識と同レベル否それ以上の意識を、我々は我が国の水資源に対して持つ必要があるだろう。

『文学の責任』

標題の『文学の責任』は1957年、高橋和巳のエッセーから取ったものだが、このエッセーは高橋が25歳の時の作品であり、新進気鋭の小説家として売り出す直前の観念作家としての思いがあふれんばかりのアジテイションとも言えるものである。そこでは、西洋東洋の哲学、古典からの引証をベースに彼自身の意識と思考が決意にまで高まる、文字通り「文学の責任」に対する縦横無尽な切込みが表現されている。しかし、わずか150枚程度の中編論ではあるが、これを読みこなすにはまだ当方の知識のみならず思弁そのものが相当足りないことから、現時点でこの論の理解とそれに対する批評・論議はまだ私には不可能と思える。しかし、この論で高橋が言いたかったことは、「文学の責任」とはとりもなおさず『(・・・文学者は・・・)いわば精神の危険物をあつかう職務ゆえに、全面的に己の発言に責任を負う必要がある』(河出書房『文学の責任』P44)のであり、また『・・・まさに文学は、人間の根源的な認識論操作であるゆえに、戦争責任だけではない、人間の精神にたいして、まっさきにそれを問われてしかるべき責任性をもっている』(〃P48)のであるから、『行為は、言語に照明され、意識は存在に裏打ちされる。行動の随伴現象として心理はあり、心理が決意となったとき、行為が必然的にうまれる』(〃P59)ものだ、ということである。すなわち、「表現(認識)と実践の一致」こそが「文学の責任」と喝破した。

さて、長々と高橋和己の論を引用してしまったが、本論はこの「文学の責任」を具体的な事例で考えてみたいと思ったからだ。いまから、20年前の1995年、本多勝一が『大江健三郎の人生-貧困なる精神X集-』を出し、大上段で大江健三郎をメッタ切りにしたことを覚えているだろうか。その本の帯には、「体制にも反体制にも「いい顔」をする処世術、ノーベル賞作家の偽善を徹底的に追及する!」と何とも刺激的な言辞が書いてある。それは、下衆な表現をすれば、その前年(1994年)の大江のノーベル賞受賞をきっかけに、本多が大江に売った喧嘩でもあったわけだが、本多の言わんとしたことは、大江の言行不一致とその「狡猾さ(本多)」ということだった。少し説明すると、1982年に大江を始めとする文学者関係者数百人規模の署名による「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に対して、当時日本の核武装を積極的に進める月刊誌『諸君』などを発行していた文芸春秋社から幾冊もの本を出していた大江に対する本多の疑念から始まった論争でもある。その経緯は彼の本を読めば、本多が論点とともに詳細に記述してあるのでそれに譲るとする。ところで、今般の「戦争法案反対」の運動における大江の“活躍”を私は素直に受け止めたのであるが、しかし、少しの違和感を感じたことも事実だ。一言で言えば、大江健三郎は本当に体を張ってまで「法案阻止」を体現するのだろうか、という疑念だ。私は、彼の「持続する志」を高校時代に読み感銘を受けたものだが、今回の戦争法案における大江の行動もその延長上にあるとみていた。しかし、ふとした疑念が先述の本多の著書を思い出し、読み返したみたのだ。少しわかったことは、本多はジャーナリストであり、あくまでも「現実」からのアプローチであり、そこには「リアリズム」が絶対的な価値観を持っている。一方、大江のような文学者は「現実」ではなく「虚構」からのアプローチであり、そこでは「想像」が働く世界である。「想像」は「虚偽」と同一ではないが、その可能性を含むものであり、リアリズムから見ると疑念が湧く要因の一つとも言える。しかし、本多は大江の小説は一冊も読んでいない。とはっきりと答えたうえで、大江をそれでも非難しているのは、大江の倫理性を問題にしているからであるが、この論争は結局は双方半端に終わり、現時点では過去の面白い話程度にしかなっていない。ここでは、この論争の是非を問うのではなく、冒頭の高橋和己の「文学の責任」という問題にもう一度立返り、「表現すること」の「責任」を考えてみたいと思ったからだ。あるいみでは、これは文学者のみならず、表現媒体の進化、特にインターネットの普及はそれこそ「一億総言語表現者」ともなっている現状から見れば、われわれ一般人にも「表現すること」の「責任」という課題は今後重く大きな問題となるのではないか、という思いがある。それとともに、これこそ重要なことだが、相対的に政治家の表現・言辞の軽量化と無責任さが益々明らかになりつつある、ということだ。便利なシステムが人間の存在を根本づける価値観である「言語表現」の「無責任」さを拡大させるものとすれば、ここで一度たちどまり、「言うことの責任」の在り方も考えてみたいものだ。

<補論>

『文学者の責任』は高橋和巳が自らの内面に問いかけ、自らが答えた50年も前の論評にもかかわらず現代に通じる普遍性をもっていると思える。また本多が敢えて刺激的に提起した「大江健三郎」も人間の内面に起点を置けば、やはり普遍的なものとして捉えることが可能だ。もう一つ、高橋和巳が重要なことを言っている。それは「読む(んだ)側」にも「責任」が発生するということである。そこにおいては、「知らなかった(ことにしよう)」とか「無視」「無為」ということは「無責任」ということであり、とりもなおさずそれは『人間の物化』に他ならない、ということだ。政治家の言辞を「知らなかった」「どうでもいい」と言う態度で受け止めることはまさに自らをモノと化すことに他ならない。

縮小社会と地域の自立

京都に「縮小社会研究会」という集まり(フォーラム)があるのを知りました。京都大学の松久寛名誉教授が中心となって定期的(ほぼ毎月)に研究会を開催しています。代表の松久寛教授は『縮小社会への道』という本を編集していますが、その要旨は「我々の選択は、成長の果ての破滅か縮小かの二者択一であり、縮小なくして持続はあり得ない。」(同書:はじめに)と至極明快であり、その中で、「・・・・悲惨な未来を回避するためには、縮小社会に向かって発展するべきであるともいえる。そこで、持続という玉虫色の言葉を避けて、あえて縮小という言葉を使っている。」と述べています。松久教授の専攻は機械理工学であり、観念だけで「縮小」を唱えているのではなく、地球と言う有限な物質から還元される量は一定、或いはエントロピー理論に従えば、その量は逓減化していくものであるということがその論拠となっています。となれば、物質的には消費量を「縮小」していくしかないのは自明の理でもあります。同書ではまたこの縮小を「これは量的な縮小であって、質的な後退ではない」とも述べています。最近の先進国でも「幸福論」についての議論が盛んにおこなわれていますが、「物質より精神」という傾向が強いようです。しかし、この「縮小論」も決して新しい考えではなく、古くは50年前の「宇宙船地球号」(1966年B.フラー、K.Eボールディング)、「成長の限界」(1972年ローマクラブ)、「Small is beautiful」(1973年F.シューマッハ)、、など、或いは最近の「里山資本主義」(2015年藻谷浩介)などもその部類に入るでしょう。この流れから見れば、人類の数少ない部分が「地球資源の有限性、限界性」を認めている訳ですが、しかし現実にはこのような考えはなぜなかなか取り入れられないのか!一つは、「総論賛成各論反対」という理念先行論になりがちな所もあるのでしょう。そのような反省から「縮小社会研究会」では、課題を一つづつ具体的に論じ、また社会システムの在り方としての根本的課題も提起していますが、そこから踏み出す糸口を見つけることが出来ないようです。これは「縮小社会研究会」だけでなく、我々「低炭素研究会」においても共通する課題のようです。これはどこかで無意識に、方策を施す対象を「社会全体」に常においているからではないかと思われます。「縮小社会」或いは「低炭素社会」とは考えてみれば、イメージとしても”小さな社会”であり、現実的には最近の地産地消という表現があるように、まずは小さなコミュニティ(或いはソサイエティ)で自己完結する仕組みを作り上げることが肝要な気がします。つまり、「縮小」するのは物質的量だけでなく仕組(システム)としての国家或いは企業組織等も「縮小」すべきではないか、ということであり、逆に言えば、地域はもっと「自立する意志」を持つべきと言うことです。このような歴史的文脈と言う視点から見れば、スコットランドカタルーニャ、或いは沖縄における独立論の中にも、このような「縮小社会」の”本質”が含まれているのではないか、と考える次第です。

一般社団法人 縮小社会研究会

http://shukusho.org/index.html

奄美墓参行道中記

○故郷墓参行の決意

故郷への長期の不義理をいつもどこかで感じながら過ごしていたのだが、「格安チケットがある」という単純かつリーズナブルな話があり、数年ぶりの故郷墓参行をしてきた。私の故郷は奄美大島である。最近合併により奄美市という名前に変わったが、正式な旧名は鹿児島県大島郡笠利町大字和野(わの)というところだ。奄美本島の北部太平洋側に位置するサンゴ礁バリアに囲まれた小さな海辺の集落だったが、35年前の海上空港建設工事でものの見事、サンゴ礁は全滅してしまった。幼少から学生時代は毎年ここで夏を長期に過ごしたものだが、それも今は追憶の中にしかない風景となってしまった、、、、、と、思っていたのだが、在京の従兄弟から「潜ったら珊瑚が再生していた!」という話を聞き、居ても立ってもいられぬ気持から今回の墓参行を決意した。とは言え、通常の航空運賃であれば、同じ島嶼でもハワイ・グアムへの旅行をやってもおつりが出るくらい、高額な料金のかかるところであり、片道4万弱円はかかる。それが、なんと片道5000円!往復で1万円というアホみたいな価格だ。ちなみにその信じられない航空会社は最近出来たバニラエアというANAの子会社だ。このような価格破壊奄美大島路線を独占している高額料金会社JALへの闘争宣言か、などと思いつつ成田から飛び立ったのが、10月20日だった。

○離陸前のハプニング

その前に一つ話しておかないといけないハプニングがあったので、ちょっと話そう。今回の旅は先述した珊瑚の海に潜った従兄弟の政文(まさふみ)氏と連れ立ったのだが、成田へ向かう日暮里からの特急電車に同乗していたロシア人夫婦と見える二人連れが日暮里駅のホームベンチにカメラバッグを忘れ車内で呆然としていた。私はとっさの行動で、ロシア人の奥さんと一緒に動いている先頭車両から列車の最後部車両の車掌室まで小走りで移動、車掌に経緯を話し、すぐ日暮里駅に連絡してくれるように頼んだのだが、車掌は「それは出来ないので、次の青砥駅で降車して駅係員から連絡してもらう以外にない」と言う返事。何と通信技術の最先端を行く我が国において、大手私鉄の特急電車から外部へ連絡が出来ない、ということはどういうことか。しかし、そのような問答をやっている間にも、カメラバッグは盗難にあうかもしれないので、「(私が)携帯から日暮里駅に直接電話するので番号を教えてくれ」と言うと、車掌は手帳や書類などを取り出しながら調べるのだが、これまたなかなか見当たらない状況。いやぁ、何たることか!とため息と軽い怒りの気持ちが湧いてきたのだが、何とか列車が青砥駅に到着。私と従兄弟は、自分たちの出発時間のことを気にしながらも列車を降り、ロシア人夫婦とともに青砥駅ホームにある係員室に直行、係員に事情を説明した。駅員はすぐ行動してくれ、待つこと10分近く、「バッグがあった」という朗報があり、言葉が通じないもの同士ではあったが、ロシア人夫婦と私たちは笑顔を交わした。ちなみに、カメラバッグの中には何とパスポートが入っていたとのこと。「いゃぁ、良かった、良かった」という安堵感とともにこれからの短い旅へのちょっとした期待感のようなものも感じながら、私たちは格安航空機への根拠のない飛行の不安をよそに、成田から奄美へと飛び立ったのだ。

奄美空港へ降り立つ

さて、離陸前のハプニングもあったが、“格安飛行機”は不安を払しょくする安定した飛行で時間通り午後4時に奄美空港へ着陸した。ちなみに使用した機材エアバスA320(180名)搭乗者はサーファーやラッパーバンド風グループなど若者などで満席。空港の歓迎口も多分地元の宿泊施設のスタッフと思われる人たちが名前の入ったプラカードを上げながら待っていたのは、奄美が観光の島としてそれなりに成り立っていることを思わせる光景に見える。空港には私の従姉妹にあたり、同行の従兄弟の姉にあたる明美(あけみ)氏が私たちを出向かえてくれた。どのような旅でもそうなのだろうが、やはり出迎えのあることは心強いし、嬉しいものだ。この明美氏とも久方ぶりの再会となる。彼女の車に乗り、私たちの集落へ向かう。集落は空港からものの5分近くにあるが、途中に川口家が眠っている集落の墓地があり、そこをゆっくり通過しながら心の中で亡き父母への帰郷の挨拶をする。今回の墓参行を決意したもう一つの理由があるが、それについてはまた後で話すことにする。

○懐かしい従姉妹たちとの宴会

成田からの旅疲れも感じることなく、私の母の本家にあたる渡(わたり)家で早速宴会が開かれる。本家には、義理の叔母にあたる渡節江(せつえ)氏が一人住んでいるだけである。彼女の連れ合いだった叔父の季和(すえかず)氏は今年の1月に83歳で逝去した。節江氏とはなんと13歳の年の差があるが、心優しいクリスチャンの節江氏のおかげで、叔父は良い人生を送ったことだろう。叔父と結婚した当時の節江氏はとても美しい人だった。「掃き溜めに鶴」という言葉があるがそれほどの美しさであったように記憶する。もちろん今でも齢を重ねたとはいえ、その美しさは変わらない。ちなみに叔父もこの節江氏の影響か、クリスチャンに改宗、名をヨセフと名乗っていた。この叔父と生前に交わした問答も今回の墓参行の重要なポイントだが、これも後で話す。さて宴会だが、出迎えてくれた明美氏と節江氏、そしてもう一人の従姉妹の加代子(かよこ)氏の3人が懐かし島料理の数々を提供してくれた。何という名前か忘れたが、奄美近海でしか取れない、アジに似た魚と自前の味噌をあえた文字通りの「ゆ(魚)味噌」は奄美料理の定番だ。アワビ風のトコブシの燻製、奄美以南でしか採れないサザエ類でヤコウ貝の一種の貝料理も美味である。当然、海の幸の王の伊勢海老も所狭しと並ぶ。幼少の頃、祖父(母の父)が良く採った伊勢海老は緑色に近い色で、大きさも50~60センチはあったように記憶しているが、それよりは幾分か小さめだ。今回の伊勢海老は加代子氏の夫君で私と同年の良也(りょうや)氏が採ったものだという。加代子氏と一緒になる頃の良也氏は地元でもちょっとした名のある不良だったらしいが、同行した従兄弟政文氏の亡き次兄の勝則(かつのり)氏が加代子氏との付き合いに対し、強く彼を諌めたという話で場は盛り上がる。加代子氏は私と1歳違いだが、高卒後、准看護婦の資格を取り、のち正看護婦となった。途中で肝臓を患い闘病を克服したが、看護婦と言う職業は彼女にこそふさわしいと思えるほど、人当たりの良い優しい性格の持ち主だ。また空港に出迎えてくれた明美氏は、来年70の古希を迎え従兄弟連中では年長の姉筋にあたる。性格は豪放磊落、と言ったら彼女に失礼か。しかし、私のイメージの中の明美氏は姉でもあり、母親のような雰囲気もあったように感じたものだ。現在は、地元でも有名な日舞の師範でもあり、お弟子さんも多く、またその姉御肌は、男女問わずシルバー層のマドンナとなっているようだ。懐かしい従姉妹や叔母との久々の再会と島料理をつまみながらの昔話を重ねては笑った帰島第一日目の夜はこのように更けていった。

○従兄弟たちへのコンプレックスと薩摩藩閑話休題

私は小学低学年の頃から、毎年夏休みなると強制的に島へ父から連れられて行ったもので、内心“島送り”とつぶやき、島の従兄弟連中と会うことに大きな抵抗があった。簡単に言えば、島へ行くことは嫌だったのだ。従兄弟連中は、川口家である私と私の妹以外はすべて島で暮らしており、いつも親族における違和感を感じていた。それは、ある意味コンプレックスでもあった。鹿児島市で生まれ育った私にとって、曲がりなりにも都市化・近代化進む鹿児島と違い、本土から20年は遅れていると形容される島の暮らしぶりはまるで異境否秘境の地であると言っても良い場所だった。しかし、従兄弟たちが海で素潜りや魚釣りなどを器用にこなす姿は、当時泳げない運動オンチである私にとっては、コンプレックスとなって益々“島送り”の心境を濃くしたものだった。それとこれは言っておくべきことだが、奄美は薩摩・島津への反感が歴史的に根強い地域である。それは400年前の薩摩藩による奄美併合から続く過酷な搾取と圧政がその原因であるが、特に幕末における薩摩藩の島人に対する搾取は相当酷いものだった。奄美出身である両親から私は幼いころからこのような話を聞かされていた。一方、鹿児島で生まれ育った私は、薩摩藩謳歌の教育を受けることになるのだが、家では薩摩の横暴を聞かされ、学校では薩摩のプライドを注入される私のルーツはその根拠をどこに持つべきか迷うことになるのは必至だった。先述の奄美に対するコンプレックスの裏には無意識ながらこのような感情もあったのだろう。63歳を過ぎた今でも、私はその空間的精神性が漂うバガボンドのようなものだ。今回同行した従兄弟とはこの問題について良く話し合う仲だが、その中でも「西郷隆盛論」はこれらの疑問に少し回答を与えてくれる。西郷隆盛とはもちろんあの西郷であるが、約3年ほどを奄美で暮らしている。しかも我集落にほど近い場所であり、西郷自身も一度我が集落を訪れているという話だ。その時の西郷の行動や言動を後の維新実行、そして西南の役での自刃に至るまでの彼の人間論を議論するのだが、これについてはまた別途機会があれば語りたい。

○墓参とその背景

帰島二日目。昨夜の宴会の名残がまだ残る中、父と母が眠る墓地に入る。多分従姉妹たちが定期的に清掃と墓参をやってくれているのだろう、墓は荒れることなく小奇麗なたたずまいをしている。墓石の周りを丁寧に清め、線香と花を捧げる。ここは、今は奄美空港がその風景を遮っているが、はるか太平洋を望める小高い高台にあり、生前から父母とも死んだ後はここから「故郷の海を眺めたい」と言っていたものだ。従兄弟と一緒に合掌したあと、他の親族の墓を一つ一つ墓参する。さて、この墓については亡き叔父(季和氏)から、「今のままでは無縁仏になる。墓の世話をする人も居なくなる。お前が元気なうちに墓を移せ!」というある意味暖かくも冷たいアドバイスを継続してもらう経緯があった。確かに叔父の言うとおり、10万近い帰島費では恒常的に墓の世話をすることも出来ない。現在の社会の流れから見ても合理的な判断ではあろう。しかし、たった一つの小さな墓とは言え、それは私が何者であるかを物理的に示してくれるたった一つのシンボルであり、また私自身の空間的精神性の根拠の一つでもある。それを無くすことがもたらす精神的喪失性は、叔父を始めとする島在住の親族には表面上は理解できても心の奥にある核心部分については理解不能ではないかと思われる。それは、もっと言えば、定住者と非定住者の根本的な精神的相違であるかもしれない。叔父との墓移転に関する問答は3年近く続き、その間、3度の手紙のやり取りをした。しかし、お互い結論が出ないままに、叔父が逝ってしまったのである。今回の墓参は、この墓の問題に対する自分なりの決着を図らないといけない、という思いもあったのである。

○歳長の従兄弟の見舞い

帰島二日目の夜は、奄美市中心部の名瀬に向かう。従兄弟の中ではもっとも歳長になる勝正(かつまさ)氏の見舞いを兼ねた勝正氏宅での歓迎会への参加のためだ。名瀬と和野集落はおよそ40km離れているが、飛行便などない頃は、鹿児島から奄美まではおよそ12時間の船旅と、その後のバスでのおよそ3時間余りの移動時間をかけて故郷の集落まで来たものだが、年間500億円近い奄美群島振興補助金による公共事業の“恩恵”で、今では40分で名瀬まで行ける。空港もそうだが、得た利便性と失った自然環境との比較の結論はそれほど単純には出るものではないだろう。さて、今夜訪問する勝正氏は名瀬市会議員を5期に渡って務め上げた親族の中でもその行動力が高く評価されている人物だ。昭和19年生まれだから現在71歳だ。ちなみに帰島同行の政文氏と明美氏の長兄でもある。勝正氏はその持前の正義感から奄美出身の徳田虎雄徳洲会理事長に師事し、市議への道を歩んだのだが、心身の体調を崩したことから、折しも市議選最中ではあったが、出馬を見送り市議からの引退を表明した直後だった。師に当たる徳田虎雄氏の徳洲会をめぐる様々なスキャンダルも間接的ではあるが、彼の体調不調の理由の一つでもあろう。勝正氏は、一族のホープ的存在とともに、総計16人の従兄弟の中の歳長でもあり、従兄弟全員の兄的存在でもあった。彼からは、私は結構辛辣な批判も数多く受けたが、逆にいろいろな場面で励まされもしたことを今でも覚えている。その勝正家では、奥さんの悦子(えつこ)氏と長女の智子(ともこ)氏からも暖かい接待を受け、まだ政治家への未練が残っている勝正氏を励ましながら、ここでもまた島料理の攻勢を受けたのだった。昨日に続きの伊勢海老料理の「エビ汁」は本当に美味い。島では、このように伊勢海老を振る舞うのが最大のもてなしの一つなのだ。宴会は、久々の再会を喜びながらも勝正氏を励ます会の様を呈して来、昔の勝正氏の色恋沙汰などちょっと危険な話題も飛び出すなど、島人特有の大きな笑いの中で、また今夜も夜を更けての時間を過ごしたのだった。もちろん、勝正氏に少し笑顔が戻ったことは言うまでもないことである。彼には、今後は島の戦後の生き字引として彼自身の半生を振り返りながらも、島で起きた一つ一つの事実を記していく「回想録」を書くことを強く勧めたのだが、是非期待したいものである。

西郷南洲謫居跡訪問

帰島三日目は、隣町の龍郷町(たつごう)まで出かける。亡き母の従兄弟筋に当たる方を表敬訪問するためだ。龍郷町は和野集落と中心地名瀬を結ぶ中間に位置するところだが、大島紬発祥の地とともに、西郷南洲が遠島(島流し)された場所としても名高いところだ。親族の訪問を終えた後、明美氏の運転する軽自動車でその地、「西郷南洲謫居跡」を訪れた。この遠島は処罰と言うより、西郷の身を案じた島津斉彬の一計による身隠しの性格が強いものである。詳細は省くが、西郷はこの地でおよそ3年近くを過ごしている。この時、地元愛加那(あいかな)と一緒になり、後の京都市長となる西郷菊次郎と大山巌の弟の嫁となる菊草の二子を設ける。西郷33歳、愛加那23歳の時である。この施設で、愛加那の親戚筋にあたる龍昭一郎氏からいろいろ説明を受ける。住まいは、とても質素なものだった。ここで西郷は何を思い、どう行動したのかといろいろ想像する。先述したが、奄美は反薩摩の精神風土の土地であり、龍郷における西郷の存在の評価も二つに分かれる。西郷否定派によれば、西郷の行動の矛盾の一つは、島民を暴力的に搾取する島役人に対し彼はそれを諌めるのだが、搾取の元となるサトウキビ収奪会社である「大島商社」の設立を積極的に進めた、ということと、愛加那との生活を一方的に打ち切り、その二人の子供を強制的に連れて行った、という二点のようだ。しかし、現在の人権感覚でみれば確かに西郷の行動は疑問点が付くが、当時の価値観や時代感覚からすれば、批判には当たらないのではないだろうか。それよりも、謫居の間に西郷は島の子どもたちや若者に積極的に学問を進めており、龍郷からも優秀な人材が輩出、また地域そのものの精神性も高い。今般の市町村合併に伴い、旧中心地である名瀬市と周辺3町(笠利、大和、住用)が合併、奄美市となったが、龍郷町だけは最後まで住民が合併に反対し、その地域性を守ったことも、ある意味西郷の教えが形として現れたものではないか、と思われる。このように奄美における西郷の評価もその歴史史実を踏まえながら、いろいろな視座で見ていくと案外面白い発見があるように思えるがどうだろうか。

○帰島4日目に炭焼適地発見

さて、旅もいよいよ大詰め、夕刻にはまた帰郷の途に付かねばならぬ帰島4日目は、東京からずっと同行した従兄弟の政文氏の所有する畑を見ることができた。実は、この政文氏は私が従兄弟の中でも最も親しくまた最も深く付き合う人物だ。私より4つ下だから、来年還暦を迎える59歳だが、その行動力と知力は彼の長兄勝正氏をある意味上回るものがある。県下の有数な進学校である高校を自ら中退し、単独で上京、自らの人生を自らの力のみで切り開いていった、まさに孤立無援の士である。私が稚拙な学生運動に走っていた頃、私は母と彼の母から「政文を(運動に)引き込むな!」と強く何度も諌められたものだが、社会への哲学的懐疑と素直な正義感に包まれた彼がマルクス主義に傾倒し、私以上に過激な道を歩んだのは運命でもあったのかもしれない。徒手空拳で養豚・酪農の世界に飛び込み、ヨーロッパやアメリカ、中国・台湾を積極的に訪問、新しい養豚・酪農の世界を作ろうとしたその信念と行動は今でも衰えていない。その政文氏が、新しい養豚の在り方として放牧型を目指し、また奄美の養豚産業の新たな勃興を目指して故郷に戻ったのは今から10年前になるだろうか。しかし、いつも孤高を保つ彼とて、養豚という労働集約型の作業は、一人ではどうしても限界がある。私も一度彼の放牧場を手伝ったことがあるが、とても一人でやれるのものではない。走り回る200頭近くの黒豚を見ながら「すごい!」という簡潔な印象が強く残ったものだ。しかし、体調を少し崩したこともあり、彼はこの事業を自ら引き上げることになる。5年前になるだろうか、彼は放牧事業を引き上げたあと、単身米国ニューヨークへ渡り、地元の和食レストランのチーフシェフとして再スタートを切る。彼の食肉や野菜などの豊富な知識と経験が買われての食品関連コンサルタントからの依頼に応じたものだった。そんな彼にまつわる偉業を振り返りながら、彼とともに彼のかつての養豚放牧場を訪れる。一部は他者へ貸しているのだが、1ha以上はあると思われる農地は少々荒れていた。彼には、再度ここで捲土重来を期す野望があるようだ。今回の帰島は彼にとっては、そのような意味が含まれているのである。彼の夢と目標は、地元産物でもあるタンカン果樹園をベースにした人的交流の場づくりだ。例えば、リタイアした高齢者の新たな夢づくりの場として、或いは、新しい価値観を求める若者の自らを試す場として、それほど高唱でなくても、心身ともに疲れた現代人が少しでもいやされる場として、嘗ての放牧場が活用されるならば、彼にとって彼の人生の新たなステージを作れる。私もまた彼の目標への手伝いを考えながら、「奄美で炭焼は可能か?!」とふと思いつき、彼に話したところ、二つ返事でOKをもらった。早速炭焼窯設置候補の場所を見て回る。そのたびに私もまた自らの目標、或いは夢のような意識が徐々に浮かび上がってくる気がした。2011年の大震災をきっかけに内省へと向かっていた意識が久しぶりに外へのエネルギーに少しだけ転化した感覚があった。

○旅の終わりに

わずか3泊4日の小旅行であったが、いろんなことがあったように思える。初日出発前のロシア人とのハプニングがそれを予感させたが、改めて思い返す。大げさではないが、自らの人生にそれなりのインパクトを与えた時間であったのは事実だ。

大震災、戦争、テロ、殺人、、、、限りない人間の矛盾が渦巻く現実の中で、それでも人は生きていかないとならない。確かに従兄弟氏の孤立無援は誰にでもあてはまる環境だ。そういう意味では人生とは厳しくもありまた寂しいものでもある。それでも、たとえば従姉妹たちとの会話から、また彼女らと一緒に食べた郷土料理から、早朝の珊瑚が死滅したと思われた海辺の白砂から、そしてこの世に私を出してくれた亡き父母との魂の邂逅、結論が出ぬまま逝ってしまった叔父との葛藤、、、、様々な不条理からも一筋の力のようなものを確信したことも事実である。ともすれば、観念に走る性格が強い私には、今回の旅は自らの精神性の再確認でもあったように思える。私は空間的精神性と言ったが、現実的に自らが生きる場を物理的に措定するということではなく、敢えて言えばバガボンドとしての自らの存在の再確認であり、それはまた現実との真摯な向き合いの中でしか生まれてこないという、当然といえば当然の必然的真理でもある。

またいつか島を訪れる日まで、亡き父母へ合掌。。。。

 

平成27年10月25日

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新自由主義・好戦派の矛盾と気候変動問題

安倍政権が安保法案制定から経済政策へと目くらまし的方向転換を行っていますが、世界経済が一気に軍事需要に向けて走り出す、ということは好戦派がいくら仕掛けたからとて、それほど簡単ではないでしょう。そのような観点から見れば、温暖化対策を楯に排出ガス規制で軍事活動を縛るという考えもあります。実際、1997年の京都議定書採択時にも軍事活動規制が論点となった事実があります。好戦国のアメリカ(に限りませんが)は、もしこのような国際協定が結ばれると手足を縛られる状態になるので、もちろんこれには猛反対しました。その結果、翌年1998年のCOP4では、①航空機・船舶燃料、②国連憲章による多国間軍事行動は規制の対象外となりました。新自由主義と好戦派はイデオロギーの根底で結びついており、彼らにとって「地球温暖化が人類を脅かしており、対策が不可欠であると認めてしまえば、新自由主義イデオロギーはそれで終わり(ナオミ・クライン)」です。何故なら、「政府の介入はすべて悪であり、すべての規制は撤廃すべきだ」という教義が根底から崩れることになります。温暖化懐疑論の科学的な議論とは別に、このような意図から懐疑論を振りまいている一派もいるので、懐疑論の議論も注意して見る必要があります。このような動きに対して、地球温暖化阻止を掲げるいわばリベラル派の動きも、既存システムの枠内での転換という範疇を出ていない「痛みを伴わない転換」として先述のナオミ・クラインは「排出権取引」を批判的に捉えていますが、それは道理と言えます。しかし、今の世界は片方に「道理」がありもう片方に「無理」があるという悪しきハイブリッドシステムの中にあり、その矛盾を戦争や例えば今回の安倍政権のような議会無視という態度に出らざるを得ない状況にあります。いずれにせよ、このような矛盾状況がいつまでも訳ではなく、必ずや破綻が来ることでしょう。聞くところによれば、このような矛盾を「人類浄化」という思考で世界システムを変えようとしている、という恐ろしい話もその真実味を考えざるを得ません。気候変動をすべて温暖化に集約する誤謬、と言って問題ならば課題を踏まえつつも、「人類の存在の保障」をその大きな目的に掲げるならば、既存システムそのものの転換を図る方策へ大きな転換を図る必要があります。先月国連安保理で行われた議論で、「軍事解決の困難」さが浮き彫りになり、同時に国連の存在に対しても疑念が出て来ましたが、気候変動の問題を単にそこに限定するではなく、例えば安保理とCOPとの連携と言った枠組みの創出も考えられるのではないか、と思います。12月には、COP21パリ会議が始まりますが、難民問題を抱える欧州にとってもその解決の糸口の一つとして、パリ会議での前述の軍事活動を排出ガス規制で再度縛る工夫の議論など、新鮮かつ刺激的な会議が望まれます。