『大菩薩峠』と八王子

今年は、DAIGOエコロジー村のある八王子が市制100周年を迎え、いろいろな催しが企画されています。東京オリンピックを見据えたスポーツクライミングのワールドカップも東京都では初と言うことでエコロジー村近くの総合体育館で5月に開催されるようです。知名度は全国区であるものの中味を問われるとなかなか的確なイメージを描写できない八王子ですが、目線をちょっと変えてみると意外な話題も提供してくれそうです。ご存じ中里介山の『大菩薩峠』。その36巻「新月の巻」に八王子の炭焼について記した部分があります。とりあえず介山が書いたそのままをちょっと記しましょう。
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「八王子在の炭焼はまた格別な風流でござる」
「炭焼?」
「阿呆いわずときなはれ、江戸で炭が焼けますかい」
安直兄いがたしなめると、ダニの丈次が、
「でも、八王子から出てきた炭焼だが、釜出しのいいのを安くするから買っておくんなせえと門付振売りに来たのを、わっしゃ新宿の通りでよく見受けしやしたぜ」
「ではやっぱり、江戸でも炭を焼くんだね」
「炭焼き江戸っ子!」
「道理で色が黒い!」
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「君たち、まだ若い、そもそも武州八王子というところは、なめさんも先刻言われた通り、新刀の名人繁慶もいたし、東洲斎写楽も八王子っ子だという説があるし、また君たちにはちょっと買いきれまいが、二代目高尾と言う吉原きってのおいらんも出たし、それから君たち、いまだに車人形というものを見たことはあるめえがの------そもそも・・・・」
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とその後、八王子にまつわる人物名が、鬼小島靖堂・鎌倉権五郎影政・尾崎咢堂・塩野適斉・桑原騰庵・近藤三助・落合直文など、私も知らぬ名前が結構出て来ます。圧巻は徳富蘆花を芋虫呼ばわりしている個所です。
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「君たち、八王子八王子と安く言うが、そもそも八王子という名前の出所来歴を知るめえな。・・<略>・・そもそも八王子と言う名は法華経から来ているんだぜ。法華経のどこにどう出ているか、君たちいっぺんあれを縦から棒読みにしてみな、すぐわかることだあな。ところがものを知らねえ奴は仕方のねえもんで、近ごろ徳富蘆花という男が、芋虫のたわごとという本を書いたんだ、その本の中に、ご丁寧に八王子を八王寺、八王寺と書いている。大和の国には王寺と言うところはあるが、八王子が八王寺じゃものにならねえ、蘆花と言う男が、法華経一つ満足によんでいねえということが、これでわかる・・・・」
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介山が八王子の炭(案下炭)をこのような形で”評価”してくれたことは素直に嬉しいですね。東洲斎写楽八王子説も写楽自身が謎に富んだ人物でもあり、信憑性はともかくも話として面白いです。また花魁高尾太夫は十一代までいたようですが、二代目は仙台高尾といい、陸奥仙台藩主伊達綱宗の身請け話を「他に好きな男(間夫)がいるから」と袖にしたために惨殺された、という話があります。小説『大菩薩峠』は未完の長編で、登場人物の彷徨いをモチーフにしているという指摘もありますが、八王子と言う町は今昔、流浪の民或いは漂白民が彷徨った町ではないか、と言う気がします。こう言う私も自称彷徨人ですが、彷徨人であるプライドを捨てることなく住むことが出来る町が八王子の目に見えない魅力なのではないか、と最近よく考えます。人間の業を30年にかけて描こうとした中里介山ですが、まだ読了に及んでいない彼の『大菩薩峠』を今年は一年かけて読んでみたいと思います。