世界の矛盾

■<導入(起)>「世界唯一政府」か、「多様・多極分散型政府」か!

 前回「破壊と創造」について書きましたが、世界は「破壊と創造」だけではなく、同時に「統合と分裂」というベクトル軸も働いています。「分裂」と「破壊」、或いは「統合」と「創造」はそれぞれ感覚的には似ている類似語のようですが、その本質は全く違うものです。アリストテレス的に言えば、「破壊と創造」は質料(的)であり、「統合と分裂」は形相(的)です。アリストテレスは質料と形相について、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と述べましたが、私の解釈では、“形相こそ存在の本質”、即ち肉体ではなく魂(精神)こそが存在の本質と言えるものです。そのような観点から見れば、トランプ現象、或いは英国のEU離脱も、その底流にあるものは、まさに質料と形相の関係と言えます。トランプ現象を嘆く側は「統合」に解決を見出す輩であり、逆にトランプ現象を積極的に評価する側は「分裂」に解決を見出す輩です。しかし、どちらも精神的な闘いを行っている、と言えます。「人類の平和」という究極的な理念に向かって人間は進んでいる、というヘーゲル的解釈を歴史進展の基本とするならば、「統合」も「分裂」も相互に転倒(しながら進展)する関係、言い換えれば、相互に主語と述語になる関係です。ポジとネガ、陰と陽、+と-、男と女、、、、、、全てが主語になり得るし、また述語になり得るものです。すなわち、今の世界を記述するならば、世界政府を目指すのか、多様・多極な分散型政府を目指すのか、の闘いが行われつつある、ということです。人間は目が身体の前にある限りは前進するしかありませんが、どちらに転ぶにせよ、我々一人一人に突き付けられた“宇宙の神”からの根源的問いなのです。

■<展開(承)>「科学技術」という“宗教”を乗り越える「新たなルネッサンス

 世界は有史以来、「善」と「悪」が相互に入れ替わる歴史を刻んできました。中世ルネッサンスキリスト教(会)への疑問を投げかけ、そこにカオスが生じてあらゆる価値観が一斉に飛び出した時代です。その中の最も大きな価値観の結果の一つである「科学技術」を伴った産業革命はこの中世ルネッサンスの歴史脈略の中の出来事であり、また併行して様々に展開された「人間精神」としてのもう一つの大きな価値観の哲学的論争を経て出て来たものが、「資本主義」と「(科学的)共産主義」という二項対立、その結果として「ソビエト崩壊」、そして「資本主義の矛盾」というのが今日の世界の状況です。このことから私は、人類は今また新たなるルネッサンスの時代に入った、と思えてなりません。それは、中世ルネッサンスが乗り越えようとしたものが「宗教」であるとすれば、現代ルネッサンスが乗り越えるべきものも、まさに「科学技術」という名の「新たな宗教」ではないか、と思えるのです。「遺伝子組み換え」、或いは「AI人工知能」、また「再生細胞」、、、、、ありとあらゆる科学技術の“進歩”の中で、しかし、片方で「原発核兵器」「温暖化・環境破壊」「貧困・格差」も同様に“進展”しています。あまりにも「科学技術」を無原則に信奉する社会は、己の内面性としての精神世界までも科学技術という媒介を通してみるようになりました。確かに、科学技術は我々の感覚を飛躍的に伸ばし、知識という不可視の力を得ることができました。しかし、ガリレオ・ガリレイが視覚を物理的に拡大させた望遠鏡で地動説をゆるぎないものとしその延長に人類は電波望遠鏡で宇宙の限界(と人類が思っている)を知る一方、「マンハッタン計画」を見るまでもなく、我々の知識は人類を破滅させる数々の手段をも手に入れました。本来であれば、これらの科学技術をコントロールするはずの理性は、カネという仕組みを合理的(科学的)に媒介させうると信じる市場論理に翻弄されているではありませんか。人間は自らの内面の本当の理性の声を聞くことなく、「科学技術」という教義を標榜する国家という現代の教会の僕となっているのです。

■<逆転・転倒(転)>

 中世ルネッサンスと新たなルネッサンスの共通点は何か!言い換えれば、なぜルネッサンスなのか(でなければならないのか)!この問いは非常に根源的です。率直かつ反射的に解答するならば、それは「人間の回復」です。自らの内面にある声を自らが聞くことなく、「科学技術」を駆使した大きなメインシステム或いはサブシステムからの外部入力によって自己を構築している現代社会は、人体そのものの改造であり、いわばまさに“新人類”の出現の黎明期に差し掛かっていると言えます。まさに形相(精神)から質料(肉体)への逆転、即ち質料に従属する形相という状況が起きています。一方、現代の状況を、また世界を物理的観点ではなく、社会的観点から見た場合、まさに逆転現象の坩堝に陥っていると言えます。どういうことか!「親が子を殺す或いは子が親を殺す」「平和と言って戰爭を起し戦争に飽きて平和を唱える」「民主主義、人権と言いながら格差・貧困を生み出す」、、、、全てが言説の中で始まり、イメージが結果となる。そこには本当のリアリズム、まさに血と肉のリアリズムではなく、イメージのリアリズムしかありません。見よ!毎日流れるニュースの後に付け加えられる「株価」と「為替」。すべてイメージの産物ではありませんか!

■<決(結)論或いは解題(結)>

 今世界は大いなる歴史的矛盾の中にあります。グローバリズムを唱える国家というものをどう思われるだろうか。グローバリズムの本質は統合であり、国家の本質は分裂(分散)です。分かりやすく言えば、グローバリズムは結果として「世界統一政府」を思考するイデオロギーであり、国家は「独自性」を主張するならば、結果として「多様性」を認めるイデオロギーを持たなければなりません。片方で「TPP」という統合を唱えながら片方でアナクロな「明治憲法」という分裂(分散)を持ち出す安倍晋三氏の矛盾はまさにここにあるのですが、彼が中途半端或いはまったくゼロセンスの持ち主であることから、ある種のベール、意味不明を世間が受け入れざるを得ない、という側面があります。彼が、そうではなくて聡明且つ合理的な人物であれば、彼の言説と行動の矛盾はすぐ見破られるハズです。そういう意味では、彼は現代と言う歴史を代表する申し子(或いは鬼っこ)かもしれません。

さて、今回の決(結)論をそろそろ述べなければならないところに来ました。私の決論は、グローバリズムと国家が共に共存できる仕組みが必ずある、という確信です。それは、使い古された言葉ですが、「競争ではなく共生」というイデオロギーです。敢えてイデオロギーと言います。もし、AI或いは科学技術をその根本において認めるならば、「競争ではなく共生」のアルゴリズムを作れるハズです。そして「人間・人体改革(改造)」ではなく「人間・人体回復」であるならば、或いはそれを望むのであれば、「身の程を知る」空間と時間を作ることから始めれば良いのです。「身の程を知る」とは「自らが自らを自らによって知る」ということです。「イメージ」ではなく「リアリティ」としての己を知るということ。透明な無機質の情報だけが流れる人体ではなく、文字通り、血が流れ、肉でできた人体を通して思考するということ。そのような思考はある意味土着的なものです。肉体を通した精神がしっかりと思考する空間と時間に支えられた場所。

 はじめの議論に戻りましょう。トランプの一国主義、英国EU離脱、欧州各国或いはカナダにおける地域独立運動の勃発、日本における沖縄・北海道独立論、、、、などなど、分裂(分散)の動きをもっともっと加速させなければなりません。我我が固執する近代国家なるものはまだわずか200年足らずの秩序でしかありません。「世界唯一政府」的世界への志向と思考を拒絶し、「多様化・多極化分散型政府」への移行と意向を強化する方向へ踏み出す勇気を持つことを強く提案して、拙文に筆を置きます。

※<あとがき>

頭の中でぐるぐると回るものを文章にすること、言葉にすることの難しさを感じます。矛盾を描きその中から真理を掴もうという努力は有史以来数多くの賢者が行ってきましたが、彼らの意思と意志を受け継ぎまた次世代へ受け渡すことが、リアリティに生きる我々の根源的義務であるとすれば、それは一部学者、政治家、科学者、哲学者、宗教家だけのものではなく、この世に生を受けたありとあらゆる人々、それはすなわち私でありあなたであるという単純かつ当たり前な理屈に到達しました。そしてそのような私とあなたが存在できる空間と時間とはどのようなものなのか、が本稿を記述する主目的でした。この試みは今始まったばかりです。そういう意味では「始まりの始まり」と言える本稿です。

   ≪低炭素ニュース&リポート12月号投稿より≫