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奄美・沖縄「独立論」の裏にあるもの

またもや沖縄で起きた米軍による殺人事件。いつになったら「沖縄問題」は解決するのか。果たして「解決」とは一体どのような状態を指すのか。頭がうまく回らない中で何とか考えてみようと思い書いた。
■支配権力側の視点
沖縄返還から45年が経った。同じ敗戦により、奄美・小笠原も連合軍(実質米軍)の占領下になったが、奄美は1953年12月、小笠原はその15年後の1968年6月に返還されている。奄美が比較的早く返還されたのは、戦後の新たな国際関係の緊張(朝鮮戦争ベトナム戦争)が、沖縄・小笠原に軍事戦略的に重要な位置付を米国(米軍)に与えたからだ。周知のように、米国(米軍)は占領後沖縄の強引な土地収奪により、対ソ連、中国をにらむ基地づくりを急激に進めた。この時点での国家としての日本は、敗戦国と言う立場から表面上は「なすすべがない」状態であったのだが、敗戦後の連合国側の内部対立が占領国である米国(米軍)の立場と思考を微妙に揺るがせ、敗戦国日本の戦後処理をいろいろな場面で矛盾させた。それは例えば東京裁判における天皇の責任問題の忌避であり、また「全面講和・単独講和」論の背景にある沖縄の半永久軍事基地化(サンフランシスコ条約3条)である。というのは、少なくとも占領直後の米国の意思は、沖縄は「日本帝国主義から支配された少数民族」であり、日本からの「解放」と将来の「独立」を目指すべきである、というものだったが、東西冷戦の勃発は米国内の意見対立(国務省と米軍)を徐々に生んでいき、当時のマッカーサー司令官解任はその一端でもある。このような戦勝国側の思惑と不統一は、占領国米国の日本に対する「アメムチ策」によって、いわゆる売国的CIA要員としての政治家や官僚、実業家等をコントロールしながら日本を自国に有利に活用するという戦後日本の対米従属構造を形成していく発端となるのだが、コントロールされた側の連中がそのことを積極的に逆利用する「新国家再建」を思う“国士”なのか、或いは自己保身と裏切りの買弁なのか、その正体は現在も「自由民主党」という隠れ蓑の中にうごめいているのである。ついでに言えば、戦後の沖縄と日本を実質動かしているのは米国ではなく「米軍」である。
奄美・沖縄人民側の視点
さて、このような支配権力側の視点ではなく、被支配民衆の側どのように思っていたのだろうか。いわゆる「独立論」と「復帰論」及び「(米国)属州論」に現れる民衆の側の対応を論じたい。占領直後、米軍は奄美・沖縄を大きく二つのエリアに分け、奄美沖縄本島を北琉球宮古八重山群島を南琉球として、この4つの群島単位での軍政府を設置し統治するという方針であり、占領後の各地域の在り方夷ついては地理空間的にも各群島での個別の動きが現れることとなる。少なくとも「民主制導入」を掲げる米軍政府としては各地域(群島)における政治活動を最低限であれ認めない訳にはいかず、群島ごとに地域政党が組織されることになる。以下にその概要を示す。  
奄美群島>   
・「奄美共産党」(非合法)1947年 ・・・独立論(反米)から復帰論   
・「奄美大島社会民主党」1950年 ⇒「琉球人民党」大島地方委員会1952年・・・復帰路線
 <沖縄本島>   
・「沖縄民主同盟」1947年 ⇒「共和党」合流1950年・・・独立論(反米)から復帰論  
・「沖縄社会党」「琉球社会党」1947年 ⇒「社会党」1947年・・・独立論(親米)   
・「沖縄人民党」1947年 ⇒※「奄美社会民主党」合同 1950年・・・独立論(反米)から復帰論  
・「共和党」1950年 ⇒解散1952年・・・独立論(親米)  
宮古群島>   
・「宮古社会党」1947年(1949年解散)・・・独立論(親米)   
・「宮古民主党」1946年(1950年解散)・・・※自治論   
・「宮古青年党」1947年(1948年解散)・・・※ユートピア論   
・「宮古自由党」1949年⇒「沖縄社会大衆党」合流1952年・・・※民政府与党  
八重山群島>   
・「八重山農本党」1946年(1948年解散)・・・※農本主義   
・「八重山労働党」1946年(自滅)   
・「八重山民主党」1948年 ⇒「琉球民主党」合流1952年・・・※民政府与党   
・「八重山人民党」1948年(「八重山自由党」改称1950年)・・・※民政府野党
この一覧からもうかがえるように、占領直後の奄美・沖縄における人民側の意識は幅広い。しかし、それは戦後の混乱状況から「どうしてよいかわからない」「とにかく生きること」という目の前の切実な欲求が最優先していることは想像に難くなく、同じ「独立論」或いは「復帰論」でもその方向性についてはそれほどまとまったものではないだろう。海を隔てられている条件の中で相互の行き来もままならないまま、異国人の占領という状況において、冷静な独立論或いは復帰論が討議され醸成されるはずはないが、逆に言えば、「とにかく生きる」という本能的な底力が、上に示したような多彩な地域政党が現れる要因でもあった。それに加え、中世を始原とする大和・薩摩による支配、明治維新における琉球併合等の力関係の歴史が奄美・沖縄人民の意識の底に「(占領を)大和支配から離脱する機会」と捉える発意としたことも間違いないだろう。一方、「民主化」を注入しようとする米国政府は、特に沖縄の若い知識人を米国留学させる制度を発足させ、沖縄内部からの「民主化」を図ろうとする。この留学制度には後の沖縄県知事大田昌秀もいた。しかし、日本帝国主義による一方的な戦争駆り立てと陰惨な敗北、そして最初は「解放軍」としての姿勢も垣間見せながら、国際情勢を背景に急激に占領政策の方向転換(日本民主化→防共の砦化・半永久基地化)が、奄美・沖縄人民を結果として「独立論」から「復帰論」へ総意として転換集約させていく。またこの段階で一定の評価を得ていた「属州論」も徐々に消えていく。このような動きに、当時の奄美・沖縄のあるべき方向について政治的或いは精神的にもヘゲモニーを持っていた左翼勢力側も当初は米国を「解放軍」として評価し、一部においては信託統治の導入を肯定し、そこから独立を図るという意見も見られたが、「祖国復帰」という路線を明確にしていく。左翼勢力側には、東西冷戦と言う国際状況を背景にした、日本共産党内の路線対立も「独立論」「復帰論」へ大きな影響を与えたことは否定できないだろう。奄美・沖縄の知識階級は歴史的に或いは民族的に左翼の影響が大きく、現在にいたっているのだが、今においてもこの「復帰論」の総括はされておらず、沖縄における基地を巡る様々な問題に対するある意味その責任の一端を(左翼は)担っているといえる。
■歴史を構成する要素
さて、奄美・沖縄の占領直後の状況を私なりに整理してみたが、現実はこのように単純に言えるものではない。この世に生きる一人一人の人間の意識と行動は合理的でもなければ機械的でも無く、さまざまな不条理の積み重ねの上に歴史の表層として、米国、米軍、天皇、官僚、政治家、実業家、革命家、、、、そして人民と、その大小にかかわらず、全ては歴史と言う大海の中でそれぞれが思惟し判断した結果として様々な事象が現れるものである。アナーキスト大杉栄の論文『主観的歴史論-ピヨートル・ラフロフ論』の中に、歴史を構成する要素として「三個の範疇」の区別を述べている。すなわち、①過去の遺物 ②特殊の時代相 ③将来の萌芽である。何のことはない、単に「過去」「現在」「未来」を言葉を変えただけではないか、と思う向きもあるかもしれないが、上述した様々な対象はこの3要素を内部に持ち、そのそれぞれの強弱とともに、対象同士の相互の関係性(たとえば米国と天皇、官僚と米軍、革命家と人民、、、、)相互の活動が複雑に絡み合って歴史は作られていく。そういう観点からすれば、現状において、米国政府の①②③、日本政府の①②③をかなり的確に見分けられるように思える。と同時に、沖縄人民自身も自らの①②③を積極的に自覚する必要があるのではないだろうか。戦後70年、そして「復帰」後45年を経ようとしている今日、消えたかに見えた「独立論」がにわかに浮上してきた歴史的な意図が果たしてどこにあるのかを、占領直後のいまだに解明されていない「復帰論」へ傾いた経緯の検証が必要に思えるのである。
■追記
上述の説明に唐突に大杉栄を持ち出したのには訳がある。「復帰」した奄美において過去一つの小さな事件があった。時は少し遡り、1926年(大正15年)の6月15日の大阪毎日新聞の一つの記事だ。見出しは『薩南の孤島に大杉栄の碑。一周忌に建てたもの、このほど発見される』である。少し長いがその全文を記す。  
「大島諸島の中の一孤島、遥かに太平洋に面した百尺余りの断崖に建てられていることをこの程、鹿児島県大島郡東方村字蘇刈に漕ぎ着け、大杉の為に心ばかりの追悼会を催した上、同所に建てて引き上げたもので、碑は高さ二尺あまり、表面にローマ字で、大杉栄のOSと刻み、“西暦千九百廿四年九月十六日追悼碑”と、日本文字で刻まれている(東京発)」
この記事で、鹿児島県議会は紛糾したことが奄美市の資料に記述してある。(『名瀬市誌下巻』)この大杉栄に影響を受けた奄美の若者たちの中の一人の武田武市等が建てたものだ。武田は奄美アナーキストとして当時の奄美における薩摩(鹿児島)圧政に敢然と闘う。その武田の娘の井上邦子氏は今でも健在だが、亡き父の精神を受け継ぎ、占領後の奄美復帰運動を長く戦った一人だが、井上氏によると奄美における大杉栄の碑の話を大杉と伊藤野江の4女の伊藤ルイにも伝えたそうだ。奄美・沖縄を巡る歴史の大きな物語の中にも、このような小さくはあるも人間存在の根源を示してくれる物語があるのである。私個人としては、奄美人として今でも「奄美独立」を観念ベースではあるが保持している。今、政治的にもまた歴史的にも転換点を迎えようとしている「沖縄」の問題を人民サイドからの文字通り主体論として「復帰」した「日本」とは何者か、「独立」とはどこから、そして誰からの「独立」なのか、を明確にする必要を感じている。
※参考資料
奄美の奇跡』(2015年WAB出版)
『新たに発見された沖縄・奄美非合法共産党文書』(2001年大原社会問題研究所