『文学の責任』

標題の『文学の責任』は1957年、高橋和巳のエッセーから取ったものだが、このエッセーは高橋が25歳の時の作品であり、新進気鋭の小説家として売り出す直前の観念作家としての思いがあふれんばかりのアジテイションとも言えるものである。そこでは、西洋東洋の哲学、古典からの引証をベースに彼自身の意識と思考が決意にまで高まる、文字通り「文学の責任」に対する縦横無尽な切込みが表現されている。しかし、わずか150枚程度の中編論ではあるが、これを読みこなすにはまだ当方の知識のみならず思弁そのものが相当足りないことから、現時点でこの論の理解とそれに対する批評・論議はまだ私には不可能と思える。しかし、この論で高橋が言いたかったことは、「文学の責任」とはとりもなおさず『(・・・文学者は・・・)いわば精神の危険物をあつかう職務ゆえに、全面的に己の発言に責任を負う必要がある』(河出書房『文学の責任』P44)のであり、また『・・・まさに文学は、人間の根源的な認識論操作であるゆえに、戦争責任だけではない、人間の精神にたいして、まっさきにそれを問われてしかるべき責任性をもっている』(〃P48)のであるから、『行為は、言語に照明され、意識は存在に裏打ちされる。行動の随伴現象として心理はあり、心理が決意となったとき、行為が必然的にうまれる』(〃P59)ものだ、ということである。すなわち、「表現(認識)と実践の一致」こそが「文学の責任」と喝破した。

さて、長々と高橋和己の論を引用してしまったが、本論はこの「文学の責任」を具体的な事例で考えてみたいと思ったからだ。いまから、20年前の1995年、本多勝一が『大江健三郎の人生-貧困なる精神X集-』を出し、大上段で大江健三郎をメッタ切りにしたことを覚えているだろうか。その本の帯には、「体制にも反体制にも「いい顔」をする処世術、ノーベル賞作家の偽善を徹底的に追及する!」と何とも刺激的な言辞が書いてある。それは、下衆な表現をすれば、その前年(1994年)の大江のノーベル賞受賞をきっかけに、本多が大江に売った喧嘩でもあったわけだが、本多の言わんとしたことは、大江の言行不一致とその「狡猾さ(本多)」ということだった。少し説明すると、1982年に大江を始めとする文学者関係者数百人規模の署名による「核戦争の危機を訴える文学者の声明」に対して、当時日本の核武装を積極的に進める月刊誌『諸君』などを発行していた文芸春秋社から幾冊もの本を出していた大江に対する本多の疑念から始まった論争でもある。その経緯は彼の本を読めば、本多が論点とともに詳細に記述してあるのでそれに譲るとする。ところで、今般の「戦争法案反対」の運動における大江の“活躍”を私は素直に受け止めたのであるが、しかし、少しの違和感を感じたことも事実だ。一言で言えば、大江健三郎は本当に体を張ってまで「法案阻止」を体現するのだろうか、という疑念だ。私は、彼の「持続する志」を高校時代に読み感銘を受けたものだが、今回の戦争法案における大江の行動もその延長上にあるとみていた。しかし、ふとした疑念が先述の本多の著書を思い出し、読み返したみたのだ。少しわかったことは、本多はジャーナリストであり、あくまでも「現実」からのアプローチであり、そこには「リアリズム」が絶対的な価値観を持っている。一方、大江のような文学者は「現実」ではなく「虚構」からのアプローチであり、そこでは「想像」が働く世界である。「想像」は「虚偽」と同一ではないが、その可能性を含むものであり、リアリズムから見ると疑念が湧く要因の一つとも言える。しかし、本多は大江の小説は一冊も読んでいない。とはっきりと答えたうえで、大江をそれでも非難しているのは、大江の倫理性を問題にしているからであるが、この論争は結局は双方半端に終わり、現時点では過去の面白い話程度にしかなっていない。ここでは、この論争の是非を問うのではなく、冒頭の高橋和己の「文学の責任」という問題にもう一度立返り、「表現すること」の「責任」を考えてみたいと思ったからだ。あるいみでは、これは文学者のみならず、表現媒体の進化、特にインターネットの普及はそれこそ「一億総言語表現者」ともなっている現状から見れば、われわれ一般人にも「表現すること」の「責任」という課題は今後重く大きな問題となるのではないか、という思いがある。それとともに、これこそ重要なことだが、相対的に政治家の表現・言辞の軽量化と無責任さが益々明らかになりつつある、ということだ。便利なシステムが人間の存在を根本づける価値観である「言語表現」の「無責任」さを拡大させるものとすれば、ここで一度たちどまり、「言うことの責任」の在り方も考えてみたいものだ。

<補論>

『文学者の責任』は高橋和巳が自らの内面に問いかけ、自らが答えた50年も前の論評にもかかわらず現代に通じる普遍性をもっていると思える。また本多が敢えて刺激的に提起した「大江健三郎」も人間の内面に起点を置けば、やはり普遍的なものとして捉えることが可能だ。もう一つ、高橋和巳が重要なことを言っている。それは「読む(んだ)側」にも「責任」が発生するということである。そこにおいては、「知らなかった(ことにしよう)」とか「無視」「無為」ということは「無責任」ということであり、とりもなおさずそれは『人間の物化』に他ならない、ということだ。政治家の言辞を「知らなかった」「どうでもいい」と言う態度で受け止めることはまさに自らをモノと化すことに他ならない。