「10月17日米国デフォルト」とバラク・H・オバマの歴史的存在理由

10月17日のいわゆる「米国破綻(デフォルト)」に向けて、米国内では民主党と共和党のつばぜり合い、内外でもかまびすしい報道合戦が展開されている。メディアは一様に「これでは世界経済が崩壊する」「日本にも悪影響」などという論調が主であり、シリアの時もそうであったが、オバマ政権担当能力への否定的意見も結構見受けられる。しかし、「米国がデフォルトになる(或いはする)かどうか」、という問題は投資家や株購入者などの直接利害関係者には目前の危機として重要な問題であろうが、もう少し歴史的視点文脈から見ていく必要があるように思える。

歴史的に見るという場合、その起点をどこに置くかでそこから見える世界(概念)はそれぞれ異なって見えてくる。(遠近法的視点)そのような観点を背景に、「なぜオバマが大統領になったのか」という一つの問を突破口に考えてみたい。

オバマの歴史への登場は、2004年の大統領選(共和党ジョージ・ブッシュ民主党ジョン・ケリー)を控えた民主党大会基調演説の抜擢である。なぜ、オバマが(基調演説に)採用されたのか、という細かな要因についてはここでは問わないが、無名のアフリカ系米国人で、イリノイ州議会議員でしかなかった人物が、突如2004年7月、その格調高い演説で全米デビューを果たしたという“事実”をまずは認めなければならない。

この記念すべき基調演説の中で、オバマはこう述べている。

 

「・・・・自由主義者アメリカというものはない。保守主義者アメリカというものはない。そこにあるのは、ただアメリカ合衆国である。黒人のアメリカというものはない、白人のアメリカというものはない、ラテン系アメリカというものはない、アジア系アメリカというものはない。そこにあるのは、ただアメリカ合衆国である・・・・」

 

これこそ、オバマの根本的政治理念であろう。この演説のわずか4年後、まだ一州議会議員でしかない若い政治家が米国史上初めてのアフリカ系アメリカ人の大統領になったのである。

オバマの登場について、ワシントン・ポスト紙の政治コラムニスト、E・J・ディオンは「時代の流れは、経験ではなく、変革を必要としていた。選挙演説で最も重要視されたのは、細部の知識ではなく、人々を夢中にさせることだった。単に古き良き時代に戻るのではなく、過去ときっぱり縁を切ることが、公約として最も高く評価されたのである」と書いているが、まさに米国自身が根本的な方向転換を必要としている時にオバマは突如現れたのである。

今回の医療保険制度をめぐる民主党・共和党の“ガチンコ”は制度上の表層的な論争ではなく、文字通り、これからのアメリカをどこへ導くかの血みどろの闘争である。伝統的な保守と伝統的な自由(リベラル)という二大政党制の米国は、大戦後から冷戦終結を経て、政治思想的潮流に分化が表れてきた。いわゆる強硬派「ティーパーティ派」は共和党内の分裂要因であり、一方民主党ブルーカラー支持層とホワイトマラー支持層の分裂が顕在化して来ている。

したがって、米国におけるこのイデオロギーをめぐる分裂は単なる政治権力闘争ではなく新しい国の在り方を問う根本的、革命的色彩を帯びていると言っても過言ではない。しかし、世界帝国の王者として君臨してきた米国が、途上国のようなある意味単純な政権交代で国の在り方を変えることは不可能である。現実的には、イデオロギーに複雑に絡む利権構造(軍産複合体)の存在がある。

このような状況に置いてのバラク・H・オバマの登場はまさに歴史的必然と言ってよいだろう。彼の資質について興味深いエピソードがある。法科大学院オバマの同級生だったカサンドラ・バッツは、ニューヨーカー誌のラリサ・マクファーカーにこう語っている。

「バラクには、一見矛盾する複数の事実を統合して、首尾一貫したものにする驚異的な能力がありました。その原点は、家庭では白人に養育される一方で、外の世界に出れば黒人として見られる、というところにあったのでしょう」(ニューヨーカー誌)

これこそが、オバマの現実的な政治資質である。また、先述の2004年の演説で彼はこうも言っている。

 

「私は、私の受け継いだ多様性に感謝し、私の親の夢が、私の大切な娘たちに引き継がれていることを知って、今日ここに立っています。」

 

彼は「多様性」という言辞を良く使うが、それは政治理念でもある。このようなオバマの態度が、外から見れば一見「優柔不断」「ヘビ男」などと揶揄される一つの要因でもあるが、このような論評が全く的外れであることは「木を見て森を見ない」議論と同じある。

さて、このような状況の中で一体オバマはアメリカをどこへ導こうとしているのだろうか。

そのヒントは2004年の演説の中からもう一度探ることができるかもしれない。少し長くなるが読んで頂きたい。

 

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★「我々はここで、盲目的な楽観主義を述べているのではありません。見て見ぬ振りをすれば、失業問題が去り行くとは思っていません。話題にしなければ、医療保険問題が解決するとは思っていません。それは、意図的なの無視です。そうではありません。私は、今、もっと本質的な何かについて話しているのです。

その希望は、奴隷がたき火を囲み、自由を歌った時のものです。

その希望は、移民たちが遠くの海岸を目指し、旅立ったときのものです。

その希望は、若き海軍大尉が勇敢にメコン・デルタをパトロールしたときのものです。

その希望は、製粉労働者の息子が、ありがちな自分の未来に反抗したときの希望です。

その希望は、おかしな名前のやせっぽちの子どもがアメリカには自分のための場所もある、と信じたときの希望と同じです。

なんという大胆な希望でしょう!結局、それは我々、この民族の基礎となっている神の最も素晴らしい贈り物なのです。

目に見えない信念、未来はもっと良い日々である信念とは。

私は信じています。

我々が我々の普通の人々に対して、救済を提供することができると信じています。

日々働いている家庭に対して、チャンスへの道を提供することができると信じています。私は信じています。

失業者に対しては職を与え、ホームレスに対しては家を与え、アメリカの都市にいる若い人々を暴力と絶望から救い出せることを、信じています。

私は信じています。

我々が歴史の岐路の上に立つとき、我々が正しい選択をして、そして我々がそれに立ち向かうという挑戦ができると信じています。アメリカよ!」

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<追記>

オバマの歴史的出現の必然性は“構築”でもなく“破壊”でもなくはやり「転換」であると思う。世界が一極から多極化へ動く流れの中で、「差異と統合」という矛盾すべき難題に真っ向から立ち向かえるのは、やはり「多様性」を武器と出来るオバマの肉体的、精神的混血性(ハイブリッド)ではなかろうか。日本人がこのような世界の流れの中で、「わが道を行く」という蛸壺性で果たして立ち向かえるのだろうか!

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=hNlkMJnbvhU