余命1か月

さてこのような文章を書くことを当初ためらったのであるが、思うところあり書くことにする。

昨日の夜、真の兄弟のように付き合う従兄弟から電話があった。時々会っていることもあり、「また何か用でもできたのだろう」という軽い気持ちで応答した。しばらく無言。そしてその後「、、、あと3か月の命と言われた、、、」という涙声の従兄弟の声を耳にした。唖然、そして絶句である。どう言い返せばよいのかわからずまま、こちらも無言になってしまう。頭の中で、従兄弟の伝える言葉の真実と真意を自問自答する。その間、わずか数秒程度のことだろうが、やっと「どういうことだ」と切り返す。「日曜日に胃がちょっと痛くなり、病院で検査入院したんだ。そして今日その結果を告げられた。すい臓がんで胃まで浸食され、どのような処置ももう効かない段階ということだ」と咽びながら従兄弟は答える。私は、「そんなことないだろう。何かの間違いだろう」と慰めにもならない、勝手な願望の言辞も会話の流れで話したような気もするが、「とにかく明日、病院へ行くよ」と返すのがやっとだった。電話を切った後、頭の中で従兄弟との出会いのさまざまな場面がフラッシュライトのように浮かんでは消え、何とも言えない重苦しい気分に見舞われ、その晩は寝付けぬままに朝を迎えた。「あって何をどういえば良いのか」、朝からその事ばかりが頭を離れない。従兄弟と約束したのは午後5時だ。東京では彼の親族は私しかいないこともあり、「担当医の話を聞いてくれ」と従兄弟が病院側に要請したとのこと。病院へ向かう車中でも、「どういう態度が彼を傷つけないことになるか」「もしもの場合、どのような段取りを(私は)取るべきか」「余命3か月という期間にできること、しなければならなことは何か」ということばかりが頭を巡る。頭の中では、私は「余命3か月」という従兄弟への宣告を私自らへの宣告のように感じながらも、また「(従兄弟は)私に何を要請するのだろうか」という身勝手な不安も同時に湧き起る。また、「死」というものを無理やり冷静に捉えようと、目線は車中の乗客の全てを追いながら「(乗客の)彼らもいつかは死ぬ。誰でも。それは早いか遅いかだけだ。」と必死に考えようとする。そのようなあらゆる感情が入り乱れる状態のまま、病院の前でしばし立ち止まること数分。意を決して意図的に明るい声で、「病室はどこだ」従兄弟に電話する。従兄弟に教えられた病室へ足を運びながらも、彼の顔を見ることに耐えられない気持ちは未だに続いていた。病室で寝ている彼に声を掛ける。思ったより、落ち着いた感じで答える彼に、私の不安は少し消え、何とか普通に振る舞う。談話室で従兄弟と二人きりになり、私は普通に「気分はどうだ」と聞く。従兄弟は「大丈夫だ」と答える。どう切出せばよいか、私は少し逡巡しながらも「医者の見立ては医者の側からの見立てでしかない。彼ら(医者)が我々の生命を完全に司っている訳ではない」などと理屈をいう。彼はそれにうなずくとも心ここに非ず、という感じだ。と、突然彼が泣きだし、私の手を取って、「あとをよろしく頼む」と何度も何度も頭を下げる。私も一緒に泣きそうになったが、従兄弟の負けん気の性格と気質を知っている私は敢えて冷静を装い、「わかった。大丈夫だ」と答える。そのようなやり取りがあった後、担当の主治医の話を聞くことになる。主治医は若い。まだ30代後半ぐらい私の息子の世代だ。従兄弟が(症状説明を)頼んだからだろうか、彼(主治医)は、従兄弟に「昨日と同じことしか話しませんよ」と、言いながら私に、従兄弟のカルテの画像を見せ、CTスキャン画像、MRI画像などに写る諸患部の説明を坦々と行う。そして、「早ければあと1か月しかもたない」と、ハッキリと言う。癌の告知について、このようにストレートに、しかもまるで車の故障を説明するような口調に相当な違和感を覚える。私は、その時何故か急に冷静になり、主治医に対するある種の敵愾心も手伝い、「なるほど、わかりました。先生のおっしゃることに多分間違いはないでしょう。これから先は医療を超えてあと残りの人生をどう生きるか、ということから考えないといけないということですね。ただ、あと1か月と言うのは、個人によってかなり差があるのではありませんか」と、私と従兄弟は普通とはちょっと違う人生を歩んで来ているということも付け加えて、軽く質問を投げる。彼は答えた。「精神力で何とかなるというものではありません。気持ちも行ったり来たりをくり返すでしょう。これから多分痛みが徐々に増して来ます。治療は麻薬しかありません」と。その時、部屋には主治医と私と従兄弟の他に担当の女性看護師の4人がいたが、死刑宣告にも等しい非常にヘビーな会話にも関わらず、本当に坦々と事務的に進んでいく。一瞬、なにか演劇中の人物になったような錯覚にとらわれ、従兄弟に対して「とにかく残された時間内にできることをやろう」と声を掛ける。彼も私と同じように、さも劇中の主人公のようなうなづきをしたように見えたのは、しかし、私が実はそう思いたかった意識下から出た感覚だったかもしれない。主治医との話は20分ほどで終わる。主治医の一貫した助言は身体が動くうちに身辺整理を済ませ、仮に故郷へ帰るのであれば早いほどよい、ということだった。彼はこのような症例に若いながら結構付き合っているのだろう。彼にとっての対患者マニュアルに沿った言動に見える。従兄弟に病室で別れを告げ、帰りの車中は少し気持ちが軽くなっていたのは何故だろうか、と考える。死へ赴くものへの生者としての申し訳なさなのか、或いはアリバイ作りか。

事態はまだ進行中である、、、、、、、。

現代社会の様相

少し政治的な話になります。多分誰もが、今の日本の状況について不安をお持ちでしょう。株価や円相場などの指標がいくら「高景気」を叫ぼうと実感としての「不景気感」は相当なものです。安倍首相は「国粋主義」を唱えながら、片方で米国への従属を世界に先駆けて率先しています。その安倍内閣では、多くの閣僚がその発言や行動が普通であれば辞任当然にも拘らず平然としています。いわゆる「森友学園問題」では、どうみても明らかに不正があるにも関わらず、国会における追求と議論は期待外れに終わっています。一方世界に目を向けると、トランプ大統領出現で「一国主義」に向かうかと思われた米国が、過激に軍事力を突出させ、「すわ戦争か」と脅かしながら、片方で交渉を行うチキンレースを行ています。フランスでは、「いまや右翼も左翼もない。あるのはグローバル対愛国」とルペン氏が述べ、国が真っ二つに分断されています。イギリスでは、「EU離脱」問題が結論が出たにもかかわらず未だにくすぶっています。

 さて、このように今の日本そして世界の状況を見てみると、「矛盾」したことが何故か堂々とまかり通る現象が続いています。このような状況についてさまざまな分析がなされてますが、どれも的を得ているようで、しかし釈然としない説明ばかりです。そしてそのように「わかりにくい」からこそ、「分かりやすい」説明が求められます。既存のマスコミはその「わかりやすさ」を提供する大きな存在です。その様な流れの中に「ヘイトスピーチ」或いは「北朝鮮有事」「憲法改正」などが次々と簡略化された記号の様な形式で説明されていきます。すべてが単純化された関係として、たとえば「政治」と「経済」、たとえば「宗教」と「科学」が、そして「戦争」と「平和」が語られます。その語りを保証する役割が「専門家」です。

 ここまで書いて気付いたことがあります。現代社会は、モノゴトを「自らが考えない」社会になってしまった、ということです。「自らが考えない」ということは、「私」という”主体(サブジェクト)”を”客体(オブジェクト)”化しているということです。グローバル化による社会システムの一元的統一化が、本来なら多様性と差異性に富むべき「個人」をそのようにしているのかもしれません。心理学にシステムⅠ(無意識・本能)、システムⅡ(意識・理性)という考えがありますが、ある心理学者によれば、システムⅡは「問題が簡略化されればされるほど人間は受け入れやすい」、という解釈があります。「理性が単純化されている」という表現なら分かりやすいかもしれません。冒頭にあげたいろいろな例を本来的な「理性」で思考すればもっと矛盾は解決するはずなのに、単純化された「理性」の思考がそれを阻み、結果として益々「矛盾」が深まっていくという不合理な繰り返しが行われている社会が今の社会と言えます。

 しかし、人間はそもそも機械ではなくそのように単純化された存在でもありません。人間が自らの中で本来ある「複雑さ」と外部からの「単純化」せめぎ合っているのでしょう。「不安」の要因はそのようなことから起きて来る現象と言えます。ロボット或いはAI(人工知能)に大きな期待と興味が膨らんでいる姿は、人間自身が益々「単純化」を目指す方向へ向かおうとしているようにも見えます。多分、その行き着く先には「全体主義」がゆっくりと顔を出して来るのでしょう。

 さて、皆さんの「理性」は果たして「単純化」されていませんか!如何ですか? 

<DAIGOエコロジー村通信5月号より>

当事者という意識

本号(会報4月号)の扉の「今月の断章 ワガコトとして(オイラーからラグランジュへ)」は非常に示唆に富んでいます。情報化社会の進展は、いつの間にか「思考する」ことから「選択する」ことに重点を置く社会となりました。それはシステムと言っても良いくらい我々の生活の隅々に入り込んでいます。「選択」は絶えず自らを客体化させることから始まります。「選択する”主体”」があるから主体的行動のように見えますが、日々の外部情報の波によって主体性は本来の自己を失い、その失った自己を「選択する」行為で「自己(と思われるもの)」を確認するという図式は、まさに現代社会システムにおける人間行為のプロトコルとなっていると言えます。抽象的言い方になりましたが、簡易に述べれば「当事者意識を失っている」と言っても良いでしょう。「当事者意識」を失えばそれは単に「主体無き客観性に身を任す(三島由紀夫)」しかありません。テレビに映る悲惨な画像を、酒を飲み食事をしながら視て、「反戦」や「平和」を訴えたり、時の権力や政府を非難する。弁舌豊かな或いは劇場的な感情移入の豊かなコメンテーターや、キャスターの語りが彼らの当事者意識を代弁してくれる。「今月の断章」でいうオイラー式とは「第三者的評価記述」であり、ラグランジュ式とは「当事者的評価記述」のことです。  国文者の蓮田善明(1904-1945)と文学者丹羽文雄(1904-2005)の逸話は今回のテーマを如実に物語ったものです。丹羽文雄は『海戦』という小説を書いていますが、彼(丹羽)は海戦の最中、弾が飛んでくる最中でも懸命にメモを取り、その戦闘の様子を描いた『海戦』を発表した時、蓮田は、〈本当の戦争〉を見ろと丹羽を非難しました。彼(蓮田)はこう言いました。「丹羽は戦ふべきだつた。弾丸運びをすればよかつたのである。弾丸運びをしたために戦闘の観察や文学が中絶してしまふと考えることも誤りである。弾丸運びをしたために或る場面を見失ふだらう、しかしもし弾丸運びをしたとしたら、そこに見たものこそ、本当の戦争だつたのである。」(蓮田善明「文学古意」)丹羽が当事者意識を捨て、「客観的な事実を冷徹に見る精巧なカメラ(三島由紀夫)」となっていたことに、文学者としての本当の在り方はどうなんだ、という鋭い問いかけでもあった訳です。戦争のような極限状態でなくとも、このようなシチュエーションは日常的にも見受けられるものでしょう。例えば、今問題となっている「森友学園」における首相夫人付き人においても「(法治国家における行政担当者としての)当事者意識」があればあのようなことは起きなかったのではないかと思われます。  「選択プロトコル」の社会システムが進めば進むほど「分業化」は並行して進んでいき、それはまさに「自己」の断片化であり、断片化されたピースをさらに選択することで再構成された「自己」とは果たして何でしょうか。幼少から外部情報にさらされ、与えられた情報を「選択する」技術を「教育」と称する社会から生まれてくる人間とは。どうすれば「当事者性」を持った思考ができるのか。 簡単な様で結構難しい問題です。

<低炭素都市ニュース&レポート4月号より>

女猟師”狩りガール”

八王子恩方地域も通年のように「害獣駆除」が行われています。土日になれば猟銃を持ったハンターがアチコチに出没、時にはエコロジー村敷地内や三太郎小屋敷地内でもイノシシを追っています。農作物に被害をもたらすことで、農水省の発表によれば2015年度で農作物被害金額は、合計で191億円。主要な獣種別の被害金額はシカが最多の65億円。次いでイノシシが55億円、サルが13億円となっているそうです。しかし、これらの野生動物に対処するための管理捕獲をする猟師は高齢化が進み、環境省の発表によれば、平成25年度において狩猟免許保持者は全国で185000人、うち60歳以上が123000人とおよそ66%を高齢者が占めています。そこで大日本猟友会は女性をターゲットに特に若い女性を対象とした「目指せ!狩りガール」というWEBマガジンを開設したところ、高い反響を得ました。2015年の10月に開催された「第3回狩猟サミット」の参加者は、32都道府県から総勢177名が参加、このうち女性の参加者が46名(25.9%)を占めたそうです。ちなみに女性の猟銃免許保持者は平成25年度で2037人います。

 このサミットの模様を取材した日経ビジネス誌はこの女性猟師ブームについて、「狩猟女子の本やブログを見ると、東日本大震災がきっかけとなったという人もいます。見ると普通のかわいい女の子たちですが、自ら捕らえたイノシシやシカの皮をはぎ、飼っている鳥を絞め、解体し、料理して食べ、皮をなめす。体験をもとに狩猟や解体のワークショップを開催する人もいます」(日経ビジネス2015年10月号)と報告しています。

 これらの女性に猟師を目指す動機を尋ねたところ、「農作物への鳥獣被害を減らしたい」(福井県高浜町町議会議員の児玉千明さん(25))「シカ肉が好きなので、自分で獲って食べてみたい」(女優杏さん(31歳))「地域貢献の一つ」(北海道初山別村村役場勤務の吉田百花さん(23歳))「狩猟は命をいただく仕事。その意義や魅力を伝えたい」(奈良女子大大学院1年の竹村優希さん(23))と動機は様々です。目的(動機)とともに、狩猟そのものの魅力については、「自然の中を皆で駆け回って、獲物を分かち合う瞬間に幸せを感じる」(山梨県猟友会青年部の勝俣麻里加さん(25))「仕留めた瞬間が爽快」(北海道白糠町松野千紘さん(25))「撃ち損ねたシカと目が合うと、悔しさと闘志がわき起こる」(大阪府門真市の国見綾子さん(28))「たくさんのヒトの理解と動物の命をいただくことで成り立っている文化」(網・わなの狩猟免許をもつ長濱世奈さん(27))「ただの殺生と違うからこそ精神性がとても大事」(兵庫県朝来市の吉井あゆみさん)「命を頂くことで私たちは自分の命をつないでいる」(川崎市木こり系女猟師、原薫さん)「殺生を誰かがやってくれているおかげで肉を食べることができるんだと実感」(東大阪市の会社員、藤崎由美子さん(46))、、、、とさまざまな感想を述べています。

 これらの狩りガールに共通する通過点として「何故生き物を殺すのか?」という質問を必ず受けるそうです。先述の木こり系女猟の原薫さんは、初めて獲物を仕留めたときのことを「目が合いましたね。しばらく見つめ合っていましたよ。仕留めたときはうれしさ半分。あとは、ああ殺しちゃったなあって」と述べ、「今でははっきりと言えます。命に差はないと。食肉用で飼育される豚や牛と、山の中を歩き回る猪や鹿。どちらも同じ命なんです。その命を頂くことで私たちは自分の命をつないでいる」と信念を持って言えるそうです。

 先日、埼玉県越谷市の皮革工場を見学する機会に恵まれ、およそ4時間ほど皮のなめし工程から原皮製品になるまでを視察しましたが、ご案内を頂いた㈱ジュテルレザーの沼田聰会長からも「命を頂いている」「皮革製品になっても(皮は)呼吸している」というお話を頂きました。人間と動物の関係は古代から続いていますが、人間と動物の間の命のやり取りを一方的でなく双方が「命を繋ぐ」という感覚・感情を忘れてはならないでしょう。それにつけても人間同士の間こそ命の扱いの粗末さが目立ってきていることを改めて思う次第です。 

<DAIGOエコロジー村通信4月号より>

玄関でしゃべらせろ!

「森友問題」を見ていると「言葉(言語)」の持つ“いい加減さ”が見えて来るのだが、逆に言えば、「言葉(言語)」とは相当に奥が深いものだ、という風にも感じられる。世界のあらゆる存在のうちで、「言葉(言語)」を使うことでその存在を支えているのは人類のみだが、その存在の根本には「言葉(言語)」と「肉体(行為)」という二つの要素があり、そのどちらも主体にもなり得るし客体にもなり得る関係にある。歴史的に見れば、デカルトの「コギト(われ思うゆえにわれあり)」以後の人間社会がそのことを顕在化させた。デカルト以後、人間は「行為」と「言葉」の関係の様々な解釈を経る中で、その社会を今日まで進展させてきた、と言えよう。人間がこのような「言語」と「行為」の狭間で思い悩む様を、西洋もたとえばキリスト教、東洋もたとえば仏教、において「徳にいたらぬ存在」として描いており、そこに宗教がその宗旨(道徳)を滑り込ませることで「真実」という概念を構成している。一方、「法」は「事実」という概念(「事実」と「真実」は違う)を入れ込むことにより「正義(「真実」とはまた意味が違う)」という判断価値を行う分けだが、いずれにせよ、人間が人間のことを「信ずる」という行為は相当「怪しい」ものだ。とはいえ、ここで話を終えると、私自身が自らをこの現実社会からエスケープさせることになり、いくら趣味で「炭焼」をやっているからとはいえ、まだ“山中の仙人”になる訳にはいかず、まだまだ世迷人として「何が真実か」を探し歩くことを止める訳にはいかない。
 ということで、「言葉を弄する」というテーマの禅の公案の話を取り上げてみる。これは『雲門関(うんもんのかん)』という禅の名言の一つだ。唐の頃、ある坊さんが90日の説法の終わりに弟子たちに「仏法は誤って説くと眉やひげが抜け落ちるといわれているが、ワシの眉毛はまだ生えているか?」と問うた。すると弟子の一人は「賊をなす人は心虚なり(泥棒のようにビクビクしながら言葉を使い、真実を説くのが仏教者だ)」と答えた。もう一人は、「眉毛は確かに生えている(正しく説けばそれでよい)」と答えた。すると、雲門文偃(うんもんぶんえん)と言う禅師はただ「関(かん)!」とだけ答えその場を立ち去ったという。この公案の答えのヒントは「関(かん)」だが、“関”とは「玄関」の“関”のことだ。玄関とは家の入口のことだが、その由来はもともと入口ではなく、玄とは“玄妙”即ち、道理、根本の教え、真理の道と云う意味で、玄関とは玄妙なる道に進む関門、つまり仏門に入る入り口、般若の妙門であり、幽玄な神秘宝蔵の関門を意味した言葉である。禅寺では、客殿の入口にこの「玄関」という文字が掲げられ、「ここから先にはそう簡単には入れぬぞ!」という、いわば悟りの関所というのが「玄関」の本来の意味である。
「関!」と答えた雲門禅師が言いたかったことは、「言葉はどこまでも言葉でしかなく、どれほど多言、多弁を弄しても真実を伝えられるとは限らない。このように、言葉とはなかなか真実を超えることができないがそれでも超えていかないといけない。ならばどうするか!それは言葉が仏法を“体現”することしかない」ということだ。陽明学王陽明もこの公案をよく用いていたということだが、「言葉が仏法を体現する」とは、文字通り「言葉と行動の一致」ということだろう。「真実」に至る道はただ一つ。「言葉の体現」であり、それは「行為としての言葉」でなくてはならない、ということだ。
「森友問題」では、安倍晋三稲田朋美籠池泰典松井一郎など多彩な登場人物が多言、多弁を弄しているが、彼らの言葉の意味を観るのではなく、「言っていること」と「行為」の一致或いは矛盾だけを観るだけでよい。そこに「真実」がある。言葉を弄する職業である政治家にはどんどんしゃべらせることが真実への近道である。最後に、先述した禅の公案に引っ掛けるとしたら、玄関先のインタビューは結構効果があるように思える。記者諸君、組織、独立問わずジャーナリスト諸君は、是非「玄関先インタビュー」を心掛けてもらいたい。

正直ということ

森友問題における籠池泰典氏と、係ったと思われる政治家(或いは官僚)を比較すると「正直」という観念の実体が赤裸々に見えて来る。バイアスのかかった報道だけを通すと、籠池氏は「常識はずれのアナクロな人間」であり、森友問題とはそのような非常識な籠池氏個人が起こしたものという、今流行の言葉で言えば”印象操作”が行われている。個人的な事を言えば、65年も生きていると、自分自身も含めて誰もが、人生において「意志と行動における不一致或いは矛盾」という経験を持つものだが、しかし人は一般的に誰しも、自身の根本的価値観の部分でのそのような不一致・矛盾は、例えば何らかの外部強制が無い限り殆どそれは無いように思える。ちなみに、意図して不一致或いは矛盾を起す者のことを世間では「詐欺師」と言う。そのような視点からこの間の一連の籠池泰典氏を見てみると、「意志と行動の一致」がかなり見られる。悪く言えば「確信犯」であるし、良く言えば「正直者」ということだ。籠池氏の信念は封建時代のママであり、あのような教育理念を持つことは彼にとっては非常に自然なことだ。ただ、そのような彼自身に「封建的徳」が本当にあるかどうかはわからないが、「正直」ということに限って言えば、「ある」様に見える。或いはそれは単に彼の一本気な性格なのかもしれないが、、、。翻って、彼に関わったと思われる政治家或いは官僚の言動及び行動はまさに不一致と矛盾のオンパレードであり、しかも非常に意図的である。先述の「詐欺師」という表現がぴたりと当てはまる。ほとんどの国民は、森友問題に関わったと思われる政治家或いは官僚の慌てふためきやドタバタの醜態を見ることで、「怪しい」と感じている筈だ。普通「怪しい」と言う感覚は対象者における「言動不一致」時に湧き起るものだ。いくら取り繕ってもボロは出る。森友問題は、先週金曜日に籠池氏が「理事長辞任」で一旦コトが収まったかのような印象があるが、”正直者”の籠池氏は、「また開校認可申請を出す」と明言している。彼の意思からすれば当然だろう。籠池氏の開校への意志は相当に強い。その背景には、正直ながらも民主主義的価値観に欠ける籠池氏が信じて疑わない「仲間」と思っている安倍政権があるのであり、彼は未だに自分がその詐欺師政権から利用されたことを認識してないようだが、これも彼が「正直」なせいだろう。籠池氏は私と同世代と言うこともあり、彼のような人間は結構存在している。価値観は全く逆であるが、人間存在の根本的な場面において、私は彼を支持するものである。期待することは、彼があくまでも彼の意思と理念に基づいて、今の態度を崩さず堂々と「開校再認可申請」を貫くことによって、詐欺師政権の矛盾と犯罪性が暴露されることだ。野党の追及は何故かどうも手ぬるく、期待が持てない。籠池氏が持つ教育理念の善し悪しの価値判断はまた別のものとして、安倍詐欺政権の言動不一致が、実は全く低次元レベルの利権とカネまみれの品性の無いものであったことを、籠池氏自身が明らかにすることができる可能性は十分あるように思える。私がその一つの根拠と思える動画がある。独立ジャーナリストの菅野完氏が籠池氏に独占インタビューした動画だが、籠池氏が話す政治家との関係の内容の衝撃性とともに、テレビ報道からは読み取れないありのままの籠池氏の人間性も垣間見えてくる。秀逸な動画コンテンツだ。必見である。


・籠池泰典氏緊急独占インタビューby菅野完
https://www.youtube.com/watch?v=nL-...


<追記>森友のような案件では、これまで必ずや原因不明の死者が何名か出たものであるが、籠池氏がその対象とならないとは限らない。彼が中途半端な対応をしていたならば、そのようなことが起こったかもしれないが、敢えてマスコミに自らをさらけ出したことの要因の一つに彼なりの生命に関する自己防衛策があるのかもしれない。

森友疑獄の裏で進む国土売渡しの謀議

安倍政権の根底を揺るがすような森友疑獄問題がクロースアップされている中で、3月7日に水道事業の民営化路線を進める「水道法改正案」が閣議決定されました。ほぼすべてのマスコミはこのことを報道していませんが、政府は国民の生命確保の基礎中の基礎である「水」を外資に売り渡す「水道事業<完全>民営化」路線への足固めを決めつつあります。「水はただ」とほとんどの日本人が思っている豊かな森林資源を持つ我が国の貴重な財産がまたもや、グローバリズムビジネスに売り渡されようとしているこの問題の本質を知る必要があります。 森友学園は「教育の民営化」路線であり、小泉政権から続く歴代政権は民主党政権も含め、全ての政権が「規制緩和」「民営化」路線を目指して来ました。しかし、米国大統領選、或いはイギリスEU離脱の根底にあるものは、「ナショナリズム復活」という表層的なことではなく、各国国民がグローバリズムビジネスによる「国民の財産の収奪行為」に気づき始めたことが大きな要因の一つです。
 森友問題の黒幕の一人、麻生財務大臣(当時副総理)の発言(2013年4月)は具体的に「水民営化」と「教育民営化」について言及しています。彼は、CSIS(米戦略国際問題研究所)で、「日本経済再生に向けた日本の取組みと将来の課題」というタイトルでスピーチを行い、その中で、「日本の国営もしくは市営・町営水道は、すべて民営化します」と発言しています。同時に「いわゆる学校を造って運営は民間、民営化する、公設民営、そういったものもひとつの考え方に、アイデアとして上がってきつつあります」と述べています。
 日本の水事業(上下含む)に関する資産規模は120兆円で道路・港湾・空港・交通などのインフラ規模合計185兆円のうち、実に65%を占めています。TPPもそうでしたが、日本国民の財産を「外資」に売り渡す、或いは「民営化」という名のもとに、「国土」を「売り渡す」行為について、我々は「すべてはカネ(が大事)」という思考からどうやれば抜け出せるかを真摯に考えないといけないところに来ているように思われます。