「近代国家」を乗り越える思考

思考の突破(ブレークスルー)は「現実を疑うこと」で可能になる。トランプ現象へのさまざまな反応を見ていると、現象(事実)の追随或いは事実を絶対前提条件とする思考しか見えて来ない。ここで言う事実とは、一つは「トランプが大統領になる」ということだが、もう一つ、あらゆる反応が「近代国家というものを絶対視する」ことから思考が始まっているということだ。「民主主義の危機」を叫ぼうと或いは「自由主義の危機」を嘆こうと、そこには「近代国家」という絶対的前提条件がある。

 近代以降、政治も経済も二つの世界大戦と二つのイデオロギー闘争を経て、「グローバル化」という国境を超える世界を創造するかに見えたが、「近代国家」という存在を超えるどころか、世界はいままた「国家」という枠組みを強調する動きに反転したように見える。しかし、実は「グローバル化」と言われたものは、「資本の自由化」ということであり、「カネ」に国境を付加する「関税」の撤廃を目指す「近代国家」と言う存在が改めて浮き彫りになった。この「近代国家」が目指すものが「世界の統一」であるならば、論理的には国家自身が自己否定の動きをするべきなのだが、彼らの動きは真逆だ。TPP或いは米国におけるNAFTAなどの自由貿易圏構築は、「近代国家」が企業の負託を受けて動くまさに企業の代理人化している実態を示した。EUの統合が理念としての「国家統合」を掲げながらも、欧州市場の創設という資本の論理の要請がその動機の中心であったことは、ドイツの独り勝ちとイギリスの離脱という結果を見れば、EUの各国家も企業の代理人としての役割を優先させていることは一目瞭然だ。

 さて、しかし、このような言説は旧聞に属する話であり、改めて確認する必要もないのだが、今回の「トランプ現象」の一つの定説的説明として、「グローバリズムVS反グローバリズム」或いは「エスタブリッシュメントVS反エスタブリッシュメント」、「保護主義VS自由貿易主義」挙句は「民主主義VS全体主義」というステレオタイプの論調に覆われているが、そこには「近代国家」という存在そのものに疑問を投げかける論評は皆無だ。考えてみれば、近代の世界の枠組み、或いは世界秩序の最小単位は一人の人間(個)でもなく、ある民族(種)でもなく、当然人類(類)でもない。それは共同幻想に集約された「近代国家」という一つの人工的な組織である。「近代国家」が前言の資本の代理人という役割と同時に、「国民」という共同幻想を振りまく装置という二面性を持たざるを得ないことの理由は、資本の論理が対象とするものがまさに人間そのものだからであり、言い方を変えれば人間がいない資本というものは存在理由がなくなる。資本の論理に見合う(適合する)人間集団を作ることが「近代国家」の役割でもあるのである。

 ところが、「国家の論理(ナショナリズム)」と「資本の論理(キャピタリズム)」は根本的に矛盾がある。すなわち、「国家の論理(ナショナリズム)」の最重要課題は自国の繁栄・発展であり、また他国との関係は自国を発展させるための手段(利用・搾取)であり、自国の発展の脅威となる他国はつぶすことになる。一方、「資本の論理(キャピタリズム)」にとって最重要課題は利益を得ること、利潤を最大化することであり、国内投資より国外投資先が利益が出るのなら、資本は遠慮なく効率の良い国へ動くことになる。仮にそこが自国にとって脅威になる国であろうが資本はその動きを止めない。それは、最近の日本と中国の関係をこの視点からみれば一目瞭然だ。近代に入りそのような「近代国家」が取った行動は、「資本の論理」と「国家の論理」が共にかみ合う侵略或いは植民地支配による「帝国主義」としての直接行動であったが、先述の二回の大戦が、そのような「帝国主義」的行動を規制するようになり、一見、「国家」による協調路線が世界を支配するようになった。それは国際連合であり、IMFであり、WTO、或いはCOPでもあり、またTPP、NAFTAでもある。その協調的動きはソ連邦崩壊により、加速度を増していき、いわゆる「グローバル化グローバリズム)」を招いた訳だが、しかしその本質はキャピタリズムによるナショナリズムの下僕化であった。イギリスのEU離脱は、まさにキャピタリズムに対するナショナリズム側の反動として起こったことであり、今回のトランプ現象も「資本の論理」と「国家の論理」の蜜月の破綻とともに、両論理の根本矛盾の露呈、対立としてみることができるだろう。

 さて、話を最初に戻すと、米国大統領選で、民主党のバニー・サンダースは1:99の論理から貧困・弱者側からの立場での反キャピタリズムを説いたが、しかし、それは「近代国家」を否定するものではなかった。それは彼が指名競争から敗れたのちヒラリー支持に回ったことでも明らかだ。現在の世界の陥っている状況の源流として、この二つの論理の矛盾があるにもかかわらず、一方だけの解消で矛盾が解決することはあり得ないだろう。しかし、トランプはこの二つの論理の矛盾を世界協調を目指す「近代国家」ではなく近代以前の古き良きアメリカの「一国主義」というある意味でウルトラC的思考転換で勝利したと言える。論評ではトランプ現象を単なる古回帰、或いは彼独特の個性から「全体主義」「独裁主義」などという表層的なものが圧倒的に多いが、トランプ個人の思惑はどうであれ、トランプ現象というものがその底流に「近代国家」の否定を含意するものであることを見抜く必要があるだろう。皮肉にもトランプのような反動主義者がある意味革命的な結果を作った訳だが、反トランプ的進歩派と言う存在があるとすれば、それは容易に想像できる層ではあるが、「近代国家」という縛りをとき解く思考を持たない限り、彼らの望むべき思いは益々遠ざかるを得ないだろう。「近代国家」とは世界的に見てもアメリカ、ヨーロッパ、日本を問わずまだ150年~200年前後の歴史しか持たない仕組でしかない。そのような仕組みに固執することは歴史発展においても停滞或いは障害以外の何物でもない。

創造と破壊をくり返す歴史

 アメリカ大統領選挙結果については我が国のマスコミ、SNSなどあらゆる領域、階層から様々な評論が飛び交っています。ヒラリー(当選)を想定内として期待していた向きには相当なショックの様です。それは現政権支持派だけでなく反支持派においても共通な認識も見受けられます。それぞれの候補者の言辞や人格、それらに連なる様々な組織、ネットワークなどの思惑が絡んでいると思います。トランプのタカ派的、差別主義的性格を以て批判の対象とする「システム変更派」もいますが、大概に言えば、現秩序(システム)を維持するのか、そうでないのか、ということです。トランプ自身が「世界を変える」と言った訳ではなく逆に「国内優先」策を遂行しそうですが、今回のトランプ大統領誕生については、もっと大きな歴史のうねり現象として見ていくことの方が的確のように思います。
 歴史は線形的に進展するのではなく、カオスや複雑性を含む非線形的な流れであり、現実における個的な変化が歴史上の大きな変化を生んだ事例は数多くあるでしょう。もう一つの歴史進展の特性は「創造と破壊」という現象面があります。我々の日常世界も常に「創造と破壊」の繰り返しですが、歴史上においても「創造の時代」と「破壊の時代」というものがあるようです。しかし、創造と破壊は個別に断続して起こる訳ではなく、いわば創造的破壊と破壊的創造というインターフェイスを伴うと言えますが、この観点から今回の「トランプ大統領誕生」を「創造」とみるか「破壊」とみるか、また彼の実行する施策が「創造的破壊」策なのか、「破壊的創造」策なのか、どちらにしても、歴史が大きく動く要因としての今回のアメリカ大統領選挙は位置づけられるのではないでしょうか。 

 一言付け加えれば、歴史をこのように客観的に俯瞰することは文字通り頭の中の「想像力」であり、実体として存在する例えば私たち自身は、歴史上の主体的存在でこそあれ、他人事のような客体にはなれません。自分自身の身の回りの小さな変化、それは破壊かも知れないし創造かも知れない、そのような変化に対する自らの意志こそが重要なファクターとなるでしょう。表層的に「システム維持勢力」に回るにせよ「システム変更勢力」に回るにせよ、歴史を作る主体としての意志を自ら認識し、そして行動することこそが、「歴史の創造」へつながるということです。破壊から創造が生まれる時は、古いものと新しいものが激しくせめぎ合い、大きな苦痛も伴うものです。特に古いものが死に至る最後の断末魔の状況は想像を絶するものがあるでしょう。アメリカ国民も日本国民もそしてヨーロッパ、ロシア、中国、そして世界中がこのカオス状況、「創造と破壊」の時代へ突入したことを深く認識すべき時が来たように思います。

炭焼党員の恋 

18世紀末から19世紀初めにかけて、イタリア統一前のナポリ王国に炭焼党という秘密結社が誕生した。この頃のイタリアはまだ複数の小規模王国が強力なオーストリア帝国に支配されていたが、時はフランス革命を経てナポレオンがその勢力を伸ばしている頃、その秘密結社は、この革命の影響を受けた自由主義思想の人々によって構成された。彼らはカルボナーリと呼ばれ、党員は自らを炭焼人としてお互いを秘密裏に識別しながら「イタリアを外敵から救う」運動を展開した。ところで、今日の話しはこの炭焼党の話ではなく、フランスの小説家、スタンダールが書いた『ヴァニナ・ヴァニニ 炭焼党異聞』の中の話である。スタンダールは『赤と黒』や『恋愛論』など、人間の内面を独特に描写する書き手だが、特に男女間の不条理にも彼の視点はあるように思う。さて、ストーリは、ヴァニナという社交界の絶世の美女が、炭焼党の脱獄囚の若者のピエトロ・ミッシシリと恋に陥るがその顛末が実に哲学的に味わい深い物語となっている。ヴァニナはその美しさから数多くの貴公子に言い寄られるが、彼女の気を引く男はなかなか現れない。ある時の社交界である貴公子から「あなたのお気に入る男は,いったいどんな人間だかきかせていたけませんか。」という問いに「その脱走したという若い炭焼党員でしょう」と答えるが、その後、図らずも父がその炭焼党脱走者を邸宅に匿っていることを知り、衝撃と感動を受ける。その炭焼党の脱獄者ピエトロも若者として、瞬く間にヴァニナへの恋心が芽生える。ピエトロはヴァニナに「祖国解放」を熱く語り、「祖国解放の為ならばこの命を捧げても惜しくない」と話すが、その熱く語るピエトロの言葉と瞳にヴァニナは、他の貴公子には無いものを感じ、益々魅かれていく。ヴァニナにとっては、ピエトロの「祖国解放」への熱情と自らへの恋の熱情は同じものとして最初は受け取るが、ピエトロが自分より祖国解放運動の方へ傾きつつあることを知るうちにヴァニナの心の中で葛藤が始まる。一方、ピエトロも「革命運動」と「恋」の間で悩む。ある時、ピエトロを首領とする炭焼党はローマ政府への反抗蜂起を企てる。ピエトロは言う。「もしこの計画が成功しなかったら、今度こそおれはいよいよ祖国を捨てて行くんだ」と。これを聞いたヴァニナはピエトロの名前だけを消した蜂起メンバーの名簿を政府にこっそりと渡す。ピエトロの言葉をヴァニナは彼女に都合の良いように解釈したのである。そしてピエトロだけが助かり他のメンバーはすべて処刑されたことからピエトロは深い自責の念で自首する。ヴァニナにとっては、ピエトロの自首は想定されていなかったが、彼女はピエトロを処刑から救うことに彼女自身のピエトロへの裏切りへの自責を清めるためにも奔走する。牢屋でヴァニナと対面したピエトロは、「私がこの地上で執着するものがあるとすれば、ヴァニナ、それはもちろんあなただ。だが、神様のおかげで私は生きている間、一つの目的しかなくなった。この牢屋で死ぬか、さもなければイタリアの自由を救うためにはたらくか」。このピエトロの言葉にヴァニナはピエトロの気持ちを振り向かせる最後の望みを掛けてこれまでの裏切りを一部始終告白する。しかし、この告白を聞いたピエトロは「この、人でなし」「おのれ、人非人、おれはお前のようなやつに何一つ恩に着るのはいやだ」という言葉を投げつけ、ヴァニナが渡した脱獄用のヤスリとダイヤモンドを投げつけるのだった。物語は、その後ヴァニナはある公爵と結婚したことで終わっている。
さて、ピエトロの情熱とヴァニナの情熱の違いは何であろうか。一気に「男と女の違いさ!」などと旧聞に付すような一般的結論に急ぐ必要は無いが、「祖国愛」という社会的情熱と「自己愛」或いは「自尊心」という個的情熱、権力の側に位置する女と反体制の男、実に様々な要因が考えられるが、「恋愛論」にも深く思考するスタンダールはこの短編小説で何を言いたかったのだろうか、という問いとともに現代における「男と女」の在り方の問題としても面白い題材のように思える作品である。 現代的解釈はそれとして、スタンダールが敢えて「炭焼党」という具体的な存在を題材としたことは、スタンダール自身が炭焼党の支持者であったと思われることや、『ヴァニナ・ヴァニニ』の副題には、「法王領において発見されたる炭焼党最後の結社に関する顛末」となっていることから、この当時のヨーロッパに吹きすさぶ革命の嵐の中での恋愛への考察を行ったのではないか。しかし、スタンダール自身が恋愛の情熱と社会的情熱とをどのように考えればよいか、結局この小説においてはその回答を出すことは出来なかったのだろう。彼は恋愛についてこう言う。『自尊心の恋は、一瞬にして過ぎ去る。情熱恋愛は逆である。』ヴァニナもピエトロも結局は自尊心の恋だったのだろうか!
小説は岩波文庫復刻版『ヴァニナ・ヴァニニ』で読める。興味あるかたどうぞお読みください。2時間もあれば読了できる短さだが、提起している”課題”は永遠の解けない問題でもあるようです。

低炭素社会と豊洲問題

東京の豊洲市場問題が連日マスコミを賑わし、ネット上でも政治的、経済的、社会的視点からの意見が様々に飛び交っています。「低炭素社会」の創造を儚い力ながらも目指している私たち研究会にとっても、豊洲問題は直視しなければならない問題であるという認識はあるのですが、現在焦点となっている「安全・安心」というテーマは「低炭素社会」における最も基本的な問題と思われるにも関わらずこの問題にどこから切りつけて行けば良いのかがなかなかわからないというジレンマに陥っているというのが正直なところです。そこで、豊洲関連の資料をいろいろ調べている中で、江東区から『豊洲グリーン・エコアイランド』という”低炭素まちづくり計画”に突き当たりました。この計画の元になっているのは『都市の低炭素化の促進に関する法律(略称:エコまち法)』です。本計画は 六つの視点と防災という観点から豊洲開発の基本方針を述べていますが、「安心・安全」の視点はその5という項目で「安心安全な市場の整備により信頼向上を図ります」というタイトルで「商品管理システム化」「省資源・リサイクル化」「豊洲ブランド創出」という空虚な方針が3点述べられているのみです。その他の項目についても綺麗な言葉が飛び交ういつものパーターンですが、共通しているのは、「土壌問題はない」という前提であくまでも上地(土地利用)に焦点をあてた計画となっていることです。同法律は国交省管轄であり、土壌問題は環境省管轄であることから、国交省環境省問題に口を突っ込む立場にはないということでしょうが、「低炭素社会」はこのような官僚的思考、或いは分業思考で成り立つものではなく、自然的存在である日々の人間の活動がそのベースとならなければならないはずですが、今の社会を動かすシステムの根本的誤謬を見るような気がします。ちなみに、「低炭素社会」のバロメータとなっている地球温暖化と土壌との関連については、植物の光合成への影響を語るのみで土壌汚染と「低炭素社会」の直接的なつながりを見つけることはなかなか困難ですが、「低炭素社会」を「持続可能な社会」という観点からみると一つのヒントが見つけ出されます。それは、国際NGOナチュラルステップの①自然の中で地殻から掘り出した物質の濃度が増え続けない。②自然の中で人間社会の作り出した物質の濃度が増え続けない。③自然が物理的な方法で劣化しない。④人々が自らの基本的ニーズを満たそうとする行動を妨げる状況を作りだしてはならない。という4つのシステム条件です。豊洲地区は1923年の関東大震災のガレキ処理による埋立で生まれた土地ですが、町名の由来は将来の発展を願い豊かな土地になる願いから「豊洲」と命名されました。しかし、それから100年近く経った現在このような問題が起きたことは、「天の啓示」とでもいうべく「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉がぴったりな状況です。先述の4条件を深読みすれば、「埋立」という行為に問題があり、またそれを可能にする社会の在り方そのものが問われる訳ですが、現実的な解決策としてそこまでの議論を要求するのは困難なことでしょう。小池知事の「東京大改革」の手始めとしての問題としては余りにも人間存在の根本的な問題ともなった「豊洲問題」。当研究会においても、一つの長期テーマとして考える必要があるように思います。

観念と経験について

経験から観念が生まれるのか、観念が行為を決定し経験になるのか、有体に言えば「卵鶏論争」レベルの話にもなるが、実在する社会は全くカオス状況であり、そこには経験と観念がせめぎ合いと混ざり合いを絶えず繰り返している。我を主体として外を見れば社会は客体であり、社会を主体としてそこから我を見ればそれは客体となる。そのように主語と述語が絶えず反転する世界の中で、これまでの思想家或いは宗教家が行った思弁はある意味表裏一体にあるとすれば、それらを一元化する、或いは出来る「論理」というものを、言葉を変えれば「至高唯一の論理」を西洋人は有史以前から追求する努力をしてきたように思われる。その構造は継時的な縦糸として「宗教(キリスト教)」があり、共時的な横糸として「思弁・思想」がある壮大な切れ目のない織物のようである。そのような無限の織物を有限の人間が果たして完全に使いこなせる日が来るのか、織物が織物として最期の切れ目を作れるのか。今現在、西洋的な思考がその行きづまりを見せているように思われるが、実は際限のない織物を織っているのではないだろうか。その織物の柄は多分カノンなのだろう。

男性<主流>文化から女性<主流>文化への転換

人類の歴史は、「男」と「女」という根源的2大本質から作られて来た。宗教的に言えば、アダムとイブの原罪から始まった。しかし、我々が確認できる歴史においては、この2大本質は一方的な従属関係、支配被支配関係に固定され、そこから作り出される人間の文化、特に広義的に解釈して、政治・経済・文明・科学・宗教・芸術、、、、など様々な人間が創りあげたシステムは、すべて「男」的な性質を有している。「男的な性質」について、ドイツの社会学ゲオルク・ジンメル(1858-1918)は、男性の性質を「客観的」「即物的」「分化・分業的」「専門的」、女性の性質を「主観的」「人格的」「全体的連帯性」と分析、男性は自己超越性をもち、女性は自己充足性をもっていると見たが、ジンメルの論に従うならば、例えば近代以降の科学の発達のベースには「男的な性質」があり、そこから作り出された社会システム(政治・経済・軍事・医療・芸術・・・・・)はいわば「男性OS(オペレーションソフト)」に基づいて作られているといえる。ここから一気に結論を言うとすれば、現在の社会システムにおける様々な誤謬の要因をこのOSとみるならば、これを「女性OS」に切り替えるという発想が出て来るのは必定である。確かに、近代以降においてはこの性差(ジェンダー)意識の課題は顕在化され、たとえば婦人参政権などに見られる「女性の権利」を社会システムに組み込む動きは活発にはなってきたが、これは女性性質を男性性質へ同化させるという限界或いはあらたな誤謬の要因を生む結果ともなっている。また性差の本質を固定せず、両性融合的な概念を打ち立てようとするジェンダーフリー思想、或いはフェミニズムなども起きているが、歴史の進歩法則としての弁証法を用いるならば、「正(男)・「反(女)」・「合(両性融合)」の流れに従い、近代以降の矛盾への対処として、「反(女)」の時代創出を図るべきと思われる。
ジェンダード・イノベーション」という言葉がある。アメリカのロンダ・シービンガー博士が提唱した概念だが、男女の性差を十分に理解し、それに基づいた研究開発をすることですべての方に適した「真のイノベーション」を創り出そう、というものだ。科学の歴史の中で、従来「性差」はほとんど認識されることなく、科学者たちは無意識のうちに同性である男性のみを基準として様々な研究開発を行ってきた。車のシートベルト設計や鎮痛薬の開発など、性差が顧みられていなかったことによる不具合が実は考えられていたよりもずっと深刻であることがわかり始めたのはつい最近のことだ。こうした性差認識の重要性を、シービンガー博士は科学史の中に隠されていた女性の存在を様々な角度から浮かび上がらせることで明らかにした。その業績はEU(欧州連合)の「女性と科学」政策に大きな影響を及ぼし、のちのジェンダーサミット発足の原動力となった。 (※科学技術振興機構より)

唐十郎『少女仮面』鑑賞記

不条理劇が今日の社会においてどれほどの影響力を持つことが出来るのか、その可能性を少しは期待できそうな演劇だった。この劇が演じられた1969年は日本社会が60年安保に続く戦後2番目の動乱時期であったが、60年の政治闘争が文字通り「政治イデオロギー」にフォーカスした闘争であったのに比べ、70年はまさに不条理の中から人間存在を確かめようという「存在イデオロギー」が跋扈した訳だが、政治的には例えば連合赤軍を一つの象徴とする「敗北」に終わったように、不条理劇も社会変革を起こすこともなく紅テント、黒テント天井桟敷等の一瞬の祝祭的象徴化に留まったように思う。これは、演じる側と観る側の拮抗が、存在の根底から反転して社会変革(革命)へ向かうことなくその後の「個」への限りない没入へと陥ったことは不条理劇の持つもう一つの本質であったかもしれない。それからの50年は、演劇界はまさに古典芸能も含めいわば”社会と寝る”「軽チャー商業」路線一筋に向かった訳だが、先日の歌舞伎俳優の不倫騒動などもその一端の現れだろう。話が逸れたが、今日の情況で、奇しくも昨年の「安保法成立」から丁度一年と言うこの日に、この劇を鑑賞した意味を敢えて言うならば、60年、70年と続く50年のブランクを超えての「革命劇」としての意味づけを敢えて行いたい。ヅカジェンヌ春日野が永遠の処女と肉体を欲する存在としての矛盾と「日本を世界一に!」と叫びまくる安倍晋三の虚偽性は実は表裏一体のものだ。「少女仮面」とは老いた肉体のわが日本の姿でもある。
今回の劇を演じたのは、私の世代より二回り、三回りも若い諸君たちであり、もちろん彼らは今から60年前、50年前の状況を知る由もない世代である。にもかかわらず、ストーリー劇中心の時代においてあえて不条理劇を演ずるその勇気は買いたい。また観る側も私の世代はほんの一握りであり、ほとんどが演じる側と同じ世代であった。形式的に言えば、50年前の「演じる・観るの一体化」は少なくとも年齢的には達成された訳で、昔を懐かしむ回帰主義や懐古趣味ではない。果たして、新しい不条理劇の運動がおこるのかどうか、現実が虚構を上回る「衝撃」が日常化している時に、敢えて舞台と言う虚構から現実を狙い撃ちできるのか、そこに期待してみたい。