長谷川康子の自由

今から45年前、2年半ほど半同棲生活をしていた医大生の女子と別れた。巷では 上村一夫の「同棲時代」という劇画が評判で、「神田川」という叙情フォークが流行った頃。戦後民主主義的同棲は、相互に平等に認め合うというなまっちょろい緩やかさを持っていたが、その関係を「芸術」にまで高めることができたものはそれほどいないだろう。翻って、中原中也小林秀雄などが生きた時代。日本はゆっくりとファシズムの軍靴の足音を響かせながらきな臭い時代へと突入を始めたころ、まだ残る大正デモクラシーの自由を憚ることなく、また、自らの感情をまっすぐにぶつけた独りの女優がいた。彼女は、まるで、ある時は女神、ある時は鬼女、そしてある時は子供の妖精のように、 名を聞けば誰でも知っている文学界の大物どもの間を飛び跳ねた。当時の時代感覚からすれば、当然「あばずれ」の評判は免れないが、なぜかそのような噂はほとんど立たなかった。彼女は女優としてはほととんど目立った活躍は行ってないが、その実生活そのものが「映画」として成り立つほどのストーリーを擁している。それはまるで「芸術」そのものである。ちなみに彼女をめぐる文士演劇人とは、中原、小林のほか、大岡昇平吉行淳之介河上徹太郎、永井叔、岡田時彦小山内薫、池谷信三郎、正岡忠三郎、富永太郎柳宗悦今日出海横光利一河原崎長十郎村山知義滝沢修、、、、、とにかく限りがない。もう100年以上前の話ではあるが、こぼれあふれるほどの「自由」を感じる。果たして、現代においてこのような男と女の「自由」な物語が存在し得るのだろうか。確かに、戦後民主主義は様々な「自由」をもたらしたが、どこかで我々は「精神の自由」というものを失ったのではないだろうか。自らの同棲時代を振り返ると、少なくともそこには、長谷川康子の断片にかじりつくほどではあるが、彼女と同じ質の「自由」はあったようには思える。

 

www.asahi.com