聖書と炭火

時々我が家に若いキリスト教伝道者が訪ねて来るようになり6年以上になるでしょうか。宗教勧誘も押し売りと同じような感覚を少々持つのですが、彼が初めて我が家を訪れた時、暇にしていたこともあったのか、またその頃たまたま読んでいた本の中のキリスト教に関する記述に興味を魅かれたこともあったのか、彼と2時間ほどお茶を飲みながら話しました。それ以来、彼はときたま私を訪ねるようになり、また私も「良い話し相手(いい暇つぶし?)」が出来たので、拒絶することなくキリスト教神学とでもいうべき議論をこれまで継続しています。さて、その彼が、先日、「川口さん、聖書にも炭のことは書かれています」と嬉しそうに訪ねて来ました。私が「炭焼活動」をしていることは以前話したこともあるので、彼としては私を入信させるいい材料が見つかった、という思いもあったのでしょう。それはさておき、それまで「炭」と「聖書(キリスト教)」の関連なんて想像だにしなかったのですが、彼が教えてくれた情報はなかなか興味深いものでした。それは、新約聖書「ローマ人(信徒)への手紙12章20節」には、こう書いてありました。

「・・・あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」(ロマ書12-20)

彼には、「炭は空気や水を浄化する力があるんだよ」ということは、時折話していましたが、彼の解釈では、「汝の敵を愛せ、という教えと重なるところであり、”炭火”はその熱で不純物を取り除くということ」らしい。「炭火を頭に」という表現は古代エジプトで罪人にたいしてその罪を悔い改める方法として、真っ赤に燃えた炭火を入れた鍋を頭に乗せたという話があるようです。その情景を想像しただけでもちょっと身震いしますが、「火の浄化」という意味で捉えると納得できるものがあります。そうであれば別に炭火でなくても他の火でも良いではないか、という疑問も湧いてきますが、炭焼活動をやっている私としては、ここは「やはり炭火でないとだめなんだ!」という説得力が欲しいところです。

そこで「他に聖書で炭のことを記述している項目はないの?」と聞いたところ、「待ってました!」とばかりに彼は二つ目の例を持ち出しました。それは、旧約聖書イザヤ書6章6-7節」です。こう書いてあります。

「6:この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、7:わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 」(イザヤ書6:6-7)預言者イザヤが神の前で自らの罪を示した時に、神の使いのセラピムは炭火をイザヤのくちびるに当てることによりイザヤの罪は無くなった、ということでしょうか。

 聖書時代においては「炭火」は金属精錬・冶金にとって必要不可欠なものであり、また物質を他の物質に変えるという性質は、人間の精神にも当てはめることができる、と当時の人は考えたのかも知れません。世紀が変わり、「炭」は「火(炎)」ばかりではなく、燃やさずとも「炭」そのものにも「変化(浄化)させる」力があることを私たちは知りました。若いキリスト教徒に対して、私は「2000年以上を隔てても、「炭」を通じての人間の在り方、或いは社会の在り方を問うことが出来るという共時性或いは通時性を感じたよ」と彼に感想を述べましたが、彼はますます私を回心させようと勢いづいたかな、と思うとちょっと複雑な気分です。

 

<DAIGOエコロジー村通信2018年2月号より>