2018年新春伊豆別荘滞在記

 新年2018年1月1日から3日まで、恒例の伊豆自然別荘にて滞在する。今回は炭焼仲間2名(大平、池上の各氏)も同行し、ちょっと賑やか且つ騒々しい滞在となった。ここに今回の旅日記を記すことにする。

<1月1日>

 例によって、宿主の三森師匠は前日大晦日より現地入り。師匠の目的は”釣り”オンリーなので、餌の購入が必要だからだ。当方は、元旦、高尾を早朝7時前に出発、小田急・JR・伊豆急の鈍行を乗り継ぎ、下田からはローカルバスにて途中下車し、およそ50分程度の徒歩にて午後2時、別荘に到着する。ちなみに、同行の自然別荘初デビューの池上氏とは熱海で午前10時に落ち合う予定だったが小田急町田でばったり遭遇、弥次喜多道中はアナーキズムの話で盛り上がる。私も彼も、“風的生き方”を好む根無し草を自称しているが、その実、愛する(愛される?!否情けのみ!)妻の庇護無くばその未来は全く閉ざされることもまた同じように実感しているのである。

さて別荘到着後、早速、寝床の設置を行い、暖房用の薪拾いを実施する。この作業は別荘にては最重要必須の作業である。極めて危険な崖登りもやらなくてはならないが、猪突猛進タイプの池上氏にはうってつけの作業でもあった。夕方には三森師匠が釣から戻り、ほぼ同時に三森師匠の古くからの友人でもある、伊東市在住の彫刻家の長野氏も到着するも、長野氏がテントポールを忘れたとのことで、代用品として竹を使うことにし、早速竹林へ分け入り竹を調達、何とか幕営設置完了。ちなみに、この長野氏、雰囲気に似合わずというと失礼か、西伊豆にある通称恋人岬にある彫刻オブジェはこの長野氏の作品だそうだ。そうこうしているうちに外界は暗くなり、元旦の宴が始まる。しかし、毎年この宴に必要な餅の持参を三森師匠が失念したとのことで全員かなり落胆する。と、そこで妙案が浮かぶ。実は、時間差で八王子から軽トラで別荘に向かっている大平氏の存在だ。彼は、別荘到着は翌朝のはずだったが、釣り好きのそのはやる心は、居ても立っても居られず、フライング気味に八王子を出発、そろそろ下田へ来るころだ。電話を入れてみる。案の定ちょうど下田に入ったとのことで、別荘近くのファミマからサトウの切り餅を6個とビールを調達することおよそ30分後、「近くまで来た」と連絡が入る。ちなみに、軽トラの駐車場から別荘までは結構な距離を歩かねばならない。しかも、その間は街灯無しの磯場と山道だ。かなりの危険が伴うが、誰かが、同じく別荘初デビューの大平氏を迎えに行かねばならない。持参のウイスキーでほろ酔いの私がその役を引き受けることになり、往復40分かけて今回の訪問者の最後となる大平氏も到着。宴が再開される。宴会では、三森師匠が本日の釣果を披露する。獲物は「サヨリ」だ。サヨリは竹魚とも書くが、実は高級魚として扱われている魚でもある。このサヨリが入れ食い状態という三森師匠の話に、釣自慢の長野氏と大平氏が早速反応。釣キチ同士の話は明朝の釣行への期待へと膨らんでいく。一方、どちらかといえば、釣が目的ではない私と池上氏は、彼らの話は半分にもっぱら食らう方へ意識は集中、焼いたサヨリを美味しく頂く。実は、この日は海で言えば大潮、天上は満月のスーパームーンだ。5年ほど通っている別荘だが、いつもは満点の星空が今夜は月明かりに照らされての「月夜の晩」だ。潮騒と満月という音と映像のコントラストは、2018年の元旦を飾るにふさわしい夜となった。午後9時に明日への期待を夢に全員就寝する。

<1月2日>

 2日目は、初日の出ではないが、新春にふさわしい荘厳な日の出のご来光を拝むことから朝が始まる。ちょうど別荘の真ん中より海上から昇る朝日に心は厳粛となる。釣行優先の大平氏はまだ暗い中の午前5時に既に釣り場へ出かけたようだ。釣竿の無い池上氏は長野氏からお借りした釣竿を片手に私と共に、三森師匠と今日の釣り場でもある竜宮洞へと移動する。毎年のことだが、釣りの前にこの漁村にある食料品店「大野屋酒店」で食糧を調達することが習わしだ。大野屋には結構口達者な90近いおばあちゃんが店番をしているのだが、「今年は野菜が高い」という話でひととき盛り上がる。およそ2000円近い買い物は、大野屋にとってどれほどの経済的貢献をしているのかわからないが、大都市で繰り広げられる狂騒的な商売を考えれば、やはりこの国は「おかしな」方向へ動いていることに気づかされるのである。そういう意味では大野屋のおばあちゃんの陽気さは何故か救いとなる気がする。さてさて、そうしているうちに早朝釣行の大平氏と合流して、今日の釣り場へと向かう。釣り場は竜宮洞と呼ばれる磯場の突端だ。潮は徐々に干潮へと向かっているのだが、やはり外海の波は大きくて荒い。何度か、潮をもろにかぶりながらも、三森師匠、大平釣キチを先頭に、私と池上氏も竿と糸を垂れるや否や、釣りが初めてと言うある意味化石人的池上氏に最初のあたりが来る。まさにビギナーズラックと言うべきか、昨夜の話題の「サヨリ」が今日もかなり回遊しているようだ。各言う私も持参した一本竿にサヨリが連続して上って行く。何であれ、やはり釣りの面白味は「釣れること」というのはやはり素人なのか、釣キチ2名にとってはサヨリよりも大物狙いが目的の様で、サヨリに喜ぶ私と池上氏に優しいほほえみを掛けながらも、彼らの目はわずかの嫉妬を感じながらも大きな目的へ向かって爛々と輝いているのだった。午前中で釣りを終えた私と池上氏は釣り場を撤収して、別荘へと向かうことにするが、ここで池上氏にアクシデントが発生。古傷のひざ痛がかなりの痛さで出て来たのだ。突進型で我慢強い彼が音を上げるほどだからその痛みは想像できる。何とか、我慢の歩行を続け別荘へたどり着いた時には池上氏の顔は痛みで歪んでいた。場所が場所だけにどうにもならずとにかく安静を保つようにする。実は池上氏、今回の旅にはテントを持参せずシュラフだけで寝ているのだ。別荘の中は青天井ではないが、夜はかなり冷える。彼の痛みが夜の冷たさに耐えられるのか、私は不安だったが、縄文人三森師匠からは、「痛い時は動け!」というアドバイスなのか叱責なのか熱い言葉を掛けられ、池上氏は昨夜と同様に調理番を命ぜられたのである。まさに非情、非道の別荘生活2日目となった。話は前後したが、釣キチ2名のその後の釣果は結構すさまじいものだったようだ。何と大平名人(ここからは名人と呼ぶ)がカンパチを2匹釣り上げたのだ。1匹は波にさらわれ失ってしまったのだが、連続して2匹目があがり、その場で解体、刺身を土産に別荘に帰還したのは午後6時過ぎ。2日目の宴会が始まる。幸いなことに池上氏のひざ痛も少々緩和してきたようだ。この夜の主役は何と言っても大平名人だろう。かなり上機嫌な彼は、そのうち得意の落語と浪曲(講談)を披露してくれる。題名は良く分からなかったが、「おみつと伝吉」とかいう話と「遠州森の石松」の2話を、昨夜に続く満月の月の下で達者に語る。聞くところによると中学時代に落語クラブに入っていたとのこと。現在は一級建築士の資格を持つ彼だが、もしかしたら道を誤ったのか、と思わざるを得ないほど彼の話はうまかったように思う。そうこうしながら、2日目は少々遅く夜10時に就寝となる。閑話休題だが、別荘の夜は全体としては空気は暖かいものの、地面からの冷気はやはり只者ではない。テントの上に新聞紙、保温シートを敷いてのシュラフだが、岩場のガレキを通しての冷気対策が必要だ。

<1月3日>

 3日目。いよいよ別荘お別れの日だ。ひざ痛の池上氏は大事を取って、大平氏運転の軽トラに便乗して帰宅することに決定。その大平氏。昨夜の釣果の興奮そのままに最終日の3日目も午前5時に釣行へと出かけていったのだが、9時には別荘へ帰還する。9時半には帰宅組3名の撤収作業は完了、宿主の三森師匠を残して別荘を後にする。軽トラの荷台に私も便乗し、途中まで送ってもらう。別荘からの撤収、そして伊豆急下田駅までの帰途の道中も実は私にとって楽しみの一つなのである。別荘往還の往路は、これからの3日間の非日常への期待が膨らむ彼岸への道でもあるが、復路はかなりリフレッシュした精神状態であり、足取りも肉体の疲れに反して軽い。バス停までの道のりの中に、湿地を歩く遊歩道があるが、それは彼岸から此岸への道である。仏教の禅の教えに、「此岸(しがん)」と「彼岸(ひがん)」の“往還”という教えがあると聞くが、果たしてそのような心境なのだろうか。バス停には毎年のようにバス停前が自宅である老婆が今年も日向ぼっこをしていた。彼女とのバスを待つ間の短い時間の会話も取り留めもない話なのだが、人間の根っこのある何かを感じさせるものである。

<最後に>

 さて、このような空間と時間を経験する切っ掛けを作ってくれた三森師匠には感謝しかないが、これまで単独行で過ごしていた師匠の別荘に、彼の心境も顧みず押しかけていった私の行動は果たして許されるのであろうか、という疑問と反省も実はある。三森師匠も釣りが目的とはいえ、合理精神優先の現代において精神性と豊かな心情の持ち主である師匠も、またある意味「此岸」と「彼岸」の“往還”を行っているのかもしれない。その彼にとってのある意味神聖な空間とも言える別荘の共有の方法は果たしてあるのだろうか。それが今年の別荘滞在の私にとっての大きな課題だ。

ところで、最後に残念なことを記述しなければならない。今回の別荘行を別の意味で象徴する衝撃的なことが起きたのだった。帰路の電車中で古くからの友人の奥方から電話があった。友人とは大晦日と元旦にメールでやり取りしたばかりである。奥方から告げられた言葉は「今朝主人が亡くなりました!」という衝撃的な連絡である。車中であり、詳細なことは聞けないままに、連絡を受けた伊豆急の中で、告げられた事実を頭と心で反芻する。しかし、何故かそれは穏やかなものだった。友人は透析治療を受けながら腎不全と闘っていたのだが、余命を告げられるほどではなかったにせよ、ある種の覚悟は以前からあったように思える。奥方の誕生日でもあるその日に潔よく旅立ったのだ。ここでもまた「此岸」と「彼岸」という意味を考える。

 

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私も65歳を過ぎた。人生にはいろいろな壁があると言うが、昨年は自分のケガ、身近な者の死と立て続けに起きたのだが、正月早々の友人の死はまだこの壁が続いていることの証左かも知れない。「生きること」についての思考を日常的に継続するようになったのは、やはり2011年3.11が切っ掛けだった。あれから7年近い歳月の中で、その思考は自己中心から他者との関係、そしてさらにその奥にあるものへと、ステージを変えている。伊豆の自然別荘の空間にはある種の聖なる力のようなものがあることを感じるようになったのは、そのような思考のステージの変化とも関係があるのかもしれない。