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唐十郎『少女仮面』鑑賞記

不条理劇が今日の社会においてどれほどの影響力を持つことが出来るのか、その可能性を少しは期待できそうな演劇だった。この劇が演じられた1969年は日本社会が60年安保に続く戦後2番目の動乱時期であったが、60年の政治闘争が文字通り「政治イデオロギー」にフォーカスした闘争であったのに比べ、70年はまさに不条理の中から人間存在を確かめようという「存在イデオロギー」が跋扈した訳だが、政治的には例えば連合赤軍を一つの象徴とする「敗北」に終わったように、不条理劇も社会変革を起こすこともなく紅テント、黒テント天井桟敷等の一瞬の祝祭的象徴化に留まったように思う。これは、演じる側と観る側の拮抗が、存在の根底から反転して社会変革(革命)へ向かうことなくその後の「個」への限りない没入へと陥ったことは不条理劇の持つもう一つの本質であったかもしれない。それからの50年は、演劇界はまさに古典芸能も含めいわば”社会と寝る”「軽チャー商業」路線一筋に向かった訳だが、先日の歌舞伎俳優の不倫騒動などもその一端の現れだろう。話が逸れたが、今日の情況で、奇しくも昨年の「安保法成立」から丁度一年と言うこの日に、この劇を鑑賞した意味を敢えて言うならば、60年、70年と続く50年のブランクを超えての「革命劇」としての意味づけを敢えて行いたい。ヅカジェンヌ春日野が永遠の処女と肉体を欲する存在としての矛盾と「日本を世界一に!」と叫びまくる安倍晋三の虚偽性は実は表裏一体のものだ。「少女仮面」とは老いた肉体のわが日本の姿でもある。
今回の劇を演じたのは、私の世代より二回り、三回りも若い諸君たちであり、もちろん彼らは今から60年前、50年前の状況を知る由もない世代である。にもかかわらず、ストーリー劇中心の時代においてあえて不条理劇を演ずるその勇気は買いたい。また観る側も私の世代はほんの一握りであり、ほとんどが演じる側と同じ世代であった。形式的に言えば、50年前の「演じる・観るの一体化」は少なくとも年齢的には達成された訳で、昔を懐かしむ回帰主義や懐古趣味ではない。果たして、新しい不条理劇の運動がおこるのかどうか、現実が虚構を上回る「衝撃」が日常化している時に、敢えて舞台と言う虚構から現実を狙い撃ちできるのか、そこに期待してみたい。