行動の差

SEALDsという学生団体の行動がここの所良く取あげられている。「政治に無関心」と言う当代学生気質の世間評判の中にあっては、かなり政治的な行動であり、またその動員数も半端ではないゆえに、マスコミも彼らの行動を追って取材しているようだ。彼らの支持者とも言える高千穂大学準教授五井野郁夫が、昨夜のFMラジオでこのSEALDsについて語っていたが、その趣旨は「政治もファッション」という風に聞こえた。強行採決が為された今日この日に、SEALDsの国会前緊急行動にケチをつけるつもりはさらさらないし、行動に参加している学生諸君もそれぞれの率直な思いで参加しているのだろう。私とて「戦争法案」には反対であるし、そういう意味ではSEALDsの行動を称賛こそすれ、「疑問に思うなどは言語道断」、という声も聞こえてきそうだが、しかし、彼らの行動に当方の“感情”の部分が何故か反応しない。45年前同じ学生だった当方が、当時の行動との差をそこに認めるとすれば、それは社会背景の違い、或いはネットなどの情報テクノロジーの格段の進展などからその根拠を見出すことはできそうだが、どうもそんな感じではない。思いつめた人間、或いは確信を持った人間の取る行動は、理性や或いは観念の世界とは違い、そのリアリティの中に条理を超えた感動を呼び起こすものだが、残念ながらSEALDs諸君の行動は、彼らが発するスローガンも含め、あくまでもクールであり、ビジネス的要素さえ感じるものだ。彼らにとっては、政治的行動も「イベント」であり、「マネジメント」ということらしい。デモのビラ(彼らはフライヤーと言う)セブンイレブンで調達するそうだ。現代っ子、と言ってしまえばそれまでだが、古い人間かも知れないが、行動はそこに伴う感情(パッション)こそがそのコアではないか、と思う。多分、彼らは言うだろう。「(我々も)感情があるからこそ行動している」と。だがしかし、その感情が私に伝わって来ないのは、自身も気づかぬうちに変節したのだろうか。否そうではないだろう。彼らと同じようスマホを持ち、セブンイレブンで自分の気に入るビラ(フライヤー)を受けとり、「国会前ナウ」などと“情報発信”することをせずとも、「同じ目的同士なら一緒に行動すれば良いではないか」、という反論も聞こえてきそうだが、そここそが現代社会の真の問題のような気がする。

唐突だが、私の中では、先日自殺した岩手県中学2年生の村松亮の行動には、その壮絶さとともに深い感動のようなものを覚える。両親の離婚から母親妹たちと別れ、父親とともに東京から岩手に来た彼の思いは、報道される彼の姿や卒業文章などから、14歳とは思えない素直な他人への気配りは気高くさえある。何故「死」を選んだのか!父親と祖父が話す自殺当日の彼の言動は、ある覚悟を感じさせる。生活日誌の言葉も彼自身ではあるが、彼の言葉の奥にあるまた彼自身の“感情”は「仏陀を背負って」いるような気さえするのである。

この世界は至高の存在者の創造物だという。彼は人間含むすべてを創造しその役割も与えているという。SEALDsと村松亮の両者の行動の差は何であろうか。もし至高の存在は村松亮にそのような創造をされたのであればその意味を問うことは必要だろう。私はその答えを可能な限り探ってみたい思いだ。