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由井忠之進

由井忠之進という名前を知っている人はもうそんなに多くないだろう。私も正直その名前を随分と忘れて久しかったが、記憶の片隅にあったフレーズで思い出した。フレーズとは「国会議事堂前焼身自殺」である。ショッキングな表現だが、1967年11月11日に実際に起きた“事実”である。明治27年生まれの彼は、73歳の時に、国会議事堂前で自らガソリンを被り、そこには当時の佐藤栄作首相へ宛てた「佐藤総理に死をもって抗議する。」という抗議書があった。その全文を紹介する。

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内閣総理大臣佐藤栄作閣下

佐藤総理に死をもって抗議する。政治資金規正法の答申は尊重すると何度言明されたこ とか。しかるに案が出るや自党の圧力に屈して廃案とし、恬として恥じない首相は、私の如き一介の庶民が何を訴えても何の効果も期待できないことは百も承知しながらもはやがまんできない

首相の米国行きが迫るにつれ、沖縄、小笠原返還要求の声が小さくなってきた。米国の壁が厚くて施政権の返還は望めない。できるだけ早期返還の意思表示をとりつけたら成功となつてしまった。はじめから拒絶を予期する交渉なんて全くのナンセンスである。私は佐藤首相の第二回東南アジア出発の前に出した抗議書にも書いたが、日本の要求事項をまず決定し、それに基づいて粘り強く交渉することを要望した。

またベトナムの問題については米国の北爆拡大に対する非難の声が今や革新陣営だけで なく、国連総会においてもスウェーデン、オランダ、カナダからさえ反対意見が出ているにもかかわらず、首相はあえて南ベトナム訪問を強行したのみでなく、オーストラリアでは北爆支持を世界に向かって公言された。毎日毎日、新聞や雑誌に掲載される悲惨きわまる南北ベトナム庶民の姿。いま米軍の使用している新しい兵器の残虐さは原水爆のそれにも劣らない。ダムダム弾は国際条約によって禁止されているが、それよりもはるかに有力で残忍きわまるボール弾を発明し実戦に使用、大量殺戮を強行することはとうてい人間の心を持つ者のなし得るところではないのである。

ベトナム民衆の困苦を救う道は、北爆を米国がまず無条件に停止するほかない。ジョンソ ン大統領と米国に圧力をかける力を持っているのはアジアでは日本だけなのに、圧力をかけるどころか北爆を支持する首相に深い憤りを覚える。私は本日、公邸前で焼身、死をもつて抗議する。戦争当事国、すなわちベトナム、米国民でもない私が焼身死することは、あるいは物笑いのタネかもしれないが、真の世界平和とベトナムの早期解決を念願する人々が私の死を無駄にしないことを確信する」

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彼は、エスペランチストとして平和運動などにも積極的に関わったが、特定の政党やイデオロギーに固執していた訳ではない。根っからの「平和主義者」だったのだろう。当時は、このような身を挺した抗議に対しては、革新側からも批判があったように記憶するが、とにかく当時高校1年生として小さくも「ベトナム反戦活動」を行っていた私にはこのような抗議の仕方が衝撃的であったことは言うまでもない。しかし、同時に何とも言えぬ「尊さ」のようなものも感じたのは事実である。その後の70年安保へ向かっていく闘争の中で、彼の行為は何故か黙殺されたのか、或いは闘争の激しさが彼の行為を相対的に小さくしたのか、人々の記憶から消えていった。彼の抗議の死から46年経った現在、形だけの返還はなったものの沖縄の現状は益々厳しいものとなり、また原発事故の無責任さなど、由井忠之進が抗議した状況よりも一段と酷さを増している。そのような中でも、このような状況に粘り強くも抗議活動を続ける市民が存在しているのは救いではあるが、しかし、「ある政治社会状況への抗議」の手段として、「身を挺す」という行為に至るまでの精神性とは何か、を考えざるを得ない。これは、“「死」という手段”の意味を、人間がこの世界、そしてこの社会に生きる、生きているという中での“個人としての意味”として捉え、その問いに対する“極限の”行為として見ていく必要があるのではないか。高橋和己は『明日への葬列』でこの由井忠之進のことを書いているが、その序文で、「死者の視野にあるもの」と題して

 

「私の確信によれば、死者たちの最後の映像なるものは、それが死後にも残存するか否かは別として、立って歩く動物である人間が見おとしがちな、地面にうちのめされて、一番低いところから上を見あげる視角になるはずだと思う。それはなんとも名状しがたい悲しい視角であって、たとえ同情して覗き込み、あるいは介抱するために蹲み込んだ者の姿であつても、自分の胸を圧迫し、せめて最後の一瞬ぐらいは広々したものであってほしい視野を、無慈悲に制限するものとして映る。 ・・・・・<中略>・・・・

そしてもし死者がこの世で最後に見た映像を復元しうるものとすれば、その映像こそが、なによりも鮮明に現在の人間関係のあり方、その恐ろしい真実の姿を、象徴するはずなのである。」

 

この社会とは一体なんであろう。そして自らが人間として生きるという意味は。すべては、我々一人一人が自らに対して問うべき問題であり、問わなくてはいけない問題である。そこからどういう答えが出て来るかは、組織や或いは運動、社会からみる価値ではなく、この世に存在した一人の人間としての価値であり、それはまさに「孤立無援」の“闘い“なのだろう。

 

抗議書抗議書