『平和の論理と戦争の論理』(久野収)

前回、本ノートで、米国の『鉄の山の報告』について述べたが、この戦争を肯定する側の論理に対する平和を希求する側の論理が余りにも稀薄であると評した。しかし、あの手この手を使いながら戦争状態を構築していく状況は日々に顕在化してきている。私自身もこのような中で、どのような方向性を見出すべきか、今も論駁を繰り返している。そのような時に、久野収の『平和の論理と戦争の論理』(1949年岩波書店)が目に留まったので、ここに紹介したい。

 

・「まず戦争の論理の最大の力は≪戦争は不可避である≫という信念或いは実感の中に横わっている」(p.25)

・「従って平和の論理は、まずこの不可避性の信念或いは実感から、われわれをいかにして解放するかという方向に、自らの進路を求めねばならな い。」(p.26)

・「平和の論理は、戦争の洪水に対して無条件に対決し得る信念によって保証されないかぎり、遂に戦争の論理に勝つことは出来ないであろう。そしてそれは戦争を方法として、論理として承認し、実践することを拒絶する点に成立するのであるが、この力と自信をわれわれは何を依りどころにして汲み出すことが出来るであろうか。」(p.26)

・「集団と暴力と組織とは、離れがたく結びついた戦争概念の内容にほかならない。」(p.27)

・「戦争の論理は、その目的、その手段の一切における暴力性、超論理性、ヒステリー性を特色とせざるを得ないに反し、平和の論理は、単にその目的のみならず、手段においても、出来るだけ平和性、論理性、健康性を守らねばならない。」(p.27)

・「戦争を挑発する勢力が、組織と強制と暴力によって行動するのに対し、平和を守る勢力が、それと同じ仕方で対抗し、相手の挑発に答えて、積極的に戦うとすれば、平和の論理は、原理的には、自らの論理を放棄し、相手の論理に屈服しているのである。だからといって、戦争の組織と暴力に、積極的に参加しないにはしても、それに順応し、黙従しているかぎり、平和の論理は、どこまで行っても戦争の論理を克服することは出来ない。平和の論理は、その出発点において、致命的なジレムマにおちいらざるを得ない。」(p.28)

・「このジレムマから逃れる道は、一方では、暴力の挑戦に応じて直ちに立ち上がることは、あくまで警戒するが、他方では、その挑戦に徹頭徹尾、抵抗してゆく、という態度以外にはあり得ない。だから出来得るかぎり無暴力であって、しかも徹底的な不服従の態度、出来得るかぎり非挑発的であって、しかも断固たる非強力の組織、これのみが、平和の論理のとるところをやむなくされる唯一の血路である、といわなければならない。人人は、普通このような態度、このような組織を通じて、自己の目的を実現する運動を、《受動的抵抗の運動》Movement of Passive Resistanceと呼んでいるが、平和の論理の積極的な第一歩は、戦争反対の目的のために、この運動を果敢に実行する信念と組織とエネルギーの如何にかかっている。」(p.28)

・「しかし、何よりも重大なのは、われわれ一人一人の中に、戦争に対するかかる非協力、不服従の、直接的、出来得るかぎり無条件的な態度への信念が、脈々として生き、且つ働いているということでなければならない。」(p.28)

・「しかしながら、戦争に対する受動的ではあるが、無条件的な非協力の信念を、いかなる事情に面しても放棄しないという態度は、一体どのようにして獲得され、貫徹されるであろうか。そのためには、まず戦争に対する積極的嫌厭の感覚が、われわれの間に生き生きと脈打っていることが必要である。戦争への非協力の信念と組織は、この一般的感覚の中でのみ、しっかりとした根を下ろすことが出来るのである。次に反価値性、徒労性を無条件的に憎悪する信念が、そこから生まれなければならない。平和の論理は、自己の生命を脅かさんとする悪に対する真の憎悪に裏づけられて、始めて力を持ち得るのである。」(p.29)

・「われわれは、一方で消極的には、この抵抗を可能にする自由をたえず確保し、拡大する動力を続けるとともに、他方で積極的には、戦争を生み出す条件を探求し、公表し、これらの条件を再編或いは抹殺する努力を積みかさねなければならない。」(p.33)

・「われわれの間に、戦争への抵抗と平和への熱意が、かりに満ちあふれていたとしても、それを実現する自由と、その保塁となる組織がうばわれてゆくかぎり、われわれは、心ならずも戦争の洪水に押し流されるよりほかはなくなるだろう。」(p.33)

・「まず、戦争に対して抵抗する権利、不服従、非協力の権利が、基本的人権の最高の部分として、国法の上で確認されることが必要である。」(p.34)

・「戦争を引きおこす条件は、社会心理的と、経済的という二つの観点から、考察されることが出来る。」(p.35)

 

(以上、出典:立命館大学大学院先端総合学術研究科DBより)

 

ヒューマニスト哲学者の久野収らしい心を打つ論点である。しかし、結局、久野も基本は個人個人の内面における精神性(信念)を拠り所としている。戦争を肯定する側が戦争を「社会システム」と位置づけ、そこに久野の言う集団と組織と暴力を集中させている今の世界の在り方に対して、平和を希求する側は「おなじことをしてはいけない」と久野は言う。(たとえばガンジーの)「非暴力・不服従主義」しかない、と結論せざるを得なく、それをどのように”組織化”していくのか!この論文が書かれた頃は、我が国ではまだ労働組合がその組織化の担い手として”健全”な状況にあったが、果たして、現在、個人個人が平和への信念を育て、鍛え上げ、それを戦争の洪水に対する大きな防波堤として築くことができるのだろうか。個人の信念を集約し組織化する手法、否もっと根源的な問題であるのかもしれない。しかし、この問いは有史以来人類が絶えず問い続けて来ている命題でもあり、諦めるわけにはいかないだろう。