輿論(よろん)と世論(せろん)

『もともと「世論」というのは、世間にある雰囲気という意味でした。理性的に議論されて作られる意見は「輿論(よろん)」といった。公的な責任ある言論を指し、両者は戦前まである程度は使い分けられていた。それが戦後、当用漢字から「輿」の字が外され、世論と書いてヨロンとも読むようになった。だから今の『世論』の中身はあいまいです。』

京都大学准教授の佐藤卓巳の弁である。

時の政権の存在の妥当性を単純な二択或いは三択の「世論調査」で判断する愚はいつ頃から行われたのだろうか。

記憶するに、少なくとも60年代~80年代までは様々なメディアが多様多層的に存在しており、社会の”空気”というものも同じように観念や理念、情念といったものが多様多層化の中でミキシングされ、それらは一つの理性に沿った形で政治・経済のみでなく文化芸術までも含む様々な”論”が展開されていたように思う。民主主義が深化することの条件はいろいろあるが、表層的な「少数意見の尊重」というような数合わせの論理ではなく、様々な意見が互いにぶつかり合い、融合し、或いは離反し、それらが拡散、収束しながらあるベクトルを形成していく姿ではないか。これこそ「輿論」と呼ぶものであろう。55年体制をアンシャンレジームと呼ぶのも良いが、少なくともこの体制の背景には、現在の1強他弱体制よりは強い民主主義的要素があったように思える。

「わかりやすさ」がいつも追及され、問題の単純化、或いは図式化でしかものごとを判断出来ない現状がさまざまなところで表れている。ちなみに良く使用される「パワーポイント」というソフトは時代のその辺りの空気をうまく読んだ商品ではないか。受験問題は事前の暗記による知識で解くことができようが、社会の様々な問題を解決するためにはそれなりの思考の深さが必要である。一時期、「KY」という言葉が流行った。国会でも政権政党に対して左翼政党含む野党がこれを頻繁に使用した。議論を戦わす場である国会において、「KY」という非論理的な言葉の”議論”が行われているのをみれば、左右の違いを超えた現代の日本人の「今だけ・金だけ・自分だけ」志向からはそのような思慮・思弁というものが出来る訳がない。

ハンナ・アーレントはこのような思考の欠如を「悪の凡庸」と呼び、それが全体主義ナチズムの根源と喝破した。「日本はファシズム化している」という論拠はこのように考えれば納得できるが、その根源は我々一人ひとりに責任があるのである。

「世論」という”雰囲気”に身を任すのではなく、「輿論」という”理性”を構築していかねばならない。