『平気でうそをつく人たち~虚偽と邪悪の心理学』(M.スコット.ペック1996年草思社)

今月号の会報トップの「今月の断章」においても平気でうそをつく話が出ていましたが、奇しくも私が今読んでいる本の内容とがっつりと噛んでいましたので、少しびっくりしたところですが、良く考えてみれば、今、「平気でうそをつく」社会というものを誰もが感じているのではないか、と思う次第です。

ご存じの安倍晋三氏が関わったとされる「森友・加計問題」において、彼は殆どの国民誰しもが嘘をついていると感じられるコトについても「平気でうそをつい」ていました。これに対しては選挙の投票以外に為す術もないことに、非常に腹立たしく思えたのですが、少し冷静になり、普通であればあれほど破廉恥な誰しもが分かる「ウソ」をどうして平気でつくことが出来るのだろう、という素朴な疑問にぶつかりました。政治家でもある彼の嘘は、ナチスプロパガンダの「嘘も100回言えば真実になる」というものとも少し違う感じがします。その様な時にたまたま偶然に『平気でうそをつく人たち』という本を知り、早速購入して読みました。著者のペックはアメリカでは良く知られた医者でもあり心理学者ですが、彼は欧米人特有のキリスト教的価値観における「邪悪(evil)」という概念を基に「邪悪な人は必ず”平気で”うそをつく」という主張を行っています。「邪悪」の西洋的概念は日本人(東洋人)には分かりにくいところもありますが、安倍晋三氏(とその取り巻き)をその対象とすれば少しは理解できるかもしれません。しかし、彼に限らず自分自身も含め私たちの周辺にも彼のような「平気でうそをつく邪悪」な存在はかなり認められるのではないでしょうか。ペックの定義によれば「邪悪な人」とは、

 

  • どんな町にも住んでいる、ごく普通の人。
  • 自分には欠点がないと思い込んでいる。
  • 他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する。
  • 自分への批判にたいして過剰な拒否反応を示す。
  • 立派な体面や自己像に強い関心を抱く。
  • 他者の意見を聞く耳をもたない。
  • 自分は選ばれた優秀な人間だと思っている。
  • 他者に善人だと思われることを強く望む。

 

ということです。まさにぴったりと当てはまる人物を想像することができるのではないでしょうか。

一方、「ウソも方便」とか「かわいいウソ」などという、どちらかと言えばウソを肯定する思考もあります。「嘘をつかない」ということは倫理道徳的にも正しいとされる価値ですが、人間である限り「ウソを絶対つかない」ということは無理とも思えます。しかし、上記のような「虚偽と邪悪」が国の最高権力者によって日常的に為されているとすれば、それはやはり大問題でしょう。ペックは本書で、ベトナム戦争における「ソンミ村大虐殺事件」にも触れ、このような「虚偽と邪悪」が集団で行われるケースの根本的問題を指摘しています。それは彼自身が、ソンミ村虐殺事件解明チームの委員長を歴任していたことからも彼の指摘は間違ってないように思えます。(ソンミ村虐殺経緯についてはネットで調べてみてください)この集団の悪に関する彼の主張の面白い所は、その要因に「専門化集団」の存在をあげていることです。彼は言います。「専門化とは右手がしていることを左手が知らないこと」だと。私も時々「専門家(化)とは専門のことしか知らない人のこと」と良く言いますが、同じ趣旨と思います。安倍晋三氏の「ウソ」をめぐる問題にはすべて集団(政党、官僚、企業等)が絡んでいます。それらの集団はすべて専門化された集団です。集団の嘘(悪)と個人の嘘(悪)の違いに明確な線を引くことは困難ですが、そこに「責任」という概念を媒介させれば少しは見えてくるものがありそうです。すなわち、「責任」は個人から集団へと転化されるとその重さが希釈されるということです。「誰も責任をとらない(とらなくなる)」ということです。そしてそのことは今度はスケープゴートとして個人にまた転化されていく。これは今の日本に思い当たる節はかなりあることでしょう。ちなみに、ペックはこのような「邪悪性」を「病」として捉えるべきだ、と主張しています。その主張には彼自身も少しためらうところもあるのですが、「悪を病と定義する」ことのメリットの方がそのデメリットよりも勝っている、という結論です。先述したとおり、「人間だれしも嘘をつかない人はいない」訳ですから、そうなると人類全体が「病」ということになるので、確かに「邪悪性」を「病」とすることの無理はありそうですが、それでもこの本でペックが言いたいことの根本的な点は理解できると思われます。

 

< 低炭素都市ニュー ス&レポー ト【2017年】11月10日号 より>

AI(人工知能)と人間社会

毎日のようにテレビや新聞、或いはネット上で「AI(エーアイ)」という言葉を聞かない日は無いくらいですね。囲碁やチェス、将棋などで「人間に勝った」などと言っているうちは可愛いものですが、私たちの仕事を奪い、そして私たち自身の人生までもコントロールすることが可能である、などという解説を聞いていると、新しい技術としても手放しでは喜べないでしょう。「AI」が単なる技術と違うところは、これまでの技術が、車やメガネ、各種機械など、いわば人間の手足、或いは目、耳など「肉体」の代替延長にあったものが、「精神」の領域にまで入り込んできているということです。自動運転技術というものも、自動車そのものは人間の足代わりとして開発されて来ましたが、その自動車に「AI」を組み込むことによって、自動車自身が「思考」するという、ある意味次元の違う世界になります。「AI」はディープラーニング(深層学習)という、人間の脳の仕組みを応用した特殊な機能の技術を駆使して自らを成長させます。これまでの機械的な技術しか見ていない私たちにとって、「AI」という技術をイメージするのは少し困難ですが、良く報道されるロボットのイメージだとなんとなく理解できるでしょう。ロボットも人間の僕となって人間の手助けをしてくれるだけであれば非常に助かるものでまた便利なものですが、彼ら(敢えて「彼ら」と言います)が自ら学習を極め、人間を支配下に置くという逆転の可能性は非常に高いように思えます。「AI」が人間の仕事を奪うという現象は、まさにその逆転ではないでしょうか。「ロボットと言っても所詮は人間が管理するから大丈夫」という声もあるかもしれませんが、先述の逆転現象は私たちの身近なところからじわじわと起きているように見えます。私の感覚からすれば、自らの健康を全て病院や健康診断に委ねることも。この逆転現象の一つです。人間の医者が病院から放逐される日も遠くないかもしれません。「AI」で無くなる職業の中に医師も想定内です。さて、しかし、このような状況を嘆いてばかりでは、本当に「AI」に身も心も占領されてしまいそうですが、良く考えれば、根本的、本質的なところに行きつきます。それは、古代からの哲学、或いは宗教にも関わる「私は何者か」「私は何故生きているのか」という問いかけです。これは「脳」の問題ではなく、「心」の問題です。人間には「心」という摩訶不思議なある意味非合理な世界があります。果たして、「AI」は「心」の領域にまで介入することができるのでしょうか。もしできるとしたら、それは「AI」が能動的に進化するということではなく、人間自身が「AI」に自らを合せていくという生き方を選択した場合のみでしょう。昔、「あなた人間辞めますか」という覚せい剤のCMがありましたが、まさに「人間が人間を止めた時」が「AI」が「神」となる時なのでしょう。しかし、「人間を止めなかった人間」にとっては、「AI」は「悪魔」でしかありません。さて、貴方は人間を止めますか、それとも人間であり続けたいですか!!

パスカル『パンセ100』における”彼”とは!? 

パスカルの『パンセ』にこういう文章がある。ちょっと長いが読めば読むほど今を時めくあの人物の像と寸分違わないことに驚きと納得がある。ちょっと長いが紹介する。

「・・・・彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。 幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る。 人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。 彼が当面するこの困惑は、想像しうるかぎり最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。 なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみを いだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅 できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言かえれば、自分の 欠陥を、自分に対しても他人に対しても、おおい隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、 他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。」(パスカル『パンセ100』)

パスカルは人間一般における「自己愛」について上記のような考えを表明しているのだが、これほどピッタリの表現は現代においても”問題の彼”を評する諸々の論の中には見当たらない。

果たして「彼」とは誰ぞや!上記の文の「彼」に固有名詞を当てはめるとわかるのではないか!もちろん自分自身も含んでのことだ。

革命の内面起源~映画『エルネスト』鑑賞記~

今月号会報でも紹介していますが、8月の研究会「キューバ革命チェ・ゲバラの写真展」の視察の折に、映画『エルネスト もう一人のゲバラ』の紹介があり、先日の上映公開に合せて早速鑑賞して来ました。映画では、ゲバラはあくまでも脇役で、主役はオダギリジョー演ずる、フレディ・前村・ウルタードという名もなきボリビア出身の医学生ですが、このフレディがゲバラカストロとの接点におけるセリフのやり取りにこの映画のある種の神髄を感じました。フレディは祖国ボリビアにおける革命解放軍に志願するにあたり、ゲバラの面接を受けますが、この時に次のようなやり取りをします。

 ○フレディ:「司令官(コマンダンテ)、貴方のその闘いの信念は一体どこから来るのですか?」
 ○ゲバラ:「私は常に怒っているのだ。憎しみから始まる戦いは勝てない。」

もう一つ紹介しましょう。

 ○フレディ:「フィデル、私は何をやるべきでしょうか?」
 ○カストロ:「それは人に聞くものではない。いつか君の心が教えてくれるだろう」

私は、このセリフのやり取りに何とも言えぬ感銘と、そして自らの心の内面における葛藤と闘いこそが人生にとって必要不可欠なものなのだ、とつくづく思いました。キューバ革命が、或いはエルネスト・チェ・ゲバラという存在が何故今も自分の心の中で活き活きと生き続けているのか!その理由が分かったような気がします。もう一つ、紹介しましょう。

(前述のゲバラとのやり取りの後に、、、、)

 ○フレディ:「『新しい人間』になるんですね!」
 ○ゲバラ:にこっとうなずく

これは、ゲバラがフレディが学ぶハバナ大学で学生の前で演説した時のフレーズ「新しい人間(オンブレ・ヌエボ)」のことです。この時、彼(ゲバラ)はこう言いました。「大学は学生だけが学ぶ場所ではない。農民、労働者、多様なものが学ぶ場所だ。そしてそこから新しい人間が生まれるのだ」ゲバラは、革命後、「自分のためではなく、他人のために自ら進んで働く生き方」を常に述べ、一人ひとりがそういう「新しい人間」に変われば、苦しみで覆われている世界を自分たちの手で変えることができる、という信念を学生の前で述べたのです。ここに、ゲバラの心の内面にある彼独自の道徳心、それは「ゲバラ主義」と言っても良いのかも知れません。フレディも、そこに自らの求める生き方を発見したのでした。そして、それは、フィデルカストロ)に言われた、「君自身の心が教えてくれる」というあのセリフと共鳴するのです。

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 さて、映画については、これ以上述べると”ネタバレ”になるので、後は皆さんに直接鑑賞してもらうしかありません。
ところで、現在衆議院選挙が行われています。いろいろな政党からいろいろな方々が有名無名問わず、声を張り上げています。しかし、彼らに「(真の)怒り」と「心の声」が果たしてあるのでしょうか。翻って、彼らを選ぶ我々にも「(真の)怒り」と「心の声」はあるのでしょうか。
 私たちの環境は、物質的に非常に豊かになりながらも、「これでもか、これでもか」と留まる事を知らない新しい物質(商品)の波にのまれ、また大量無限の情報の渦は新しい「統治システム」を模索しています。しかし、その裏側では、貧困と格差が激しい勢いで拡大し、その現実(リアリティ)を例えば映像で眺めながら、物欲に勤しむという非対称の構図がそこにはあります。それらに対する「怒り」、そして自らの「心の声」というものが果たしてあるのでしょうか。
 ある状況をもし変えるとすれば、それはやはりその根源には一人一人の内面からしか生まれてこないものでしょう。外部からの刺激への単純な反応(憎しみ)ではなく、もっと深い所からの心の声(怒り)に気づくことの大事さを感じた映画鑑賞でしたが、もっと言えば、私たちが目指す「低炭素社会」に対しても同じようなことは言えるかもしれません。それは、やはりゲバラとフレディが目指した『新しい人間』になることではないか、と。 (低炭素ニュース&レポート10月号より)


http://eiga.com/movie/85425/

【批判ではなく敵認識を持て!】

坂本龍一氏を批判するつもりはないが、「体制批判」の限界性を現実は示しているように思える。ヘイトスピーチにしろ、ネトウヨ或いは政権与党の議員の言動にしろ、その「低レベルさ」を「体制批判」側は責め立てるのだが、相手には全然響いていない。それは彼らが”馬鹿”なのではなく、「体制批判」側を彼らは「(打倒すべき)敵」と認識しているからなのだ。北朝鮮のある意味での”強さ”はまさに国家・国民が相手(米国・”国際社会”)を「(打倒すべき)敵」という具体的な認識をしているからに他ならない。我が宰相、安倍晋三が先の都議選で言い放った「あのような人たちには負ける訳にはいかない」という”有名”な言葉は、彼の意識の「敵認識」を図らずも露出した訳だが、この「敵認識」が彼のある種の強さの要因ともなっている。「体制批判」側はいろいろな言動を行うが、その語調の強さに反比例し、たとえば国会前デモにしろ、相手を「(打倒すべき)敵」と認識しているとは到底思えない。『ポスト・マルクス主義と政治 根源的民主主義のために』の著者のエルネスト・ラクラウはこのような「敵認識」を「敵対性(agonism)」と言う言葉で説明している。彼によると「敵対性」とは「他者の現前によって自己の十全なアイデンティティが損なわれるという経験」であり、”表面的表層的な調和を求める”のではなくこのような「敵対性を基礎に置くことによってこそ真の民主政治が可能になるとしている。まさに「体制批判」側に欠如しているのは「敵認識(敵対性)」であり、これを持たない限り、民主主義を勝ち取ることは不可能ということだ。

http://lite-ra.com/2017/09/post-345...

現実と理想と立場、そして言葉と行動

 NHKBS1の「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」を視ました。サーロー節子さんは、先日の国連核兵器禁止条約締結へ向けて、自らの広島における被爆体験を語りながら、活動している一市民です。彼女は、カナダに在住で、カナダ各地の他アメリカなどでの講演を行っていますが、ニューヨークの高校での講演の終わりに、一女子高校生から「日本が他のアジア人を殺したことをどう思うのか」「原爆では10万死んだが、アジア人は日本によって1000万が殺された」という質問を投げかけられます。サーロー節子さんは、実は、その前から「自らの個人的な被爆経験だけを話すことでは、立場の違いを克服できないのではないか」という懐疑心と闘っていました。「どうすれば立場の違いを乗り越えることばを発することが出来るのか」ということを自ら自身に問いかけ続けていました。彼女は、その高校生にこう答えます。「広島・長崎を語るとき大切にしているのは、日本は被害者であり加害者であるという意識です。しかし大切なのは、どちらが悪いかではありません。殺りくそのものが悪なのです。」また、サーロー節子さんは、カナダの軍人出身の外務政務官ともカナダの核兵器禁止条約への参加を求めて面談します。そこでのやり取りで、外務政務官は、「(核兵器は)悲惨な武器ではありますが、軍事バランスの維持には必要だと考えます。今は(核兵器廃絶)は無理です」と答えます。それにサーロー節子さんは、「ではいつになったら(核兵器は)廃絶できるのですか?私たちと同じ人間が溶けて死んでいくなど、考えたくありません。あなたに想像できますか?核兵器はそれを引き起こすのです。」と問いかけ続けます。この時の外務政務官は、会談の最後に「あなたの行っている活動を否定する気はありません。あなたのような方がこのような活動を続けていくことが核廃絶に繋がることでしょう」と話しています。番組での二つの場面でのやり取りでしたが、「核廃絶」という“理想”を世界の“現実”が否定している姿が浮き上がるとともに、“立場”の違いがまた“理想”を否定していく姿もそこに見えて来ます。カナダの政務官は心ならずも自らの二面性(ダブルスタンダード)を吐き、ニューヨークの高校生も立場の違いからの歴史の見方の疑問を素直に出しました。

 さて、世の中は矛盾で満ちています。現実とは矛盾であり、立場の違いもまた矛盾です。もし、このような矛盾をみずからの「立場」から「現実」と言う言葉で遮るなら、矛盾は最後は“破壊”にょってしか解決されないでしょう。人間の歴史を振り返れば、確かに絶えず常に矛盾に見舞われて来ていますが、しかし、「今」と言うこの現実で「人類がまだ生きている」という事実は、見方を変えれば、人間が絶えずこの矛盾を避けることなく矛盾と向き合い、それを克服してきたからこそ、「今」という現実が存在している、と言えます。言葉を変えれば「矛盾こそ人間の進化発展の要因」とも言えます。そしてその矛盾と真正面に向き合う力とは、「変化(チェンジ)」という意識であり意志でしょう。カナダの政務官とのやり取りでの「いつになったらそれ(核廃絶)ができるのか」というサーロー節子さんの問は、「(核廃絶への)意志」を問うている訳です。そして、女子高校生とのやり取りの後にサーロー節子さんは彼女にこう話しかけます。「質問ありがとう。あなたの悲しみはよくわかりますよ。動揺させてしまいましたか。」生徒はこう答えます。「いいえ、あなたは私の質問に答えてくれました。」

サーロー節子さんは彼女が悩んだように、確かに被爆は彼女の個人的出来事ですが、それをどうすれば人類共通の意識と意志に繋げることが出来るのか、という壁の中でもがきながらも、その解決を“ことば”に求めている、ということがこの番組構成の主旨のようです。しかし、私は番組を視ながら、“ことば”として現れるのは表象であり、その“ことば”が生きるも死ぬも、やはり“ことば”を支える意識と意志、そしてそれを体現する行動こそが本質のように思えます。番組最期での国連でのサーロー節子さんの「CHANGE! Across the World」という“ことば“は彼女のそのような意志をまさに伝えていたように思えます。

 

<補論>

 言葉を命とするはずの政治家の言葉が、余りにもお粗末すぎる今の日本の政治状況を見るにつけ、サーロー節子さんの“ことば”の重みを感じます。この核兵器禁止条約議論の前に、核保有国とその恩恵を受けている国の記者会見がありましたが、アメリカのヘイリー国連大使と日本の高見沢軍縮大使の演説の言葉はいくら「現実」を訴えようとも、そこには矛盾を解決するという意志はみられず実に空虚なものでした。世界がいま、北朝鮮を挙げて戦争への道を突き進もうとしていますが、「反戦・平和」への意識と意志に裏付けされた“ことば”による具体的な行動こそが求められていると思われます。

救急搬送記

関わっているNPO活動の一環で行っている炭焼活動作業で怪我をして救急搬送され、丸二週間の入院生活を送りました。怪我は、除草中に自らの刈払い機(エンジン草刈機)で自らの足を切る、という悲惨ながらも無様な自損事故でした。原因はチップソーという丸鋸状の刃の緩みで機械全体が大きく振動、通称”肩掛け”という呼び名もある刈払機は必ず肩紐を装着して作業を行うことが原則ですが、横着にも紐掛けもせず、また振動時にエンジン停止という操作も行わずに”離した”ことで機械がキックバックにより、私めがけて「鋸刃が飛んできた」ことです。私はとっさに体を捻ったのですが、一瞬遅く、刃は私の左大腿部にぐさりと回りながら食い込んできました。その瞬間に傷の深さは認識できました。思わず切れた作業ズボンの中の傷を見ました。それは、今まで直接見たことのない、しかし確かに私自身の肉体を構成している生の“筋肉”でした。色は白かったように思います。現場から多量に出血する患部を押さえながらおよそ50メートルほど駆け下り、仲間に止血の要請を行い、足の付け根をとにかく縛り付け、119番通報。待つことおよそ30分。その間の私の心情は推して知るべし。とにかくショックの後の不思議な冷静さと激しい動揺の繰り返し。さて、救急隊員到着の声に少し気持ちが楽になり、彼らに身を任した時に、「後はすべて天命に従うしかない」と思いました。隊員は沈着冷静に私の傷口を判断。無線での「…収容。傷は・・裂傷・・・長さ20センチ、深さ5センチ・・・」という声が聞こえ、初めて自らの傷の客観的状況を把握し、これで「安心」と思ったのですが、しかし事は思わぬ方向へ展開したのです。いざ、搬出!という段階で、現場の地形(山中山道)では救急隊員持参の担架では危険、と言うことになり、山中専用担架(というのかどうか知りませんが)が必要なため「山岳救助隊を要請します」という救急隊の通知が為されました。後から考えれば、救急隊としては私の止血状態や傷の程度からして「緊急性」の尺度を下げ、より安全な搬送を選択したのですが、「天命に任す」などと思いながらも片方では一刻も早い処置を望んでいる私としてはある意味「寝耳に水」という気持ちで、また”覚悟の揺らぎ”が出て来ました。仲間の「大丈夫だ!」という励ましも、私の気持ちを代弁するような不安がわかるような声でした。その山岳救助隊が到着したのが、やはり30分後。担架は、よくテレビなどで見る山の遭難時に使用される「バスケット担架」というものでした。担架は救急隊員ではなく、山岳救助隊員によって担がれました。現場から道路までは、およそ100メートルほどの細い傾斜地山道を通っていかなければなりません。結局、担架から下され、”念願の”救急車に乗せられたのは、事故からおよそ2時間近く、また搬送先の病院到着時は3時間以上経ってからのことでした。後日談ですが、このように事故発生から病院着まで3時間もかかったとすれば、仮に切り口が動脈や顔面、首などであれば、「出血多量死」ということも充分考えられた様な事故であり、それが大腿部と言う体の中でも一番”肉厚”な部位であったということは「ラッキー」以外の何物でもない、というコメントを搬送先の医者から聞かされました。まさに「九死に一生」と言えるのでしょう。ちなみに私の不注意による事故によりかり出された救急隊員・山岳救助隊員はおよそ20名ほどいたそうです。これらの経済的コストは如何ほどだろうか、等と安静状態のベッド上で考えることが出来たのは、事故直後のあらゆる肉体的精神的動揺がとりあえず消えた手術後のことでした。

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