「都市は自然である」

 日野啓三という作家が「都市は自然である」と述べています。彼の言い分はこうです。「都市を非人間的だという人がいる。自然にかえれ、と叫ぶ人もいる。だが田園牧歌的自然は、私にはどうもなまなまし過ぎる、というか、閉じこめられた馴れ合いの息苦しさを覚えてしまう。宇宙にまで開かれた気分を覚えるのは、私にとってむしろ都市の中心部だ。岩だらけの山頂、砂漠の中に、それは通じている。都市から廃墟のイメージを通して、いま人類は宇宙の感覚を自分たちの意識にとりこみ始めているように私には思える」(日野啓三:『都市という新しい自然』)

 なるほど、という思いと「なぜ?」という思いがないまぜになったような気がしますが、彼の言うことをもう少し聞いてみると、「本来の自然→農村的自然(田園風景)→都会→都市(鉱物/逆説的に、最初の「本来の自然」に近づく)」(出典々)という一種の循環論のように聞こえます。彼は、「都市」と「都会」の違いも述べていますが、いわゆる郊外(牧歌的田園)も「都会」というジャンルに入れています。彼がこのような考えを示したのは80年代ですから、高度成長から安定成長に移り、都市公害から逃れるように郊外へ都市化が進んだ時代です。しかもこの時代に郊外へ行くことは過密による土地不足もあったのですが、住む側の人間の意識には、「非人間的都市から人間的自然がある郊外へ」という意識も結構強かったと思われます。このような時期にあえて、「都市こそが自然」と説いた日野啓三の思考は彼自身の経歴も含めて、人間存在の奥深いところから出ているように思えます。私も八王子高尾に住んで30年以上になりますが、「都市⇒人工、人間性の喪失・田舎⇒自然、人間的」という二元論で自分の住むところを見ていることは否定できません。しかし、彼(日野)の見方をあえて当てはめてみると、少し理解できそうな気もしてきます。

 人間が自然環境をほめたたえるのはあくまでも人間の勝手な一方的な片思いであり、自然はそのような人間の思いに律儀に応えることなどしません。言葉を変えれば、自然は「非情」であり「反抗的暴力的」です。一方、「自然環境が良い」などと言われる郊外或いは中山間においても人間同士の生々しい事柄が日常的に発生します。「どこへ行っても自分(人間)からは逃れられない」という主旨で自殺したヘミングウェイを思い出しますが、このような議論を超越する老子的思考に移れるのはごくごく一部の仙人的人間だけでしょう。科学技術の進展は、ロボット、IOT(Internet of Thing)など、人間疎外を同時に加速度的に進めている現代において、時折出かける都心の模様は、確かに、荒涼とした無機質の、そういう意味での「宇宙的」な環境とも言えます。日野啓三は自らの問いに具体的には答えていませんが、彼の著作の『夢の島』において、ゴミの集積した廃墟の島に捨てられたモノがその価値と意味を失い、ただただそのままにある状況を見て「迫力」と「荒涼と濃密な実在感」のあることを述べています。21世紀の益々混沌とした状況の中で、「戦争」「環境」「原発」「貧困」「格差」、、、、という人間だから持ってしまう「意味」というものを今一度考えさせられます。

<追記>日野啓三は「環境文学者」の先駆けと言われています。「環境」問題を物理或いは化学などの科学的観点からとらえるのではなく、「人間存在」という根源から捉えることから始まったのが「環境文学」ですが、その思考する対象と範囲は結構深いものがあるようです。一種のディープエコロジー(対語:シャローエコロジー)とも言えます。

 

<DAIGOエコロジー村通信6・7月号>