老子的生き方と炭焼

『天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私邪、故能成其私。
(天は長く地は久し、天地の能く長く且つ久しき所以のものは、その自ら生ぜざるをもってなり。故に能く長生す。ここをもって聖人はその身を後にして身を先んじ、その身を外にして身存す。その私無きをもってに非ずや、故に能くその私を成す)』

さて、のっけから漢文の原文で難解な文章を引用しましたが、何言っているのかさっぱり、というのが正直な感想でしょう。

そこで、現代風に訳すと、

「自然(天地)は大きいとか長いとかそのような尺度はない無限の物である。その理由は、自然(天地)が自分自身で自分自身を作ったものではないからだ。だからこそそれは永遠に続いてゆく。このことを知っている人は、自分が、自然(天地)の時間の最後にいながら同時にその先頭におり、また自然(天地)の空間の外側にいながら同時にその中心にいることに気づく。無限の巨大を前にして私の存在は無となるが、しかしそれによって始めて自分が自由な自分になるのだ。」

何とかわかるようですが、やはり何を言いたいのかわかりませんね。

そこで、大胆に私なりに例を挙げて勝手に訳(意訳)しました。

「長生きしたけりゃ何もするな!すべては天地に任せよ!それは無私の心によって成し遂げられる!ちょっと体調が悪いからと、すぐ病院へ行ったり薬を飲んだりしないことだ。天地(自然)が長くその存在を維持しているのは、自らに自らをどうにかしようという意思がないから、自然は永久の存在となっている。人間も「なんとかしよう!」という気持ちを捨て去り、自然にまかせれば、体もまた自然の摂理を取り戻すことができる。」

さて、ここまで訳したら少しは分かるのではないでしょうか。

これは古代中国の老子の言葉です。老子という人は実に不思議な人で、実在したかも判明していませんが、のちの「道教」は老子の教えとして中国全土に広まりましたが、同時代の孔子による儒教思想が当時の権力と強く結びついたことから異端としてその後から近代にいたるまで扱われています。科学技術が発展し、わからないものがないくらいにいろいろな知識が増えてくるごとに、「こうすればもっと良くなる」という考えが益々大手を振ってきますが、老子はその考えを否定し、極端に言うと、「何もするな」と言っている訳です。学問を学び、自然を理解したつもりになり、人類は進歩しているなどと思いながらも、病気や様々な不安はいつの時代も人間から消えません。あることが判明すれば、また新しいわからないことが出てきます。これは無限地獄のように続きます。西洋の哲学者のニーチェも同じようなことを「永劫回帰」という言葉で説明しています。ニーチェ老子は似て非なるところがありますが、根本にある老子の「無」とニーチェの「永劫回帰」に共通する思考は「放っとけ!」「自然に任せろ!」ということではないかと私は解釈します。

実は炭焼きにも似たようなところがあります。焼くまでの準備ではとにかく「いい炭を焼く」為に最大限の努力をしますが、窯の中に入れて火を入れた後からは、人間の直接的な作為はほとんどできません。空気の出し入れという行為はありますが、「炭化する」ことと「いい炭化を目指す」ことには根本的な違いがあります。「炭化する」ことは人間が作為するのではなく、「自然の力によって炭材が変化する」ことです。窯の中を「自然」と考え、炭材を「人間」と考えればどうでしょうか。炭材(人間)だけで炭になる訳ではなく、自然との作用によって炭ができるとすれば、人間も自然との絡みの中で自らを見出すことができるのではないでしょうか。