貧者と富者の戦い

資本主義が産業制から金融制に移行した時、利潤を産む原資も労働剰余価値から金融利子価値に変わった。それを可能にしたのは「生かさず殺さず」という収奪論理が「殺しても構わない」に変わったからだ。従って国家の再分配機能も「富者→貧者」から「富者←貧者」に一方的に固定された。しかし、固定された貧者が未来永劫に再生産されることは不可能だ。貧者が存在しなければ成り立たないのであれば、貧者の再生産の場を富者に求めることになる。こうして、貧者は相対的なものとなり、富者といえども日々貧者とならぬ戦いを強いられる。この戦いは何びとも避けることは出来ない。福島の復興という言説は、国家の古い再分配機能の幻想であり、実態は新たな貧者の再生産であり、貧者に堕すると思われた東電を富者にしたままだ。国家の再分配幻想の破綻はアベノミクスでも明白だが、「殺しても構わない」という論理に支配されている安倍政権は避難民の故郷帰還という行為を恥じることなく行っている。竹中某は「貧乏人になる権利」とまで言い切ったではないか。しかし、彼らのその言動は自らも貧者に陥る可能性を否定できないからであり、このような富者(権力者)の自己矛盾は世界的なものだ。そういう意味ではカルロス・ゴーンも或はトランプ、安倍さえも富者同士の戦いに挑まざるを得ないのだろう。しかし、このような富者が一番恐れるのは貧者の「死んでも生きるのだ!」という文字通り「決死」の覚悟が顕在化し、組織化されることなのだ。