病は気から~人も国も~

先日、右目が急に薄い膜に覆われたかと思うと、視界に糸のような雲のようなものが現れる、いわゆる飛蚊症が起こり、また視界というか目玉の中から稲妻が走る症状が現れました。これまで経験したことのないことだったので、正直気が動転してしまいました。私は、通常「病気は病院で作られる」という偏見を持っており、「何があっても病院へは行かぬ」、という信条(心情)の持ち主です。とはいえ、一昨年は山作業で怪我をして救急搬送され手術と2週間の入院を余儀なくされましたが!!まぁこれは例外ですが(笑)。とりあえず、気を取り直して翌日、いやいやながらも眼科へ行きましたが、眼科へ行くか行かないかの決心が付くまでのおよそ一昼夜、「不安な気持ち」との葛藤が続き、全く気が滅入ってしまい、ついには体中が不定愁訴に見舞われ、文字通り「病気」になってしまいそうでした。検査の結果は「異常なし」でしたが、人間はちゃっかりしたもんで、診断が出た途端、食欲旺盛、気持ちも非常にアグレシッブになりました。こんな経験は誰でも大なり小なりあることでしょう。そこで少し考えました。「なぜ不安になったのか」と。今回は、症状をネット検索して出てきた不安材料が「網膜剥離で失明(の可能性)」というフレーズにまず心(気持ち)が即反応、頭の中で失明した自分自身を”想像”し、そしてそれが「妄想」を”創造”してしまった。そしてその妄想は「(失明の)可能性」という一見合理的な言葉にその根拠を与えられ、いつの間にか「現実的な問題」に”格上げ”されてしまった。そのような心理状態の経過が、目以外の身体の各所に通常ならざる状態(不定愁訴)を作り出し、それがまた別の妄想を生むというスパイラルに陥ってしまった。例えば、「失明(の可能性)」が「死(の可能性)」だった場合、心身のパニックはもっとひどいものだったことは容易に想像できます。私の場合、眼科医からの言葉がまるで魔法の言葉として私の不安を取り除いたということは事実としてありますが、だから「これからは何があっても病院(医者)を信じよう!」ということには実はならない。それよりも、ある一言が気持ちを180度転換させるという人間の心理状態こそが問題なのではないか、ということに着目したい。魔法の言葉は医者でないと出せないのか、或いは医者が出した言葉だからこそ魔法の言葉になるのか。このように思考を持っていくと、例えば、国が「戦争の危険性を煽る」ことで、国民に不安が広がり、そこに断片的な事実情報(領海を越えた、レーザーで照射したetc)を媒介に、「(戦争の)可能性」という「妄想」が何か根拠をもったものとして創造(想像)されていく。合理的思考が結集したと思われる国会で国家のトップがさも見たようなケースを具体的な話として持ち出し、「そんなことがおきたらどうするのか」とまた煽る。これとは全く逆の例が原子力発電事故ではないか。原発放射能の危険性は科学的にも合理的にも考えられるものでありながら、いわゆる専門家或いは政治家という人間の「危険はない」という一言が魔法の言葉のように本当は考えられる危険性を消してしまう。簡易に考えれば、「他人の言葉など耳を貸さずに自分自身だけを信じて生きていけ!」などという尤もらしい格言に従いたい気持ちにもなりますが、社会的に生きている以上仙人にでもならない限りそのようなことは現実的ではありません。このように、我々の世界を支配しているものにはそのような心理というものもあるように思えます。ところで「病は気から」という言葉に科学的根拠を与えようとして、北海道大学が分子レベルでの研究を行ったというニュースが以前ありましたが、国の病も果たして解明できるのでしょうかね。或いは、我々は自分自身を100%信じれない限り、その代理人としての政治家、宗教家、科学者等々の魔法の言葉に「生殺与奪」を託すのでしょうか。

 

<DIAGOエコロジー村通信2019年2月号投稿>