情報機器と情報危機

7月末に、使用しているパソコンがマルウエアというウイルスに感染、対策をいろいろ講じましたが、結局再インストールしかない、という状況に陥った直後、今度は携帯を紛失するという事態が発生しました。さすがに事態発生直後は少々あわてましたが、「これは(ライフスタイルを変える)いい機会」とばかりに、再インストール作業も携帯捜索も一切やらない、と決めたのですが、決心した瞬間から、自らの生活基盤が完全に「情報機器」に依存していることに改めて気づきました。
 その依存も自主的能動的依存というよりは、そうせざるを得ないまさに隷属状態であることにも衝撃を受けました。思い起こせば、単なる文書作成あるいは軽易な演算を行うスタンドアローンとしてのパソコンが、ネットワークという「情報通信」機器に進展した結果、「便利と効率」という概念に支配された状況が発生しました。今では死語となっている「マルチメディア」という概念は当時はまさに「夢の世界」であったのですが、あっという間にその世界は達成され、その後の世界は、現在の「国民皆スマホ保有」ともいうべき状況になっています。私が思い立った「ライフスタイルの変更」は、この社会というものと根本から決別しない限り不可、ということを思い知らされたわけですが、これを嘆くのではなく、いわば「歴史の流れ」として捉えるという見方は西洋合理主義的には間違っていないと思われます。 つまり、これらの情報機器はまさに科学技術の進展の結果であり、その結果が次の状況の原因となり、新たな状況を生んでいくという、「原因と結果」の尽きることない永久の流れが「歴史」であるという認識ですが、スマホもその流れの中に位置づけられるわけで、すなわち西洋合理主義的思考としては、現在の状況を肯定的に受け止めなくてはならない。その西洋合理主義が生んだ最大最強のイデオロギーである資本主義システムの中に、「情報機器」を媒介として、まさに「便利と効率」を追い求める社会システムが存在しており、そのシステムの一つの構成単位として人間が存在している。これは、社会システムのために人間が存在するのか、人間が存在するために社会システムがあるのか、という真逆の問題を含んでいるように思われます。
 先述の「原因と結果」を歴史の根本原理とみるならば、そもそも「原因」を形作る「意図・動機」というものがあるはずであり、状況論的に歴史を見るのではなく、人間として生きるとはどういうことなのか、という「意図・動機」への思考とその解明も必要に思われます。「意図・動機」の思考と解明が自らの「ライフスタイル」を主体的能動的に形作られることができるのではないか、という思いに至らせてくれた、私にとっての「情報機器」ならぬ「情報危機」の経験でした。