西郷隆盛・ルソー・マルクス

今年は、「明治維新150年」「マルクス生誕200年」と日本と世界の歴史に関わるメルクマールの年でもあります。維新における西郷隆盛(1828~1877)と近代ヨーロッパ変革期のK.マルクス(1818~1883)は一見関わりが見られないように思えますが、その生きた時代とほぼ近い年齢という共通点のみでなく、その思想の根源にともに近代の創始者の一人ともいえるJ.J.ルソー(1712~1778)という存在があります。西郷隆盛とルソーという取り合わせは、余り論じられたことはないので、「えっ」と思うかもしれませんが、「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民(1847~1901)は西郷隆盛を「革命家」として高く評価、また兆民の弟子で「九州のルソー」と言われた自由民権運動家・宮崎八郎(1851~1877)は西郷隆盛を支援、西南戦争に参加(戦死)しています。ちなみにこの宮崎八郎の弟が孫文とともに辛亥革命を闘った宮崎滔天です。一方、近代社会に対して大きな疑問を投げつけ、世界史において大きな足跡を残したK.マルクスの思想の根本にもルソーの考え方が大きく影響しています。マルクスの盟友、F.エンゲルス(1820~1895)は「ルソーと資本論は瓜二つの考え方である」と述べています。西郷の「敬天愛人」、ルソーの「自然に還れ」、マルクスの「完成した自然主義として人間主義であり、完成した人間主義として自然主義である」という格言に共通するものは「人間」であり「自然」ということでしょう。ルソーやマルクスは「人間の自然状態」として古代ギリシアを念頭とした原初共同体、一方の西郷は東洋思想の儒教的垂直価値観でありながら、「天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也」(南洲翁遺訓)という考えであり、西郷の「天」とは権力の頂点を示すものではなく、まさに人間存在の根本としての「自然」を指すものです。しかし、ある意味、現実の社会においてこのような考えは「理想」であり、そこへ至る道程が示されようと、「理想」に対する「現実」側からの圧力は相当なものであったはずです。何故なら、「理想」がもっとも憎んだものは「現実」における「不正」「不平等」であり、人間の人間による支配を否定するものだからです。西郷もマルクスも、そしてルソーも、そのような「現実」を「理想」に変え得る手段として「革命」を志向した共通項があります。「革命」という表現からはどうしても表層的に「武力・暴力」という手段イメージが先行しがちですが、特に西郷の場合は、「革命」の言辞的意味における「天命が革まる」ことへの徹底的な自己同化があるように思えます。小説家の海音寺潮五郎は西郷のことを「永久革命家」と称していますが、マルクスが呼びかけた「永続革命」とも通じるものがあるのでしょう。現代社会がグローバル化による混迷の度合いを深めつつある今、「(世界は、私は)どうあるべきか」を問うとすれば、流行のAIにそれを求める以上に、歴史的メルクマールとしての100年或いは150年、200年はどの時代においても共時的に通用する価値を有していると思え、現代において、今一度、西郷隆盛、K.マルクス、J.J.ルソー、そして中江兆民、宮崎八郎等の思想と行動を検証することの価値はおおいにあるように私には思えます。