非風非幡非心(ひふうひばんひしん)

国会の証人喚問をご覧になり、追求する側(野党)と証人のかみ合わない議論答弁に、野党側に立つ立場、或いは証人擁護の立場に関係なく、頭だけでなく心も疲れたような気になる方は結構多いことでしょう。目に見える事件の物的証拠ではなく、「人の心」というものをある意味、問うている部分があるからでしょうが、私も(証人喚問を見聞きして)正直、随分疲れてしまいました。何故疲れるのか、いろいろ考えているうちに、禅における公案(いわゆる禅問答)の中の、「非風非幡(ひふうひばん)」という話を思い出しました。「幡」とは「旗」のことでよくお寺になびいている長方形の色鮮やかな布のことですが、その幡を風が吹き上げていました。これを見ていた二人の若い僧が議論を始めました。一人は「幡が動いている」と言い、もう一人は「イヤ風が動いているのだ」と言って互いに譲りません。そのやり取りを見かねたある人が「幡が動くのでも、風が動くのでもない。お前さん方の心が動くのだ。」と言い放しました。その若い二人の坊さんは身震いしました。という話で、ちなみにある人とは慧能(えのう)」という禅のえらいお坊さんです。国会に限らず、あちこちで論争はあるものですが、確かに「ああでもない、こうでもない」という議論をよくよく考えると、言葉上の理屈(理論)の元にあるのは「人の心」です。すべてのものはその「人の心が作り出す」というのは、「三界唯一心」「心外無別法」という曹洞宗道元の教えですが、それにしてもまだちょっと納得がいかないのは、やはり私の「心が動いている」からでしょうか。しかし、実はこの話はまだ終わりません。慧能の弟子筋にあたる「無門慧開(むもんえかい)」という禅師は、この話に「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない、また心が動いているのでもない。慧能の真意は果たして何処にあるか?」とさらに問いかけを行います。「動く」という観念の奥をもっと踏み込んで、そこに意味を求めているのです。二人の僧はともに同じ状況(事実)を見ながらも、「幡が風が」と言い争っているのですが、それを「心が動く」で説明すると、やはり「動く」ということになり、ではその心を「動かすものは何か」という疑問が湧いてきます。まさに禅の公案とは底なし問答で、頭が益々痛くなったような気になりますが、国会論戦の疲れを何とかとらないといけないという思いも強く(笑)、自分なりに無門慧開の問いかけに答えを出したいと、はたまた意識をそこに集中してしまうという愚かな”行為(思考)”の末に出した私の結論は、「まぁ、どうでもいいか」ということでした(笑)。観念とか理論というものは突き詰めると「無」であるということでしょうか。国会の与党野党、或いは証人さん達も実は「無の中に有を求めている」と言えるかもしれないと思うと、少しは疲れが取れたような気がします。