「超近代的個人主義」の胚胎と台頭

世界の不安定を政治或いは経済的視点から見る論考は嫌と言うほどあふれかえっていますが、少し角度を変えて「個人主義」という観点から眺めるとなかなか面白い分析が出来そうです。そもそも「個人主義」という考えがそれなりに体系化されたのはやはりフランス革命前後がその起源となり、いわゆる「近代個人主義」と呼ばれています。その「近代個人主義」が人権思想や平等思想を生み、そこから”近代”民主主義が生まれましたが、民主主義を政治的視点とすると経済的視点からは、個人主義自由主義が結びついた資本主義も生まれて来たと言えます。もう少し言えば、この個人主義を捨象・揚棄したものが共産主義社会主義)かもしれません。しかし、いずれにせよ、現代社会を思想的に貫徹している(と思われる)民主主義と資本主義の生みの親は「”近代”個人主義」ということが出来そうです。この思想を現実的に体現しているのが、何を言おう「アメリカ合衆国」です。第二次大戦以降、冷戦勝利を経て、まさに「我が世の春」を謳歌し、フランシス・フクヤマに『歴史の終わり』という著作を書かせたアメリカが今まさに世界の矛盾と不合理・非条理な存在の中心となっていることは、論を待たない事実でしょう。「近代個人主義」が掲げた理想の自由と平等が、貧富の格差の拡大と封建的身分制度の再来のような特権階級を生んでいる事実は、非常に皮肉なものです。「それは個人主義と利己主義を間違えたものであり、本来の個人主義とは違う」という意見が聞こえて来そうですが、確かにその通りだと思います。が、ことはそれほど論理形式上の問題ではなく、現実的に「貨幣」というものが介在する限りは、「個人主義」は「利己主義」にならざるを得ないのではないだろうか、というのが私の感想です。本論において突然飛び出した「貨幣」ですが、「私的所有」を絶対視する「個人主義」がある限り、「貨幣の私的所有」が他者との相互依存において、本来なら「個人」の従属物であるはずの「貨幣」が人間を従属させるという逆転が生まれてしまったのではないか。マクス・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』によれば、神との間の教会という共同性を否定し直接神に対置する人間をおいたプロテスタンティズムは強烈な「個人意識」を生んでいきます。そのことからも「個人主義」と「貨幣」にはある種の親和性があるのかもしれません。資本主義の矛盾をはからずも露呈している現代社会は同様に民主主義の矛盾も表出させました。この矛盾からの脱却に、単純にグローバリズム的思考そして志向は意味が無いように思えます。先日の暗号通貨流出問題に人間歴史的課題がもし含まれるとすれば、社会を構成する一人一人の我々の内面を含む「超近代的個人主義」が生まれつつあるのかもしれません。

<補論>

個人主義」の矛盾についてはルソーの社会契約論あたりから「個」と「全体」の関係として「個」を相対化していく努力が図られています。夏目漱石は『私の個人主義』において「自由と義務」「自由と道徳」を論じたうえで「自我本意」という心境にたどり着いたことを述べていますが、そのような一人一人の「自我本意」が「共同」に結びつける思考に非常に近い技術として、暗号通貨流出問題でクローズアップされた「ブロックチェーン」をみることができるのではないか、という仮説を立てているところです。

 

<低炭素都市ニュース&レポート2月号より>