明治維新150年に思うこと①

今年は明治維新150年である。1年かけて継続できるかどうかわからないが、自分なりの維新観とその総括を行いたいと思う。今回はその第1回めだ。

“維新”の実態とは未だにわからず仕舞いでここまで来たわが日本である。私は鹿児島生まれで、幼少時からの薩摩教育から明治維新以降の日本を“薩摩史観”で見てきた。しかるに、150年を経た今、「歴史に学ぶ」と言う姿勢に異論はないだろう。であれば、敢えて近代合理主義的弁証法で歴史を振り返ることも問題はないだろう。簡単な話が、人生65年の間、無意識の世界で脈々と流れている“薩摩史観”をまずは否定した上でアウフヘーベするという手法を取ることにした。

 “維新”以降の日本の「国体」を決定づけたのはいわゆる薩長同盟による談合支配である。しかるにその実態は、薩長同盟と言いながら、ほとんど長州による支配が文字通り今まで続いているのである。薩摩は西郷隆盛西南戦争で“維新”のエネルギーをほとんど費やしてしまった。長州から見れば、「うまくやった」という心境だったのではないか。しかし、ことはそう単純ではない。長州と結託した大久保利通という人物がいる。鹿児島(薩摩)においては、大久保は未だに「裏切り者」である。だがしかし、大久保の深謀遠慮を薩摩の人間は今一度見ないといけない。なぜ大久保が紀尾井坂で暗殺されたのか。首謀者は石川県士族の島田一郎ら6名により惨殺されたということになっているが、その石川士族をけしかけたのは長州にほかならない、と私は思う。単に征韓論の仲たがいが原因のように触れ回るのは、長州の謀略である。残念ながら、確かに鹿児島(薩摩)においても、西郷と大久保の関係をこのような表象的な見方でみていることは、鹿児島人のなんとも情けないことである。人間死ぬ時は、自ら命を絶つか、或いは自ら以外で命を絶つか、の二通りしかない。自ら命を絶つことはそうでない輩と比べるとほんのわずかなものだろう。「生きることに執着する」ということは、言葉を変えれば「たとえ友を裏切ろうと自分だけが生きていれば良い」という思考だ。しかし、いくら「生」に執着しようと生物である限り、その命は有限なものだ。その有限性に執着してさえ、他人から命を奪われるということがある。「暗殺(テロ)」がそれだ。私は暗殺された歴史上の人物を全て肯定する立場だ。自ら命を絶つことと、「暗殺」は殆ど同義語と言ってよい。西郷は自ら命を絶ち、そして大久保は暗殺された。“維新”の立役者の両名がいなくなった後は、まさに長州の天下である。どうでもよい伊藤博文などがさも大人物のように振る舞えるのも、西郷・大久保がいなくなったからではないか!その後の明治政府の行く末は、第二次大戦(太平洋戦争)での敗北に至るまで、すべて長州の恣意的政治が成せる業だ。今の安倍晋三を見れば一瞭然ではないか!繰り返しになるが、薩摩は西南戦争で革命精神を全て失ってしまった。革命精神を失ったあと、西郷・大久保に付き従った、大山巌東郷平八郎黒田清隆五代友厚、村橋久也(サッポロビール創始者)、森有礼牧野伸顕(大久保次男)、西郷従道(西郷弟)、、、、、、とにかく数え上げればきりがないが、これらの輩は革命精神を失った連中である。ちなみにあの品の無い麻生太郎牧野伸顕の長女(雪子・吉田茂の妻)の孫(大久保のひ孫)である。太平洋戦争(大東亜戦争)での敗北も長州(陸軍)がヘゲモニーを握ったからであることは明白だ。(薩摩は「海軍」を握った)

 ここまでは、一方的に長州を攻めたが、安倍晋三のいい加減さをみるからこそ、長州を非難する訳であり、“維新”そのものを成し遂げた功績は素直に評価しないといけないだろう。私が思うに、“維新”はすべて偶然の賜物であったと思う。薩長とも、目指したものは「公武合体」であり、やはり武家社会の継続をねらっていたのである。しかし、いわゆる世界帝国主義列強による外圧は、その目標とした「公武合体」を飛び越え、あっと言う間に「脱亜入欧」というイデオロギーに変換してしまった。言葉を変えれば「狂気の沙汰」なのである。ブレーキが利かなくなった長州は、吉田松陰高杉晋作と言う狂気を生んだ。長州の狂気はある意味革命的である。それに比して。薩摩に足りないものはまさに「狂気」だ。西郷も大久保も「狂気」とは縁遠い。だがしかし、そもそも西郷・大久保を輩出した薩摩(鹿児島)は、個人的には狂気は見えずとも、集団的狂気はあるように思える。個人的狂気(長州)に対する集団的狂気(薩摩)だ。今の日本は安倍晋三という個人的狂気が跋扈している。個人的狂気もそこに発展性があれば、それは大きな渦となり、世界を社会を状況を根本的に変え得る力となるが、安倍晋三の狂気はまさに発展性のない狂気にすぎない。広い日本であるが、今の世界が陥っている混沌(カオス)を打ち破るには「狂気」が必要だ。D.トランプも「狂気」を持った人間だ。但し、安倍晋三と同じ発展性のない個人的狂気か、或いは世界を変え得る「狂気」となるか、見ものである。

 さて、話をもとに戻そう。私が言いたいのは、西郷・大久保が意識的にせよ、無意識にせよ、二人の間にある「あうん」というものを今一度見直せ、ということである。それは、先述した「自ら死ぬ者」と「他から殺される者」の暗黙の了解に基づく意志一致を自らのものとし、自らが「自ら命をたつものなのか」或いは「他から殺されるものなのか」の見極めをやることだ。民主主義とは便利なものである。自らを安全な場において、何をしゃべろうが口舌の輩であろうが許される。否、どころか評価される。己の存在を賭けるという厳しさ、だがしかし、そこにこそ「狂気」とそして人間存在の「真理」がある。今一度、世界に目を向ければ、狂気にまみれた人間ばかりであるが、金正恩の狂気とトランプの狂気、安倍晋三の狂気を敢えて比すと、発展性(革命的)のある狂気は金正恩であろう。狂気とは理屈ではない。狂気比べを行った場合、そこに時代の歴史の突破者を感じるとすれば、金正恩に勝るものはいないだろう。だが残念ながら、多くの人間は「自ら命を絶つ」ことも無ければ、「他から殺される」こともほとんどないだろう。

※本論は歴史的事実から、私個人が、維新から現在に至る様々な事象について、勝手気ままに思ったことの叙述であり、議論すべきものではない。ただ、少しでも同意が得られるのであれば、個人的には嬉しいことである。