アリとキリギリスの話

正月最初にふさわしい話は無いかと、あれこれ考えていましたがなかなかこういう時は見つからないものです。書くこと自体を目的とすると余計な邪念が入って来るからでしょうか。先月「気分」と言う題で書きましたが、今月も新年を迎えながら余り気分が乗らないのは「正月疲れか」と思ったのですが、よくよく考えるとどうも「(もう)働きたくない」という意識があるようです。2、3年前ですか、P.ラファルグというフランスの思想家の『怠ける権利』という話を書いた覚えがありますが覚えている方もいらっしゃるでしょうか。彼は「労働はせいぜい1日3時間で良い。後は好きなことをやれ!」と非常に魅力的且つ誘惑的な言辞を吐いているのです。ちなみに彼はなんとあの労働の神様、カール・マルクスの娘婿にあたる人物です。そのことを思い出した時に、またふと「イソップ物語」の「アリとキリギリス」の話が頭に浮かびました。この話は皆さんがご存じのように、夏に一生懸命働くアリと逆にバイオリン弾きながら歌ばかり歌って好きなことばかりやるキリギリスとが冬になり、片方は満足する食糧の中で、もう片方は全く食べるものがない、という状態で出会い、片方(アリ)が「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだい?」と食べ物を分けることを拒否し、キリギリスは飢え死んでしまうというお話です。このイソップ物語には改変された話がじつはもう二つあります。夏と冬の状況は同じですが、結末が違います。一つは、アリが憐みの心をもち、キリギリスに食糧を与えキリギリスは心を入れ替えるという話です。もう一つは、かなり残酷逆転する話です。少し小太りになったアリが「食べるものがないのは自業自得だよ!」と言ったその後になんと、キリギリスがアリをムシャムシャと食べてしまいました。アリがキリギリスにはとても美味しそうに見えたので、食べてしまったのです。キリギリスはアリを食べた後、アリの家をハチやチョウチョに解放して楽しく過ごしたそうです。めでたし、めでたし、、、、、、、。いやぁ、なんともはや物語とは面白いものですね。イソップ物語古代ギリシア時代の寓話から始まり、その後歴史の中でいろいろな解釈や改変がされているようです。先ほどの3つの話のうちの前の2つの寓意は、「将来への危機の備え」と「独善的アリの生き方」「餓死困窮者への憐み」などがありますが、最後の3つ目の寓意ははてさて何だろう、と考えさせます。「太らせてから食う」という言葉がありますが、そのような意味にも採れますが、もっと深く考えれば、現代の社会、いわゆる新自由主義的社会の富の偏在と貧富の格差の話とも取れそうです。働くだけ働かせてその富を引っさらっていくごく一部の者たち。ちょっと考えすぎでしょうか。アリとキリギリスの話を、「人間の生き方」という点から捉えると、これまでの「働くことの尊さ」という至極当然のモノとして考えていたことにも少し疑問が湧いていませんか。先ほどのP.ラファルグが唱えた「怠ける権利」という言説もあながち否定できません。現政権は私たちのある意味”個としての権利”とも言える「私の生き方」にまで「働き方改革」などという言葉を持ち出し干渉しようとしていますが、さて、新年の始め、あなたは今年どのような「働き方」否「生き方」を目指すのでしょうか。