<暴露と狂気と革命>

事務次官に次いで強姦被害者が相次いで政権側に対して「暴露行為」を行った。「暴露」とは動物的行為でありそこには何らかの「快感」が存在することから、「理性」或いは「道徳」の側からは暴露行為を批判する根拠としている。しかし、この両者の暴露は他人を暴露するのではなく「自己暴露」であり、「秩序」から見れば「狂気」と思われるものだ。なぜ、社会的地位を持つものがそれを捨ててさえ「自己暴露行為」を行うのか。単なる「正義感」だけではないだろう。「復讐心」もあろう。人間はそれほど高貴な存在ではない。社会とは、「正気」と「狂気」が絶えず入り混じりながら存在するものであり、「正気」も「狂気」も絶対的価値ではない。「暴露」と「情報公開」の間には本質的な差異は無い。あるのは、個人の論理と組織の論理の違いだけだ。しかし、その落差は天と地ほどの差がある。「革命」とは「秩序の破壊」である。「秩序」とは組織の論理以外の何物でもない。組織の論理に対して組織で対抗するのが「政治」だとすれば、個人の論理で「秩序」に刃向う行為とは一体何か。それこそ「革命」の本質と言えないだろうか。すなわち、「正気」と思われているものに対する「狂気」の側からの闘いとして「自己暴露」がある。集団となれば「狂気」は「正気」となる。安倍の狂気が正気として堂々とまかり通っていることがその証左だ。安倍の集団的狂気に対して個人の「正気」での抵抗は無駄だ。個人の「狂気」と言われる「自己暴露」がアチコチから出始めることが「革命」へとつながる発火点となるのではないか。