パスカル『パンセ100』における”彼”とは!? 

パスカルの『パンセ』にこういう文章がある。ちょっと長いが読めば読むほど今を時めくあの人物の像と寸分違わないことに驚きと納得がある。ちょっと長いが紹介する。

「・・・・彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。 幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る。 人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。 彼が当面するこの困惑は、想像しうるかぎり最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。 なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみを いだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅 できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言かえれば、自分の 欠陥を、自分に対しても他人に対しても、おおい隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、 他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。」(パスカル『パンセ100』)

パスカルは人間一般における「自己愛」について上記のような考えを表明しているのだが、これほどピッタリの表現は現代においても”問題の彼”を評する諸々の論の中には見当たらない。

果たして「彼」とは誰ぞや!上記の文の「彼」に固有名詞を当てはめるとわかるのではないか!もちろん自分自身も含んでのことだ。