現実と理想と立場、そして言葉と行動

 NHKBS1の「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」を視ました。サーロー節子さんは、先日の国連核兵器禁止条約締結へ向けて、自らの広島における被爆体験を語りながら、活動している一市民です。彼女は、カナダに在住で、カナダ各地の他アメリカなどでの講演を行っていますが、ニューヨークの高校での講演の終わりに、一女子高校生から「日本が他のアジア人を殺したことをどう思うのか」「原爆では10万死んだが、アジア人は日本によって1000万が殺された」という質問を投げかけられます。サーロー節子さんは、実は、その前から「自らの個人的な被爆経験だけを話すことでは、立場の違いを克服できないのではないか」という懐疑心と闘っていました。「どうすれば立場の違いを乗り越えることばを発することが出来るのか」ということを自ら自身に問いかけ続けていました。彼女は、その高校生にこう答えます。「広島・長崎を語るとき大切にしているのは、日本は被害者であり加害者であるという意識です。しかし大切なのは、どちらが悪いかではありません。殺りくそのものが悪なのです。」また、サーロー節子さんは、カナダの軍人出身の外務政務官ともカナダの核兵器禁止条約への参加を求めて面談します。そこでのやり取りで、外務政務官は、「(核兵器は)悲惨な武器ではありますが、軍事バランスの維持には必要だと考えます。今は(核兵器廃絶)は無理です」と答えます。それにサーロー節子さんは、「ではいつになったら(核兵器は)廃絶できるのですか?私たちと同じ人間が溶けて死んでいくなど、考えたくありません。あなたに想像できますか?核兵器はそれを引き起こすのです。」と問いかけ続けます。この時の外務政務官は、会談の最後に「あなたの行っている活動を否定する気はありません。あなたのような方がこのような活動を続けていくことが核廃絶に繋がることでしょう」と話しています。番組での二つの場面でのやり取りでしたが、「核廃絶」という“理想”を世界の“現実”が否定している姿が浮き上がるとともに、“立場”の違いがまた“理想”を否定していく姿もそこに見えて来ます。カナダの政務官は心ならずも自らの二面性(ダブルスタンダード)を吐き、ニューヨークの高校生も立場の違いからの歴史の見方の疑問を素直に出しました。

 さて、世の中は矛盾で満ちています。現実とは矛盾であり、立場の違いもまた矛盾です。もし、このような矛盾をみずからの「立場」から「現実」と言う言葉で遮るなら、矛盾は最後は“破壊”にょってしか解決されないでしょう。人間の歴史を振り返れば、確かに絶えず常に矛盾に見舞われて来ていますが、しかし、「今」と言うこの現実で「人類がまだ生きている」という事実は、見方を変えれば、人間が絶えずこの矛盾を避けることなく矛盾と向き合い、それを克服してきたからこそ、「今」という現実が存在している、と言えます。言葉を変えれば「矛盾こそ人間の進化発展の要因」とも言えます。そしてその矛盾と真正面に向き合う力とは、「変化(チェンジ)」という意識であり意志でしょう。カナダの政務官とのやり取りでの「いつになったらそれ(核廃絶)ができるのか」というサーロー節子さんの問は、「(核廃絶への)意志」を問うている訳です。そして、女子高校生とのやり取りの後にサーロー節子さんは彼女にこう話しかけます。「質問ありがとう。あなたの悲しみはよくわかりますよ。動揺させてしまいましたか。」生徒はこう答えます。「いいえ、あなたは私の質問に答えてくれました。」

サーロー節子さんは彼女が悩んだように、確かに被爆は彼女の個人的出来事ですが、それをどうすれば人類共通の意識と意志に繋げることが出来るのか、という壁の中でもがきながらも、その解決を“ことば”に求めている、ということがこの番組構成の主旨のようです。しかし、私は番組を視ながら、“ことば”として現れるのは表象であり、その“ことば”が生きるも死ぬも、やはり“ことば”を支える意識と意志、そしてそれを体現する行動こそが本質のように思えます。番組最期での国連でのサーロー節子さんの「CHANGE! Across the World」という“ことば“は彼女のそのような意志をまさに伝えていたように思えます。

 

<補論>

 言葉を命とするはずの政治家の言葉が、余りにもお粗末すぎる今の日本の政治状況を見るにつけ、サーロー節子さんの“ことば”の重みを感じます。この核兵器禁止条約議論の前に、核保有国とその恩恵を受けている国の記者会見がありましたが、アメリカのヘイリー国連大使と日本の高見沢軍縮大使の演説の言葉はいくら「現実」を訴えようとも、そこには矛盾を解決するという意志はみられず実に空虚なものでした。世界がいま、北朝鮮を挙げて戦争への道を突き進もうとしていますが、「反戦・平和」への意識と意志に裏付けされた“ことば”による具体的な行動こそが求められていると思われます。