【地方自治の本旨】

都議選が始まる。現知事が政府与党を離党したとか、オリンピックへの国の関与とか、とかく我が国の政府と地方の関係は、戦後の一時期を除き中央集権体制ががっちりと維持されている。そのことを地方自治に携わる政治家、行政役人はおろか、住民さえも「当たり前」のように思っている。水戸黄門を人格者としてあがめるような国民だからその意識は相変わらずの「封建思考」から脱していない。経済発展を遂げ、いかにも先進国のような顔をしているが、昨今の安倍政治の行為とその支持率の関係がそのことを物語っている。

憲法第8章は地方自治について述べているが、その92条は『地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基いて、法律でこれを定める。』となっている。「地方自治の本旨」とは何か。地方自治の本旨とは、その地域における統治は中央政府機関によることなく、その地域の住民自身によって行われることである。すなわち、中央政府に干渉されることなく、地域住民が自由に自らの意思を決定して行われることを「地方自治」と呼ぶのだ。

しかし、翻って、如何ほどの自治体がこの憲法に沿う「地方自治の本旨」に基づいた行為をおこなっているか。「沖縄」「原発」を見るまでもなく、全自治体に網の目のように張られた中央集権の仕組みの構造は広く深い。そもそも「国政が変われば地方も変わる」というお上思考が与野党問わず、保守・革新問わず、あるように思えるが、実はその逆ではないか。「地方を変えることが国政を変えること」に繋がるというのが現代政治の課題のような気がする。自らの足元(地域)を見ることなく、一方的に流される大きなトレンドとしての「グローバル民主主義」を「本旨」と捉えてないだろうか。

『人民の人民による人民のための政治』とは言い換えれば、『住民の住民による住民のための政治』ということである。21世紀をルネサンスに例える多くの言説があるが、そのルネサンスの大きな歴史の転換と変化の時代の端緒を開いたのは、イタリアの地域都市である。彼らが、自らの足元において、現実への懐疑と抵抗がその発端となったのだ。

東京は地域と言うにはあまりにも大きな都市国家のようなものだが、今回都議選を相変わらずの国政代理選挙として見るのではなく、都民が都民自身の問題を都民のために決めていく、という視点から「豊洲」「オリンピック」の陰に隠れている様々な都民の問題を今一度明らかにしてい必要を感じる。もっと言えば、都民を形成するもっと最小単位としての市町村自治(基礎自治体)レベルでの転換・変化こそが、日本国そのものの転換・変化につながるのではないか。身近な事とは空間的に制限されたことをいうのではない。地域において、「憲法9条」或いは「国際政治」「国際経済」を堂々と議論しても構わないのである。