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当事者という意識

本号(会報4月号)の扉の「今月の断章 ワガコトとして(オイラーからラグランジュへ)」は非常に示唆に富んでいます。情報化社会の進展は、いつの間にか「思考する」ことから「選択する」ことに重点を置く社会となりました。それはシステムと言っても良いくらい我々の生活の隅々に入り込んでいます。「選択」は絶えず自らを客体化させることから始まります。「選択する”主体”」があるから主体的行動のように見えますが、日々の外部情報の波によって主体性は本来の自己を失い、その失った自己を「選択する」行為で「自己(と思われるもの)」を確認するという図式は、まさに現代社会システムにおける人間行為のプロトコルとなっていると言えます。抽象的言い方になりましたが、簡易に述べれば「当事者意識を失っている」と言っても良いでしょう。「当事者意識」を失えばそれは単に「主体無き客観性に身を任す(三島由紀夫)」しかありません。テレビに映る悲惨な画像を、酒を飲み食事をしながら視て、「反戦」や「平和」を訴えたり、時の権力や政府を非難する。弁舌豊かな或いは劇場的な感情移入の豊かなコメンテーターや、キャスターの語りが彼らの当事者意識を代弁してくれる。「今月の断章」でいうオイラー式とは「第三者的評価記述」であり、ラグランジュ式とは「当事者的評価記述」のことです。  国文者の蓮田善明(1904-1945)と文学者丹羽文雄(1904-2005)の逸話は今回のテーマを如実に物語ったものです。丹羽文雄は『海戦』という小説を書いていますが、彼(丹羽)は海戦の最中、弾が飛んでくる最中でも懸命にメモを取り、その戦闘の様子を描いた『海戦』を発表した時、蓮田は、〈本当の戦争〉を見ろと丹羽を非難しました。彼(蓮田)はこう言いました。「丹羽は戦ふべきだつた。弾丸運びをすればよかつたのである。弾丸運びをしたために戦闘の観察や文学が中絶してしまふと考えることも誤りである。弾丸運びをしたために或る場面を見失ふだらう、しかしもし弾丸運びをしたとしたら、そこに見たものこそ、本当の戦争だつたのである。」(蓮田善明「文学古意」)丹羽が当事者意識を捨て、「客観的な事実を冷徹に見る精巧なカメラ(三島由紀夫)」となっていたことに、文学者としての本当の在り方はどうなんだ、という鋭い問いかけでもあった訳です。戦争のような極限状態でなくとも、このようなシチュエーションは日常的にも見受けられるものでしょう。例えば、今問題となっている「森友学園」における首相夫人付き人においても「(法治国家における行政担当者としての)当事者意識」があればあのようなことは起きなかったのではないかと思われます。  「選択プロトコル」の社会システムが進めば進むほど「分業化」は並行して進んでいき、それはまさに「自己」の断片化であり、断片化されたピースをさらに選択することで再構成された「自己」とは果たして何でしょうか。幼少から外部情報にさらされ、与えられた情報を「選択する」技術を「教育」と称する社会から生まれてくる人間とは。どうすれば「当事者性」を持った思考ができるのか。 簡単な様で結構難しい問題です。

<低炭素都市ニュース&レポート4月号より>