現代社会の様相

少し政治的な話になります。多分誰もが、今の日本の状況について不安をお持ちでしょう。株価や円相場などの指標がいくら「高景気」を叫ぼうと実感としての「不景気感」は相当なものです。安倍首相は「国粋主義」を唱えながら、片方で米国への従属を世界に先駆けて率先しています。その安倍内閣では、多くの閣僚がその発言や行動が普通であれば辞任当然にも拘らず平然としています。いわゆる「森友学園問題」では、どうみても明らかに不正があるにも関わらず、国会における追求と議論は期待外れに終わっています。一方世界に目を向けると、トランプ大統領出現で「一国主義」に向かうかと思われた米国が、過激に軍事力を突出させ、「すわ戦争か」と脅かしながら、片方で交渉を行うチキンレースを行ています。フランスでは、「いまや右翼も左翼もない。あるのはグローバル対愛国」とルペン氏が述べ、国が真っ二つに分断されています。イギリスでは、「EU離脱」問題が結論が出たにもかかわらず未だにくすぶっています。

 さて、このように今の日本そして世界の状況を見てみると、「矛盾」したことが何故か堂々とまかり通る現象が続いています。このような状況についてさまざまな分析がなされてますが、どれも的を得ているようで、しかし釈然としない説明ばかりです。そしてそのように「わかりにくい」からこそ、「分かりやすい」説明が求められます。既存のマスコミはその「わかりやすさ」を提供する大きな存在です。その様な流れの中に「ヘイトスピーチ」或いは「北朝鮮有事」「憲法改正」などが次々と簡略化された記号の様な形式で説明されていきます。すべてが単純化された関係として、たとえば「政治」と「経済」、たとえば「宗教」と「科学」が、そして「戦争」と「平和」が語られます。その語りを保証する役割が「専門家」です。

 ここまで書いて気付いたことがあります。現代社会は、モノゴトを「自らが考えない」社会になってしまった、ということです。「自らが考えない」ということは、「私」という”主体(サブジェクト)”を”客体(オブジェクト)”化しているということです。グローバル化による社会システムの一元的統一化が、本来なら多様性と差異性に富むべき「個人」をそのようにしているのかもしれません。心理学にシステムⅠ(無意識・本能)、システムⅡ(意識・理性)という考えがありますが、ある心理学者によれば、システムⅡは「問題が簡略化されればされるほど人間は受け入れやすい」、という解釈があります。「理性が単純化されている」という表現なら分かりやすいかもしれません。冒頭にあげたいろいろな例を本来的な「理性」で思考すればもっと矛盾は解決するはずなのに、単純化された「理性」の思考がそれを阻み、結果として益々「矛盾」が深まっていくという不合理な繰り返しが行われている社会が今の社会と言えます。

 しかし、人間はそもそも機械ではなくそのように単純化された存在でもありません。人間が自らの中で本来ある「複雑さ」と外部からの「単純化」せめぎ合っているのでしょう。「不安」の要因はそのようなことから起きて来る現象と言えます。ロボット或いはAI(人工知能)に大きな期待と興味が膨らんでいる姿は、人間自身が益々「単純化」を目指す方向へ向かおうとしているようにも見えます。多分、その行き着く先には「全体主義」がゆっくりと顔を出して来るのでしょう。

 さて、皆さんの「理性」は果たして「単純化」されていませんか!如何ですか? 

<DAIGOエコロジー村通信5月号より>