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玄関でしゃべらせろ!

「森友問題」を見ていると「言葉(言語)」の持つ“いい加減さ”が見えて来るのだが、逆に言えば、「言葉(言語)」とは相当に奥が深いものだ、という風にも感じられる。世界のあらゆる存在のうちで、「言葉(言語)」を使うことでその存在を支えているのは人類のみだが、その存在の根本には「言葉(言語)」と「肉体(行為)」という二つの要素があり、そのどちらも主体にもなり得るし客体にもなり得る関係にある。歴史的に見れば、デカルトの「コギト(われ思うゆえにわれあり)」以後の人間社会がそのことを顕在化させた。デカルト以後、人間は「行為」と「言葉」の関係の様々な解釈を経る中で、その社会を今日まで進展させてきた、と言えよう。人間がこのような「言語」と「行為」の狭間で思い悩む様を、西洋もたとえばキリスト教、東洋もたとえば仏教、において「徳にいたらぬ存在」として描いており、そこに宗教がその宗旨(道徳)を滑り込ませることで「真実」という概念を構成している。一方、「法」は「事実」という概念(「事実」と「真実」は違う)を入れ込むことにより「正義(「真実」とはまた意味が違う)」という判断価値を行う分けだが、いずれにせよ、人間が人間のことを「信ずる」という行為は相当「怪しい」ものだ。とはいえ、ここで話を終えると、私自身が自らをこの現実社会からエスケープさせることになり、いくら趣味で「炭焼」をやっているからとはいえ、まだ“山中の仙人”になる訳にはいかず、まだまだ世迷人として「何が真実か」を探し歩くことを止める訳にはいかない。
 ということで、「言葉を弄する」というテーマの禅の公案の話を取り上げてみる。これは『雲門関(うんもんのかん)』という禅の名言の一つだ。唐の頃、ある坊さんが90日の説法の終わりに弟子たちに「仏法は誤って説くと眉やひげが抜け落ちるといわれているが、ワシの眉毛はまだ生えているか?」と問うた。すると弟子の一人は「賊をなす人は心虚なり(泥棒のようにビクビクしながら言葉を使い、真実を説くのが仏教者だ)」と答えた。もう一人は、「眉毛は確かに生えている(正しく説けばそれでよい)」と答えた。すると、雲門文偃(うんもんぶんえん)と言う禅師はただ「関(かん)!」とだけ答えその場を立ち去ったという。この公案の答えのヒントは「関(かん)」だが、“関”とは「玄関」の“関”のことだ。玄関とは家の入口のことだが、その由来はもともと入口ではなく、玄とは“玄妙”即ち、道理、根本の教え、真理の道と云う意味で、玄関とは玄妙なる道に進む関門、つまり仏門に入る入り口、般若の妙門であり、幽玄な神秘宝蔵の関門を意味した言葉である。禅寺では、客殿の入口にこの「玄関」という文字が掲げられ、「ここから先にはそう簡単には入れぬぞ!」という、いわば悟りの関所というのが「玄関」の本来の意味である。
「関!」と答えた雲門禅師が言いたかったことは、「言葉はどこまでも言葉でしかなく、どれほど多言、多弁を弄しても真実を伝えられるとは限らない。このように、言葉とはなかなか真実を超えることができないがそれでも超えていかないといけない。ならばどうするか!それは言葉が仏法を“体現”することしかない」ということだ。陽明学王陽明もこの公案をよく用いていたということだが、「言葉が仏法を体現する」とは、文字通り「言葉と行動の一致」ということだろう。「真実」に至る道はただ一つ。「言葉の体現」であり、それは「行為としての言葉」でなくてはならない、ということだ。
「森友問題」では、安倍晋三稲田朋美籠池泰典松井一郎など多彩な登場人物が多言、多弁を弄しているが、彼らの言葉の意味を観るのではなく、「言っていること」と「行為」の一致或いは矛盾だけを観るだけでよい。そこに「真実」がある。言葉を弄する職業である政治家にはどんどんしゃべらせることが真実への近道である。最後に、先述した禅の公案に引っ掛けるとしたら、玄関先のインタビューは結構効果があるように思える。記者諸君、組織、独立問わずジャーナリスト諸君は、是非「玄関先インタビュー」を心掛けてもらいたい。