炭焼党員の恋 

18世紀末から19世紀初めにかけて、イタリア統一前のナポリ王国に炭焼党という秘密結社が誕生した。この頃のイタリアはまだ複数の小規模王国が強力なオーストリア帝国に支配されていたが、時はフランス革命を経てナポレオンがその勢力を伸ばしている頃、その秘密結社は、この革命の影響を受けた自由主義思想の人々によって構成された。彼らはカルボナーリと呼ばれ、党員は自らを炭焼人としてお互いを秘密裏に識別しながら「イタリアを外敵から救う」運動を展開した。ところで、今日の話しはこの炭焼党の話ではなく、フランスの小説家、スタンダールが書いた『ヴァニナ・ヴァニニ 炭焼党異聞』の中の話である。スタンダールは『赤と黒』や『恋愛論』など、人間の内面を独特に描写する書き手だが、特に男女間の不条理にも彼の視点はあるように思う。さて、ストーリは、ヴァニナという社交界の絶世の美女が、炭焼党の脱獄囚の若者のピエトロ・ミッシシリと恋に陥るがその顛末が実に哲学的に味わい深い物語となっている。ヴァニナはその美しさから数多くの貴公子に言い寄られるが、彼女の気を引く男はなかなか現れない。ある時の社交界である貴公子から「あなたのお気に入る男は,いったいどんな人間だかきかせていたけませんか。」という問いに「その脱走したという若い炭焼党員でしょう」と答えるが、その後、図らずも父がその炭焼党脱走者を邸宅に匿っていることを知り、衝撃と感動を受ける。その炭焼党の脱獄者ピエトロも若者として、瞬く間にヴァニナへの恋心が芽生える。ピエトロはヴァニナに「祖国解放」を熱く語り、「祖国解放の為ならばこの命を捧げても惜しくない」と話すが、その熱く語るピエトロの言葉と瞳にヴァニナは、他の貴公子には無いものを感じ、益々魅かれていく。ヴァニナにとっては、ピエトロの「祖国解放」への熱情と自らへの恋の熱情は同じものとして最初は受け取るが、ピエトロが自分より祖国解放運動の方へ傾きつつあることを知るうちにヴァニナの心の中で葛藤が始まる。一方、ピエトロも「革命運動」と「恋」の間で悩む。ある時、ピエトロを首領とする炭焼党はローマ政府への反抗蜂起を企てる。ピエトロは言う。「もしこの計画が成功しなかったら、今度こそおれはいよいよ祖国を捨てて行くんだ」と。これを聞いたヴァニナはピエトロの名前だけを消した蜂起メンバーの名簿を政府にこっそりと渡す。ピエトロの言葉をヴァニナは彼女に都合の良いように解釈したのである。そしてピエトロだけが助かり他のメンバーはすべて処刑されたことからピエトロは深い自責の念で自首する。ヴァニナにとっては、ピエトロの自首は想定されていなかったが、彼女はピエトロを処刑から救うことに彼女自身のピエトロへの裏切りへの自責を清めるためにも奔走する。牢屋でヴァニナと対面したピエトロは、「私がこの地上で執着するものがあるとすれば、ヴァニナ、それはもちろんあなただ。だが、神様のおかげで私は生きている間、一つの目的しかなくなった。この牢屋で死ぬか、さもなければイタリアの自由を救うためにはたらくか」。このピエトロの言葉にヴァニナはピエトロの気持ちを振り向かせる最後の望みを掛けてこれまでの裏切りを一部始終告白する。しかし、この告白を聞いたピエトロは「この、人でなし」「おのれ、人非人、おれはお前のようなやつに何一つ恩に着るのはいやだ」という言葉を投げつけ、ヴァニナが渡した脱獄用のヤスリとダイヤモンドを投げつけるのだった。物語は、その後ヴァニナはある公爵と結婚したことで終わっている。
さて、ピエトロの情熱とヴァニナの情熱の違いは何であろうか。一気に「男と女の違いさ!」などと旧聞に付すような一般的結論に急ぐ必要は無いが、「祖国愛」という社会的情熱と「自己愛」或いは「自尊心」という個的情熱、権力の側に位置する女と反体制の男、実に様々な要因が考えられるが、「恋愛論」にも深く思考するスタンダールはこの短編小説で何を言いたかったのだろうか、という問いとともに現代における「男と女」の在り方の問題としても面白い題材のように思える作品である。 現代的解釈はそれとして、スタンダールが敢えて「炭焼党」という具体的な存在を題材としたことは、スタンダール自身が炭焼党の支持者であったと思われることや、『ヴァニナ・ヴァニニ』の副題には、「法王領において発見されたる炭焼党最後の結社に関する顛末」となっていることから、この当時のヨーロッパに吹きすさぶ革命の嵐の中での恋愛への考察を行ったのではないか。しかし、スタンダール自身が恋愛の情熱と社会的情熱とをどのように考えればよいか、結局この小説においてはその回答を出すことは出来なかったのだろう。彼は恋愛についてこう言う。『自尊心の恋は、一瞬にして過ぎ去る。情熱恋愛は逆である。』ヴァニナもピエトロも結局は自尊心の恋だったのだろうか!
小説は岩波文庫復刻版『ヴァニナ・ヴァニニ』で読める。興味あるかたどうぞお読みください。2時間もあれば読了できる短さだが、提起している”課題”は永遠の解けない問題でもあるようです。