観念と経験について

経験から観念が生まれるのか、観念が行為を決定し経験になるのか、有体に言えば「卵鶏論争」レベルの話にもなるが、実在する社会は全くカオス状況であり、そこには経験と観念がせめぎ合いと混ざり合いを絶えず繰り返している。我を主体として外を見れば社会は客体であり、社会を主体としてそこから我を見ればそれは客体となる。そのように主語と述語が絶えず反転する世界の中で、これまでの思想家或いは宗教家が行った思弁はある意味表裏一体にあるとすれば、それらを一元化する、或いは出来る「論理」というものを、言葉を変えれば「至高唯一の論理」を西洋人は有史以前から追求する努力をしてきたように思われる。その構造は継時的な縦糸として「宗教(キリスト教)」があり、共時的な横糸として「思弁・思想」がある壮大な切れ目のない織物のようである。そのような無限の織物を有限の人間が果たして完全に使いこなせる日が来るのか、織物が織物として最期の切れ目を作れるのか。今現在、西洋的な思考がその行きづまりを見せているように思われるが、実は際限のない織物を織っているのではないだろうか。その織物の柄は多分カノンなのだろう。