「パリ協定」の政治戦略と我が国

9月3日、米中両政府がCOP21で採択された温暖化対策「パリ協定」を批准したというニュースは耳新しいところです。日本ではオリンピック狂騒に遊び呆けた後に、またぞろ中国との軍事的緊張だけを一方的に報道する相変わらずのマスコミの姿勢が目立つ中で、この「パリ協定」批准に関わるニュースもベタ記事程度の扱いしか見られないように感じました。しかし、米中による気候変動枠組に対する積極姿勢は、相当に戦略的なものであることを我が政府は見抜くことができないくらい愚かというしかありません。6月の伊勢志摩サミットにおいてもこの問題は話し合われ、「2016年発効」と言う具体的目標が設定されたにもかかわらず我が政府は「静観」などと言い、また5日の菅官房長官は「具体的な時期については現在、政府で検討中であるが、できるだけ早くと考えている」などとのんきな記者会見を行っています。米中がこれまで地球温暖化対策に背を向けて来たことから180度の転換を図ったことは大きな衝撃であり、これまで1992年の地球サミットアジェンダ21からおよそ四半世紀の時間を掛けて、「地球温暖化問題」は「科学」「経済」の枠から「国際政治」の枠へその本質を変えることになります。
今回の米中批准について、表面的には、米国はオバマの政治的遺産としての置き土産であり、また習近平路線の国内締め付けの手段と言う見方もありますが、それは文字通り皮相というものでしょう。今、世界政治は中東における混乱や極東の緊張など軍事的緊張を拡大するなかで、IMF、WTO(GATT)、NATOなどおよそ半世紀以上経った世界システムの枠組みの変動が静かに進行しています。 世界の警察官を任じた米国が単独主義への意向を模索する一方、ロシア・中国等の新興経済国(BRICS)が台頭、上海協力機構など脱欧米型同盟も誕生する中で、中国が中心となったアジアインフラ投資銀行(AIIB)が立ち上がったことは、いわゆる世界構造の多極化(脱欧米中心主義化)であることは間違いありません。そういう流れの視点から我が国の世界における動向をみると、「日米同盟」という旧式枠組みへの絶対的固執以外の何ものでもなく、更にそこには国家としての世界戦略を自ら描くことなく、宗主国たる米国への追従という独立国として恥ずべき対応と言わざるを得ません。今回の「パリ協定」の米中批准は、このような世界政治変動の中で行われたものであり、米中による世界的課題への共同化の動きとしてそれは評価することができるでしょう。
後先になりましたが、中国、米国という世界1位、2位の温室効果ガス(GHG)排出国が同時に締結・批准を行うことの意味は、今後のCOP22以降のヘゲモニーを両国が取るという意味でもあり、それは、「パリ協定」の目指す21世紀後半までの脱炭素化(正味ゼロ排出)という最終目的地を国際社会が共有し続けることの宣言とも言えます。具体的には、米中双方とも、「長期低GHG排出開発戦略」を発効目標の今年中に策定・発表することで合意しています。翻って我が国では、やっと環境省経産省で専門委員会がたちあがったところですが、米中が明確に2025年目標(米国)、2030年目標(中国)を掲げる中で、我が国は、2050年目標という神仏への願いのような態度であり、「温暖化対策は非常に長期的な問題であり、2030年まで頑張ればいいのではなく、もっとその先まで、今から100年以上かけて取り組まなければいけないという問題意識が必要だ」(地球環境産業技術研究機構 山地憲治所長)などという言い訳に終始しています。
「パリ協定」においては、もう一つ「温暖化による気温上昇を産業革命前に比べ2度より十分低く抑える」という長期目標があります。これによる、新たな温室効果ガスとしてハイドロフルオロカーボン(HFC)や航空部門からの排出取り組みなども議論が検討されることになっていますが、これを先述の「政治的」から見ていくと、自国へ有利な状況をCOPにおいて決定するという米中両国の思惑があるのは間違いないでしょう。そこには、「温室効果」のある「行為」そのものに「規制」を掛けていくという政治手法、それを科学技術の独占化・寡占化による世界標準へ囲い込んでいくという深謀遠慮の政治戦略を見てとれます。そもそも、先述の1992年地球サミットにおいては、人類共通の地球環境の保全と持続可能な開発実現としての課題として、生物多様性酸性雨、オゾン、温室効果、、、と様々な地球環境影響要因がパラレルに議論されましたが、特に二酸化炭素をターゲットにしたのは英国を中心としたEUの新しい金融取引の創造の狙いがあったと思われます。現状では排出権取引市場は彼らが目指したほどの成果を上げてはいませんが、今回の米中協定により、排出権取引を始めとする「CO2の貨幣価値」をめぐる様々な議論が活発化されることは間違いないでしょう。
ふり返れば、「京都議定書」という世界的ネーミングを頂いたにも関わらず、我が国はそれを活かすことが出来なかったのははなはだ残念に思います。「おもてなし」や「スーパーマリオ」も結構ですが、「京都議定書」の失敗を、米中不参加と言う当時の事情を根拠にするのは、今回の真逆の状況を見れば、21世紀の世界を想像俯瞰する知恵が我が国にはなかったということでしょう。現政権は良く「未来への投資」という言辞を多用しますが、果たして本当に彼らは「未来」を深く広く且つ戦略的に思考(・志向)しているのか、はなはだ疑問と言わざるを得ません。
最期に、「科学と政治」について一言。科学が政治に利用されることは近代以降否定できない事実です。しかし、「象牙の塔」或いは「専門家(領域)」という現実社会との関係性を意識的或いは無意識に断絶した中では、「科学」自体の進歩もありえないのではないでしょうか。確かに「政治」はイデオロギーの対立をその本質の一つとしていますが、「科学」がそのことを避けて傍観者となるのではなく、積極的に「政治」に関与していくべきだと思います。この点については、古くはマックス・ウェーバーから現代に至るまで、様々な議論がなされていますが、非常に興味あるテーマです。